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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年3月号

2015年3月号 (2015/03/14) ヒストリー

名画友の会 三谷堅一
 NHKの番組に「ファミリー・ヒストリー」というのがあります。主に芸能人などのゲストの家族をNHKの特別チームが三~四代さかのぼって祖父母、曽祖父母あたりからの家族の歴史を詳細に調べた資料を発表するのですが、当日、出演している当のゲストはその発表される内容の大半を知らなかったり、あるいは初めて見聞する内容が多く、ゲストは驚いたり笑ったり感心したり、悲しんだりします。
 平均すると、約百年位前からの家族の歴史の発表です。さて、それで今回は身近な名画友の会のヒストリーをまとめてみたので、その概要を発表してみた次第です。
 名画友の会は二〇〇〇年九月十六日、リベルダーデにあったレストラン「ボーデバルデ」で発足しました。発起人は五十嵐司氏、千葉周也氏、松平和也氏の三人。二〇一五年一月現在、五十嵐司氏は発足以来変わらず会長として現職に(熟年クラブの会長でもあります)。千葉氏は程なく日本へ帰国。松平氏は去る二〇一四年十月二十二日に七十七歳で病気の為、他界されました。
 会の発足の翌月、二〇〇〇年十月十日には会報第一号が発行されましたが、この会報の発行は松平氏が原稿、編集、印刷のすべての業務を一〇〇%担当。そして会報の発行は二〇一四年七月十日発行の第百六十六号まで続きましたが、百六十六号以降は松平氏の病気入院で、残念ながら途絶えてしまいました。
 映画の上映は二〇一五年一月十日までで約三百三十回を数えます。ちなみに第一回の上映は「無法松の一生」と「モロッコ」でした。作品は当初ビデオテープでしたが、以後DVDのディスクとなりました。この作品のすべては会長の五十嵐氏と副会長の松平氏の所有されている膨大なコレクションの中から提供されています。
 次にこの上映会に出席された人たちの概要ですが、当初はかなりの人数の方が出席。多い時には百二十名を超すような事もしばしばでしたが、何しろ出席されるのは一世に限定されるので、平均で約三十~四十名前後が多かったようです。ちなみに二〇一四年は二十三回の上映で総計は延べ三百三十一名で、一回の平均は十四・三名。少ない日では八名という日もありました。(注・この日は他の催しが多く重なった)。
 現在、会場の使用料として、一回に七十レアルを支払うので、当日の出席者から会員からは六レアルを頂いていますが、最低十二名の出席者でやっと支払いがOKとなりますが非会員からは八レアルを頂いていますので、辛うじて大きな赤字は免れています。自身が会計をやっているので、ついお金の事になりました。
 最期に私自身に関連して・B私は名画友の会発足から二年を経た二〇〇二年九月に初めて出席。この日の上映は「シェーン」と「となりのトトロ」でした。以後、残念ながら未だ仕事をしていたので、時々しか出席できず二〇〇五年十二月に当時会計を担当されていた峰村康氏が急死され、二〇〇六年一月にとりあえず臨時にという事で会計の担当を依頼されましたが、以後、今日まで替わってもらえず現在に至っています。
 俗に「十年ひと昔」と言いますが、名画友の会のヒストリーは今年二〇一五年で十五年と、ひと昔半のヒストリーになりました。
 この十五年の間、他にもたくさんの関係者のお世話で会の運営は続けてこられました。現在、常連だったのにその姿を会場で見られなくなった多くの方たちは、病気、予期せぬ事故などで来られなくなった方が数多おります。上映された映画以上にヒストリーの中の一面でもあります。


