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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年4月号

2015年4月号 (2015/04/12) こりゃあ驚いた!日本人の楽観気質

カンピーナス明治会 樋口四郎
 何故だろう、遠く離れた日本の裏側から母国を観察しておりますと、何故かイライラするのです。特に最近のインターネットNHKテレビ国際放送等々を見聞致して居ります。
3・ 東日本大震災(東北地方)から早や四年、各地で震災被害関連死者、一万七千人、岩手県、宮城県、福島県、等々の代表的被害地、地域では犠牲者追悼の式典が国家、県、市を始めとする自治体で、大多数のご参加のもと、しめやかにも全国的に鎮魂の法要が執り行われました。
 この模様はテレビ、インターネットにより全世界、津々浦々まで放映致され、我が養国ブラジル全国でも、哀悼の意を捧げられました、我家でも三月十一日は謹んで供養させていただきました、実況放送には涙なくして見聞出来ませんでした、被災ご家族の困窮は計り知れず、如何ばかりかとお察し申し上げます。
 自然災害国日本は「火山噴火地帯」の上に、位置する致命的環境に、常に「震災危惧」の宿命を背負って生きて居ります。申し上げるまでも無く危険極まりない国土なのです。これぞ神のみぞ知る島国日本、常に災難と隣り合わせを肝に銘じて進まねばなりません。
 その日本に災難が襲い罹ったのだ。地震だけでは無く未曾有の強大津波まで襲い掛かって来た。これは致し方なしの境遇でした。が「予想が甘かった」、常に危惧せねば成らぬ特大津波に襲われ、慙愧(ざんき)に堪えません。「科学先進国」に眼がくらみ自惚れ(うぬぼれ)過ぎた、津浪に「原子力発電所の放射能」を甘く見て居たのだ。
 これは迂闊(うかつ)であった経済優先の日本国民。団子に目が霞み、放射能事故なる化け物を失念されていた。現実に被災なされた方々には正に青天の霹靂(へきれき)だろう。国家、政府の絶対安全神話を市民は過信過ぎた。いや、うまうまと騙されたか、金に眼が眩らんだか。広島、長崎の被爆検証は如何な物か知らないとは言えまい。
☆☆ 「だから私は皆様に失礼を省みず大声で叫びたい」。☆☆ 喉元過ぎれば熱さ忘れる「日本人は」何と自慢する割には自惚れが過ぎるのだ。私は思う。日本人は「口と腹が違う」毅然とした信念は、相では有りませんか。毎年毎年、終戦記念日には国家が騒然となる程、原発反対を叫び知るや「知らずや」知らなかったとは今更言えまい。
海外移住者は聞き耳は持ちません。元自民党総裁、総理大臣の小泉純一郎元首相さえもが放射能問題には断じて承服出来ぬと、原発反対をブチ上げて居られる。私は終戦後より、自民党には改まって反対しては来なかったが、「国民の優柔不断的、事無かれ主義は」八方美人でしかありません。そんな思想は結果的にはマイナスにしか成りません。
原発に限っては、絶対反対を支持して参りました。日本の科学力は原発エネルギーに頼らずとも、日本国民族の沈没はあり得ないと信じております。化石エネルギーが全てではない位の事は今の科学者は既にお見通しです。心配ご無用「水素元年」成る動きも活発では有りませんか。日本人は「エコノミック・アニマル」にまで堕ちては居ないのです。
東日本地方「大震災犠牲者、追悼祈願法要」大会は今年も大々的でしたが、事故現場の方は復興処理行動はその場しのぎの見かけ倒し、我々が予想して居た事が現実と成り、やはりまたかと成った。その通りに成った。誰が東京電力幹部に給料を支払うのか。私なら払わない。原発職員の頭脳はそんなに価値が有る集団とは思わない。
事後処理の手緩さ四年間も何をしておられた? 放射能が怖くて現場には近ずけなかったか。何の為の責任者か。高級取りの方便か。それに引き換え犠牲者の命は使い捨てに過ぎぬ。ああ、、、日本国庶民が惨めに見えて成らぬ。術からず日本人もこんな程度ですか。
「日本帝国戦時国家の再来だ」、下級労働者(下級兵士)は使い捨ての運命なのか、「御国の為か」国家は人口増加で成り立つ、只、産めよ増やせよの掛け声だけでは国民は、生きて行く自信が無い。それ相応の施策を御考え下さい。世界中に御金をばら撒くのに「やぶさか」ではないが、民は国家の宝成りです。
サテ此処まで長々と母国民の悪癖をならべました。私達の孫、子孫が今後多少成りとも世界平和に貢献し日系ブラジル人として両国の融和を図り、「日伯文化交流、親善」を目指して呉れるものと、信じつつ何れ、此の地に爽やかに眠れば最高の移民人生と致しましょう。
 ☆ 本日は長々と失礼しました、次回は嬉しい、楽しい、懐かしい、お話でも書いてみましょうか、皆様 御元気でご機嫌麗しく左様うなら。