思い出の歌

リベロン・ピーレス錦友会 赤木竜己
 私は昭和七(一九三二)年、父母と兄、姉二人の六人で移住しました。最初はパウリスタ線のガルサに入植しました。四歳の時です。
 その後、同じパウリスタ線のポンペイア日昇植民地に移転しましたが、その頃のことです。
 汎ポンペイアの学芸祭があり、周辺の日語校が六~七校集まったと思います。その時、上級生の女生徒が二人で「美しき天然」を踊りました。白いドレスで舞い踊る姿はまるで天女のように気高く美しく、少年だった私の心に焼き付いたのです。哀調を帯びた調べといい、その歌詞の美しさが懐かしい故郷への思いと重なって、今でも昨日のことのように思い出されます。
 毎年、八月に文協で行われています「日本人の心の歌」というショーがありますが、今年はこの歌をリクエストしてみようかと思っている所です。
 「♪美しき天然」の作曲者は、佐世保海兵団軍楽隊長だった田中穂積。田中は私立佐世保女学校の音楽教師で、かねてから長崎県九十九島の美しい景観をモチーフとした曲を作りたいと考えていた所、武島羽衣の詩と出会う。武島は東京高等女子師範の教師で滝廉太郎の「花」などの作詞者としても有名。この曲は日本最初のワルツ曲で「天然の美」または「美しき天然」と呼びならわされているが、正しくは「美(うるわ)しき天然」。明治三五(一九〇二)年完成。
 以下、歌詞を紹介。

♪美しき天然♪
1 空にさえずる 鳥の声 峯より落つる 滝の音
  大波小波 とうとうと 響き絶やせぬ 海の音
  聞けや人々 面白き この天然の 音楽を
  調べ自在に 弾きたもう 神の御手の 尊しや
2 春は桜の あや衣 秋はもみじの 唐錦
  夏は涼しき 月の絹 冬は真白き 雪の布
  見よや人々 美しき この天然の 織物を
  手際見事に 織りたもう 神のたくみの 尊しや
3 うす墨ひける 四方の山 くれない匂う
  横がすみ  海辺はるかに うち続く
  青松白砂の 美しさ  見よや人々 たぐいなき この天然の うつし絵を
  筆も及ばず かきたもう 神の力の 尊しや
4 朝に起こる 雲の殿 夕べにかかる 虹の橋
  晴れたる空を 見渡せば 青天井に 似たるかな
  仰げ人々 珍らしき この天然の 建築を
  かく広大に 建てたもう 神のみ業の 尊しや


こぼれ話

 昨年来の水不足、カンタレイラ貯水湖はわずかに貯まり始めたようですが、まだまだ水底に少しだけ、という状態ですので節水は続けなければなりません。
 先月、熟連に来ている人たちに「節水をしているか?」と尋ねましたら、真剣にしている人もいるのですが、こんなに騒がれていても何もしていないという人が大変多くてびっくりしました。案外、他人事なんですね。
 今は雨期、毎日のように雨が大量に降っていますが、雨水を貯める時は必ず器に蓋(ふた)をすること。これをしないと、ボウフラが発生して、却ってデング熱の発生源を作ってしまうことになります。ボウフラの発生を防ぐには、日本の神社やお寺では十円などの銅銭をたまり水に入れると良いと言います。試した人がいて、確かに良いようですが、どのくらいの水にどのくらいの銅を入れたら良いのか不明です。
 俳句の選者の樋口先生の所には百五十mの掘り抜き井戸があるそうで、水には困らないのですが、驚いたことに近所の人や遠くから車で屋敷内の畑の中に入って堂々と昼間から水を盗みに来るそうです。一言の断りもなしに取口の水の蛇口をひねって、ポリタンクに入れているそうで、開いた口がふさがらないと言っていました。
 水の話が出たついでにトイレの後の手を洗った時に使う紙ですが、普通、二~三枚は使ってしまいますが、手を振って水を切ってから使うと一枚で足ります。ほんのひと手間ですが、国で考えたら何十万トンの節約になります。ここはひとつ日本人の「もったいない!精神」を示すしかありませんね。


チビばあさんの旅行(2)