危機一髪

サンパウロ中央老壮会 村松ひさ子
 今年の一月のことであった。しばらく旅をしていなかったので、主人とカルダス・ノーバスの温泉に行くことにした。
 三日前に二人でチエテのバスターミナルに行き、切符を買った。それには三日後の日付と「09」番から出るように書いてあった。
 当日、時間に余裕をもって、息子に車で送ってもらい、チエテ駅に着いた。すぐに二人で「09」番の乗降口にエスカレーターなどを利用して行った。
 着いた時、時計を見ると、発車時間までに一時間半位あったので、ベンチにかけて待つことにした。
 一時間ぐらい経った時、主人が近くの人に確認をすると、「この切符の番号はここではない」と言う。「『09』ではなく『69』番だ」と言うのである。私たちはペン書きの「6」が大きく書いてあったので「0」と読んでいたのだ。横づけになっているバスの運転士にも聞くと、やはり「69」番で、「その番線に行かなければならない」と言われた。
 それから私たちはそこへ向かって急いだ。主人は膝が良くないので、リックだけで私は中型の柄付トランクを引っ張っていた。それは平たんな所とエスカレーターだったら、私にも持てるものであった。
 エスカレーターの所まで行って上がり、その番線に近い所をやっと探し、乗降口のある番線に下りようとして、エスカレーターを探したが、発車時間まで十分位しかなくなり、慌てた。
 その番号のある番線に下りる歩道階段はあった。主人は「時間が無いのだからここから降りよう」と言う。私が躊躇(ちゅうちょ)していると、気短かな彼は「俺がトランクも持つから」と言う。私は彼の足のことを考えて、頼めないので、意を決してトランクを持って降り始めた。すると、私の後ろにいた体格の良い黒人女性が「持ってあげるから、前を歩きなさい」と言う。私はとてもありがたく思い、後ろを振り返りながら、階段を降りた。下に着くと、女性は笑顔でトランクを渡してくれた。
 「主人は?」と見ると、だいぶ後ろから着き、私が早く降りた事を知って、驚いていた。だいぶ近い番号まで来ていたが、バスの近くにいる運転士らしき人に聞くと、「次の番線だ」と言う。私たちは時間が迫っているし、また、上に上がることになるので、困惑(こんわく)していると、その人は「直接、横切って行こう。付いて来なさい」と言って、私のトランクを引っ張って、三十メートル位先に番号が見える所まで、連れて行ってくれたのである。バスは発車寸前であったが、無事に乗る事が出来た。
 このターミナルを今までに二、三回利用したことはあった。ここはコンゴーニャス空港より広く立派だと聞いていたが、今回、実感したのである。偶然、二人の良い人にも会い、有り難かった。あとは三泊四日を何事もなく、ゆっくり過ごす事が出来た。