サンパウロ中央老壮会 矢野康子
 サンフランシスコは小さい街で、一二〇k平方メートルしかないそうである。
 そこにあのチンチン電車が走っている。結構な坂道を鈴なりに人がぶら下がって走る。世界で一番古いケーブルカーだそうだが、未だに一度も乗ったことが無い。息子に言わせると「ママイには無理」。発着所はいつも長蛇(ちょうだ)の列で、じかんがもったいないそう。孫に「いつかパパに内緒で二人で乗ろうね」と。約束してある。
 ゴールデン・ゲイト・ブリッジも遠くで眺めるのはいいが、歩いたら大変。結構風が冷たいので、カフェに飛び込んで、熱いチョコレートを飲んで、体を暖める。ブリッジは直径一メートル位のケーブルで吊り下げられていて、絶えず揺れている。そのケーブルを輪切りにしたものが、橋のたもとの公園に飾ってあるが、中には細い銅の針金がぎっしり入っていて、こんなになっているのかと驚いた。
 「ジャパンタウン」と言われる日本人街にも必ず行く。DVDの大きな店があるので最新の映画を探しに行く。店員に頼むと、コンピューターですぐに探し出してくれる。やっぱり大したものだと感心する。回転寿司やラーメン、うどん、定食屋などなど選り取り見取り何でもある。
 チャイナ・タウンに行けば美味しい料理が安く食べられて、私のお気に入り。必ず行くのは、フィッシャーマンズワーク。漁師の船着場だった所で、ピア という所が有名。カニやエビ、カキの料理が美味しい。クラムチャウダー(小鍋ほどの大きさの丸いパンの上部を切って、中をくり抜き野菜や魚介類をクリームで煮込んだスープのような食べ物)は毎回、食べる。食い意地が張っている私はサンフランシスコに来るといつも美味しい物を求めてキョロキョロする。だからピア は大好きだ。何年前だったか忘れたが、アルカトラズ島にフェリーで渡ったことがある。昔は刑務所だった所で、ピア から見ると、すぐ近くに思われるが、潮流が速いし、水温が冷たいために泳いで脱獄できないことで有名だったという。あのマフィアの親分、アル・カポネも投獄されていたそうである。日本人ガイドの話では今までに脱獄できたのは、三人だけだそうだ。
 連邦刑務所はそのまま残っていて、独房などはベッドや毛布や洗面器などが観光客のために置いてあった。事前に調べたら、売店で囚人が着せられていた白と灰色の縦縞の服を売っているというので買いたいと思ったが残念ながら売り切れだった。
 ここのかもめは図々しく人間の後を付いて回って、追い払っても逃げない。昔ここにいた囚人たちと同じ心境なのかな、人が恋しいのかなと考えて、苦笑いした事を思い出した。
 「サンフランシスコに行って来ます」などと言っているが、息子の住んでいる町はヒルスボローという小さい所である。東京ディズニーランドと言われているが、本当は千葉にあるのと同じ。
 この町は住宅街で、市庁などはどっしりしているが、普通の家屋。警察と税務署と消防署と小中学校があるだけ。高校は隣町に行く。市は家屋税だけでまかなっているそうだ。息子の家の裏にある中国人の家はまるで城みたい。左隣の家はロシア人でプール付き。「散歩がてら家を見てこよう」と言うと、息子が「ダメダメ。見知らぬ人物がウロウロしていると、すぐ警察が飛んでくるよ」。こういう町はセキュリティーがしっかりしていて、サンパウロでは考えられないほど、ゆったり安心していられる。
 樹木に囲まれた広い庭に花壇があって、大きな犬がこっちを見ながらゆっくり歩いている。今回は冬だったので、あっちこっち食べ歩きで終わった。ちょっと残念!