船旅

サンパウロ中央老壮会 今井はるみ
 八十歳 今しかないと 船の旅
俳句になっているかしら? 語呂(ごろ)が合うように八十歳にしました。
 私が八十歳より若いか、年を取っているかは皆様のご想像にお任せします。さて、本題に戻りましょう。
 思ってもいなかった船旅に出たのは、いつもお世話になってる旅行社の人に、ある公園で捕まってしまって、「モンテビデオとブエノスアイレスへの豪華船があるから」という事から始まったのでした。
 「な~るほど」とうなずけるほどのすごい船でしたね。千二百人ほどの従業員が船中で働き、三千人のお客様の世話をして下さるのです。ベッドメーキングというか、部屋の整頓(せいとん)が朝だけではなく夕方にもしてくれるので、ベッドの上に下着など放りっぱなしに出来ないのですからね。びっくりですよ。
 食事は三食の他に十時と三時のおやつも用意されているのですが、何時に行こうか、飲み物とフルーツとケーキはいつもありました。
 言うならば、船での生活を楽しむという旅でしたが、救命具(きゅうめいぐ)を着用した避難訓練(ひなんくんれん)もあり、これは初めての経験んでしたから、私にはとても興味深い事柄のうちに入り、忘れられない思い出の中に入ります。
 船中では、早朝の体操をするグループ、またジョギングの人たちや一日中催されているダンスの講習やゲーム遊びもあり、そうかと思うと、子どもたちだけの催しもありで、退屈(たいくつ)する暇(ひま)もありません。
 その上、三カ所にあるプールに暖かいジャグジーも三カ所設置されており、お年寄りは温泉気分を静かな波の上を走る船中で楽しめるのですよ。
 まぁ、このようなリラックスした船の生活では、老若男女の水着姿を昼も夜も眺めるしかありませんでしたけれど、ここでひとつ面白いことに気が付いたのです。
 ブラジルと言えば、リオデジャネイロのカーニバルが有名ですが、そこで見られるような、素晴らしい肢体の人は見かけなかったのですよ。つまり、お下品と言われるかも知れませんが、シワのないふっくらとしたお尻の人は本当に少ないのに驚きましたね。三千人のお客様のうち、三十人、つまり百人に一人ぐらいしかいないのですから…。残念ながら、この中に私は入っておりません。
 話は変って、モンテビデオとブエノスアイレスでは、八時間内外のバスツアーが組まれており、希望者は軽装で見物に出かけるのですが、出かける前は「たったの八時間で何が見られるのかしら?」と思っていたのに、終わった後はちゃんと見るべきものは見たし、買い物もしたし、と満足しました。
 特にモンテビデオは平地の国で、五百メートルの高さの山が一つしかないという山も見ましたし、町の見物の他にワイン工場の見学もでき、工場主一家総出のおもてなしは心がゆき届いており、お礼としてシャンパン一本、赤ワイン一本を買い上げたのです。
 ブエノスでは、昼食に入ったレストランで、うら若き女性ではなく、うら若き男性が目の前で海苔巻を巻いてくれたのですよ。その海苔巻きの作り方が普通の巻き方ではなく、まず海苔の上にご飯を載せ、そこへたくさんの白ごまを振りかけ、裏返しをしてからまたご飯を載せ、マグロやカニカマ、サーモンを巻き込み、日本の寿司屋のように足下駄の付いた分厚いまな板の上にきれいに切り揃え、わさび、しょう油、割り箸を置いてくれたのには驚きましたね。
 デザートは何百種類もあり、見るだけでも素晴らしかったし、もちろん、シュラスコもあり、大満足でした。そういえば、船旅では長いドレスにシッキ(高級な)靴も忘れてはいけません。夕食は本式のディナーで前菜から始まり、デザートで終わるのですから。こうして十分に夕食を楽しんだ後は、そのドレスのままで素敵なショーを観に行くのです。
 ショーは毎夜入れ替わり、司会者の面白い話で笑いに包まれながら見るのです。ショーと言えば、魔術ももちろんありますが、サーカスもアイスショーもあり、イタリア歌劇を歌う三人の男性の声の素晴らしさとお客様を満足させて下さるのには驚きでしたね。
 飛行機でブーンと行く旅ばかりの忙しい現代では、この船旅は年に一、二回は行きたくなります。皆様もぜひどうぞ!


老いが知る季節風

インダイアツーバ親和会 早川正満
 老人会の宿命か、会員の野辺送りが日を置かず続く葬式の場で、いつも心に引っ掛かることがある。
 次は己かも知れない老友が、自分も、子供達も、知人の野辺送りから何か学ぼうとする気風があまり見えないことだ。
 いや、怖くて思わないようにしているのかも知れない。でも、誰も避けられない終着への一本道なのだ。それに誰も帰ってきたことのない道だ。だったら、それぞれが想像するしかない。
 ここで生意気を言ってしまったので、私の想像を言わざるを得ない。その絵図とは、まず、観念で見つめなくてはいけない。行く先が見えない真っ黒な世界があり、この世の人生の終末はその道しかないと思うと、想像だけでも暗くなる。
 この先、決して長くはないこの世の人生道の安楽を求め、その先の世も安らぎある世界と思うのは、愚かなことでしょうか。私はそうは思いません。では、「千の風」の歌のように魂がこの世の空にふわふわと存在していると知識人ぶって、親の墓も参らない日系人が少なからず居ることは事実だ。
 墓の大切さは日系人以外の人たちはよく知っているようだ。ここで一つ断っておくが、霊魂の話をしているのではなく、移民として先代の魂を通じて、墓守をする人を中心に、その後の家族、親戚がいかに長くまとまっているかということを言いたいのだ。日系人の頭にはその考えが薄いように思われる。これは葬式に携わる宗教の坊さんたちの説明不足があると思われる。
 霊界や魂の世界が遺族と今後どんな関わり方があるかなど、お経をあげるだけでなく話すべきかと思う。
 あの世の世界は一枚の壁、隣りかも知れない。それもトントンとノックすれば、トントンと返事が聞けるような薄さ。だって、肉体は行けず、魂だけが行けるんですから。肉親の死に水を取り、生との別れの呆気なさに遭遇(そうぐう)するとそんな感じがますます募ってくる。老友仲間で、「あの世の世界などあることを信じない」「死後は肉親との縁は全て無縁となる」と口にする人は少なくないが、本当にそう思っているのだろうか。普通旅支度には旅行プランを取り寄せて、念入りに支度する。行き先の状況を出来るだけ知ろうとする。これが当たり前だろう。だったら七十歳も過ぎて身体のガタを感じるようになれば、その肉体を抜け、魂だけの旅立ちを考える時、それは死のイメージとは別の魂の定着と安らぎを願うのが老いの身の最大の関心事であるべきだと思う。
 仏様(ほとけさま)は「地獄極楽この世にござる」と言った。だとすると、あの世にあるのは入るとすぐ安らかへの道と暗黒への道の分かれ道があるのだろう。どの道に入るかは生あるこの世の中での心構え次第というかもしれない。