孫バカ

サンパウロ中央老壮会 新井知里
 最近の長野県の新聞の特別企画に「親バカ大賞」の応募が大きく載った。
 わが子を自慢して写真を載せるという。それを見て私も急に孫のことをバカになって書きたくなった。
 初孫のケンは今から十八年前、私がちょうど宮中歌会に招かれて、宮中にいた時に生まれた。この子は我が家からあまり遠くないメトロの駅ビラ・マリアーナの近くに住んでいる次男の長男である。背丈は一m八〇㎝近くあり、小さいころから落ち着きのある子で、勉強ばかりでなく、音楽が好きでバンドを作り、ギターを弾き、人前で歌も歌う。私の下手な歌もすぐピアノで弾いたりもする。ケンの母親は三世で、両親とも医者をやっている。彼が九歳の時、ベージャ誌に子どもの能力を試す試験の広告があり、昔、予備校をETAPAでした父親が連れて行ってみた。結果発表でサンパウロ一となり、ケンは月謝入らずの特待生となり、ETAPAで勉強することになった。
 十四歳の時、ケンは突然、「大学はアメリカでする」と言って、休みを利用してアメリカに旅立った。が、元気で行ったはずの子が、ニューヨークの空港でボストン行きを迷って、泣き声で母親に電話してきたそうである。だが、無事にボストンに着き、それから毎年休みのたびにボストンへ行き、三年になると向こうの学生と変わりなく受験できるようになった。高校三年の年は、物理オリンピックにブラジル代表の五人の中に選ばれ、デンマークに行き、天文学のそれでもギリシャに行って、銀メダルを頂いてきた。
私たちにもお土産にコペンハーゲンの人魚の像を買ってきてくれ、サーラに大切に飾ってある。
 この子が毎週日曜日に妹と我が家に来るたびに日本語を教え、「ケン、お婆ちゃんはまだアメリカを知らないから、ケンが見せてよ」と頼んだ。するとケンは無言でニコッと笑って私を見ていた。
 トカンチンス州都パウマスにいる長男の孫も昨年は出聖してきて従兄弟同士、同じクラスで大学への勉強をした。こちらも同じ工科を選び、十七歳でブラジリア国立大学に入学した。ブラジリアまでパウマス空港から一時間である。
 ケンは望みのアメリカの有名校五校に受かった。コロンビア大学など招待のために旅費まで送って来た。両親は喜んで三人で五校を見学するためにアメリカまで行って来た。
 結局、ケンの選んだのはロサンゼルスから四十キロにあるカリフォルニア工科大学である。この大学は四年連続で世界大学一位という。今まで三十人以上のノーベル賞受賞者を出している大学である。先日のニッケイ新聞の世界大学ランキング発表によると、USPは二百三十番ほどで、一位カリフォルニア工科大学、二位ハーバード大学、三位オックスフォード大学とのことである。
 九月にはケンは一人で旅立った。だが、十一月には父兄会があるという。母親は下の女の子がまた受験なので目が離せない。私たちに自分への招待を譲ってくれ、結局、祖父母が大学を見学できることになった。夢のようである。次男の計画で、ケンの案内でアメリカが見られる。早く見てみたい、その有名な大学を。
二〇一五年一月、主人は傘寿、私は喜寿。一介の移民の孫が世界一の大学に入学できたことは私たちにとって子の上ない喜びである。乾杯!と腕を高く上げたい。
 ちなみに乾杯とは、神様に対してありがとう、ということらしい。