♪思い出の歌「すみれの花の咲く頃」♪

サンパウロ中央老壮会 森田雅子
 昨年は宝塚一〇〇年をお祝いしておりましたが、私も七歳頃からの記憶がありますので、八十年来のファンの一人です。東京生まれの私は、子供時代は何不自由なく過ごし、母が歌舞伎やオペラなどの観劇を好んだため、小さい頃から宝塚などにも連れて行ってもらいました。月に二、三回は行っていたと思います。
 女学生の頃はいつも「♪すみれの花の咲く頃」を口ずさんでいました。芦原邦子、小夜福子、とてもきれいで憧れたものです。
 戦時中も宝塚が一時中止になるまで見に行っていました。私の通う女学校は敵国の言葉はダメなどと言わず、戦況が激しくなるだいぶ後までアメリカ人の女先生が英語を教えておりました。躾(しつけ)は厳しかったけれど、自由な学校でした。戦争のため、最後の一年ぐらいは授業がほとんどなくなり、勤労奉仕(きんろうほうし)の明け暮れで、工場で働いたり、家壊しに駆り出されたりしました。家壊しとは、類焼(るいしょう)を防いだり、逃げ道を確保するため、家を壊して空地を作るのです。
 終戦の年の三月、東京は無差別(むさべつ)絨毯(じゅうたん)爆撃(ばくげき)に見舞われ、一晩で十万人以上もの人が亡くなりました。
 当時、私は青山一丁目に住んでおりました。母は強制疎開(きょうせいそかい)の命令が出て、群馬県に疎開しており、私と妹が家に残っておりました。父は戦争が始まってすぐの時期に病気で亡くなっております。
 東京大空襲というと、たいていの人は三月の下町空襲のことを思い浮かべますが、私たちの住む山の手にも四月中頃から空襲が始まり、五月二十四、二十五日は三月の下町空襲の倍近い七千トン近い爆弾が投下されした。連日、五百機以上の飛行機が飛んできて、雨のように焼夷弾を落とします。表参道は地獄のようでした。この時の空襲で、東京の五〇%はダメになったと言われています。
 私の家は明治神宮の入り口近くにあり、二十四日と二十五日の空襲では運よく焼かれずに残ったのですが、二十六日になって、「これだけ焼き尽くされたのだから、今日はもう来ないだろう」と思った矢先、朝の九時頃だったか、またもや爆撃機が飛来してきました。防空壕はもうダメだということが分かっていましたから、妹と二人で必死に神宮外苑の森に逃げ込みました。大きな木の蔭に身を隠して、震えていたことを今でも思い出します。
 家を焼かれ、何もかも無くしてしまいました。それから二人で歩いて上野駅まで行き、母の疎開先に向かいました。持ち物は逃げる時に持って出たカネのバケツ一つ、中には父の位牌やら、二、三の身の回りの物だけ。
 今思うと笑ってしまうのですが、その中には宝塚のスターのプロマイドも大事に入っていたのです。
 何かにつけ口ずさむ「♪すみれの花咲く頃」は、夢見る少女時代からの私の青春歌でしたが、その後は大変な時でも希望をもたらす応援歌となっています。

♪ すみれの花咲く頃♪

作詞:Fritz Rotter・白井鐵造
作曲:Franz Doelle

 春すみれ咲き 春を告げる
 春 何ゆえ人は汝を待つ
 たのしく悩ましき 春の夢 甘き恋
 人の心酔わす そは汝 すみれ咲く春

 すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ
 君を想い日ごと夜ごと 悩みしあの日のころ
 すみれの花咲くころ 今も心ふるう
 忘れな君 われらの恋 すみれの花咲くころ

 忘れな君 われらの恋 すみれの花咲くころ


五時間前の話です

細川きよえ(福井県越前市職員)
 一人暮らしのお年寄りの方が吹雪の中を遠くから書類を持ってこられた時のことです。
 何度も転んだらしく顔には怪我をしておりました。持っているカバンの中には沢山の雪がつまっていました。
 ズボンも、来ているシャツもびっしょり濡れて、持っている傘は壊れ、手はかじかんで寒さに唇は真っ青でした。
 私と共に働く職員は急いでストーブを持ってきました。また違う職員はタオルを持ってきて、おじいさんの頭を拭いてあげていました。ある職員は自分のお金であったかいお茶を買ってきて、おじいさんに渡していました。怪我をしたところは、保健師が来て、ちゃんと手当てをしてくれました。濡れたズボンの代わりに、置いてあったズボンをおじいさんに貸してあげて、濡れた衣類を乾燥機で乾かしたり、ドライヤーで乾かしたりしていました。
 寒さで唇が真っ青だったおじいさんは、頬っぺたの辺りがだんだんピンク色になって、あったかい幸せな顔になってきました。
 「痴呆が入っている独り暮らしのおじいさんらしい」と関係課の人が話していました。
 老人になると自分の足で行きたい所へ行くことができなくなります。思うように体が動かなかったり、字が読めなかったり、相手が話していることが上手く理解することが出来なかったりします。
 しかし、それは誰もが通る道かもしれません。
 歳を重ねる事とは、誰からも見向きをされなくなり、淋しさと共に生きることを受容しなければならないことだと感じています。
 地位も、名誉も、お金も、家族もなくなってしまった時、だれが優しく手を差し伸べてくれるでしょう。
 私は今日ほど同じ職場で働く仲間に誇りと幸せを感じたことはありません。おじいさんは帰る時、深々とお辞儀を繰り返し、喜んで帰られました。
 おじいさん、今日は幸せでしたか? 私はとても幸せでした。


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