今も使う古い文字

書道教室指導者 若松如空
 私は好んで古い文字を書いている。「何で古い文字を今頃?」と聞かれることが多い。私が毎年サンパウロ新聞の一月元旦号に書いているのは、金文(きんぶん)か篆書(てんしょ)という中国の古い文字である。
 これらの文字は日本の大きな展覧会にはよく出展されていて、人気も高い。現代の字でない珍しさもあって、却って新鮮(しんせん)に見えるらしい。
 現代の建築物では書道作品を壁に飾る事が少なくなった。そして、洋画が掛けられている風潮だが、金文や篆書の作品は意外と洋間にも適しているという愛好家が出てきている。
 古い文字を生徒に教える時に、私はまず日本の通貨、すなわちお札を見せることにしている。どんなお札でも、つまり、千円、五千円、一万円と、どの金額でも篆書と隷書(れいしょ=篆書の後に出た字)が書かれている。
 赤色の丸印の中にあるのが、篆書で、「総裁の印」と書いてある。これは日銀総裁のハンコだ。どの金額の札にも同じハンコが押されている。そして、千円と大きな文字があり、上に「日本銀行券」、下に日本銀行」とあるのが隷書の字である。「こんな古い字は勉強したくない」と言った生徒もびっくりする。「今でも使っているのか!」と納得してくれる。
○篆書(てんしょ)
 篆書を中国の公式な文字と決めたのは、万里の長城を建設した他、尺度(しゃくど)や車輪(しゃりん)の幅などを決めた始皇帝(しこうてい)で、紀元前二二一年のことだ。
 書道の一分野に篆刻(てんこく)という芸術がある。毎日書道展では大事な分野として扱われている。簡単に言えば、ハンコの芸術。篆書を石に彫るもので、方寸(一寸四方=約三センチ四方)の芸術とも言う。
 名前を印に彫るのは、その中の実用的な仕事で、書道、水墨画、墨絵などの署名に不可欠な印がそれだ。当地では私もこの仕事をやる。印は生徒の作品にも欠かせないので、私が彫るしかない。
 数年の授業で私の他、数人の人が彫れるようになった。芸術作品としては、遊印と言って、好きな言葉、詩などを彫り入れる。有名展覧会に出品するには、大きな石を使う。十センチ四方、厚さ五センチのものが普通である。名前用のハンコは最近では手作りでなく、機械で彫られるが、昭和以前では、銀行に使う実印はすべて手作りの物だった。手作りの印は真似るのが難しいので、安全だと考えられた。
○隷書(れいしょ)
 隷書は篆書の代わりに作られた字である。 篆書は大変複雑なものが多く難しいため、これを簡略(かんりゃく)して書くことが流行し、この字の方が一般的になってしまった。前述のお札の字を見て頂ければ解るように、横線の最後の部分が引き上げられるハタクという書き方に特徴があり、ほとんど平たい字型になっている。
 日本では神社や仏閣の額や門の入り口の字として多く使われていて、権威(けんい)ある風貌(ふうぼう)を保っている。
 お札も日銀総裁や日本銀行の権威に合った文字として使われたのであろう。
 この字の後に草書、行書、楷書と繋がり、紀元五〇〇年頃の唐の時代に全体の文字の完成を見たのである。
 文字のなかった日本に入って来たのもこの頃で、時と共に日本化の道を辿り、漢字の和様化や大和言葉を漢字に当てはめた万葉仮名、さらにかなの創生へと発展した。漢字をカナに姿を変えた労力は文化革命にも等しい偉業である。
○書への影響
 金文、篆書、隷書にはそれぞれ特徴がある。この特徴は時代と共に受け継がれて、現代の書を築き上げてきた。色々な書き方が組み込まれているのである。
 この「特徴の伝承」を簡単に見ることができるのが入筆(字の書き始めの筆の入れ方)の観察である。現在、蔵鋒(ぞうほう)と呼ばれる。入筆は筆の先端を隠して丸く入り、柔らかな感じを与える書き方だ。これは金文の入筆から始まっている。その後のすべての字に使用されている。これが書けないと、行書や草書が書けない。私はだから書の教えは金文から入るのが良い教育方法だという持論を曲げない。問題はこれまで学校では書道教育は漢字、しかも楷書を書くことから始まる。ことさら、ブラジル人に教える時、漢字に慣れない人たちには解かりにくい。楷書は長い歴史で出来た最後の完成品で、最も難しい複雑な書き方の集まりなのである。


笑いの止まらない旅の話

サンパウロ中央老壮会 村松ひさ子
 主人と二人で二泊三日の予定で、ある温泉郷に行った時のことである。
 そこはだいぶ昔からの観光地で、各種の名所があった。近くのキリスト像の立つ高い山には、四人乗りのケーブルカーが設置されていた。私たちはそれに乗ることにした。順番が来て、初老の伯人女性と、その孫らしき女の子と相乗りになった。
 動き始めると、四方のガラス窓から全景が見え、「素晴らしい!」と思った矢先に、乗降する戸が開いたのである。閉めようとしたが、どうしても閉まらない。動かないようにしておれば、何分かの後には頂上に着くはずでもあったが、突然、主人が「アッハッハッ、アッハッハッ」と笑い始めたのである。ふだんあまり笑わない主人がどうしたことかと思った。
 相乗りの女性にも失礼と思い、止めようとしたが、どうしても止まらない。結局、彼は頂上に着くまで笑い続けた。四人で降りた時、彼は、女性に謝っていた。
 私は「主人は今、正気に戻ったのだ!」と気が付いた。ちなみに彼は、高所恐怖症(こうしょきょうふしょう)である。
 事故にはならなかったが、忘れられない旅の思い出である。


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