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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年6月号

2015年6月号 (2015/06/14) 纐纈さんを偲んで

熟連会長 五十嵐司
 また一人、ブラジルにおける日本文化伝承のために大切な友を失った。老ク連以来十数年のお付き合いであったが、最近の八年では執行部で書記理事として活動され、重要な役目を黙々として果たして下さった。所定の事以外でも書家として各種の揮毫のお仕事をいつも快く引き受けられ、大変助けられた。
 また、連合会の文芸、芸能活動では俳句・川柳そして民謡で指導的な働きをされ、対外的にも各種の大会に熟連の代表として出席して友好を深めて頂いた。それらのすべてを想起し、感謝に耐えない思いである。 
 さて、多くの会員がご承知のように、纐纈さんは長年に亘る深刻な病との闘いの日々の中にあっても、いつも平静さを保ち、 ユーモアも交えて、接する人々に明るさを与えて下さった。通常、人々はこのような苛酷な或いは絶望的な状況に置かれるときは心が乱れがちになるものである。纐纈さんが精神的に病に打ち勝っておられたのは、その心の強さのほかに天性の才能を生かした多くの趣味的活動によって救われていたと思われてならない。
 ところで、纐纈さんの功績を想起するにあたって特筆せねばならないことは、本部の前庭に安置されている地蔵尊像建設の立案 である。思えば、日系社会において日本移民百周年記念建造物建設計画が行き詰り、わが熟連に於いて独自の計画を余儀なくされたとき、 提出されたのが纐纈さんの地蔵尊像建立計画であった。多くの人々に広く愛され信仰の対象とされていて、偏った宗派性は少ない、地蔵様受け入れ案は即決され建立された。
 私はこの五月の始め、東京の豊島区巣鴨にある有名な高岩寺の「とげ抜き地蔵」に参詣し会員の 幸せを祈願してきたが、平日にもかかわらず、国鉄巣鴨駅からお寺までの約半キロの地蔵通りは数千人のお年寄りの参詣者で埋まり、腕章をつけた 警視庁の警官が大勢で交通整理する有様で、さすが「おばあちゃんの原宿(ファッションの本場の意)」と呼ばれるようで、あたかも、熟連会員三千人が全員出動した感があった。寺の門をくぐってからも大変で、尊像にきれいな水を掛け、布でよく拭いて祈る参詣人の行列が長々と続き、私の番が来るまで約五十分待たされた。「とげ抜き地蔵」は年寄りの健康を護り、或いは奇跡的に病や怪我を癒して下さるということで、遠く江戸時代から引き続きこのように大勢の庶民の信仰を集めているということです。
 熟連に建立された纐纈さんの思いを込めた地蔵尊もあれから早や七年。私たちの護り本尊として会員と家族の幸せを護り、纐纈氏を始め先亡会員たちのご冥福を担当して下さっている。


吉岡ヲサメさんを偲んで

イタケーラ寿会会長 小坂誠
 イタケーラ寿会の創立会員である吉岡ヲサメ相談役が逝去された。百二歳六ヶ月の長寿であった。
 四月二日朝六時、いつもだったら起きて来るはずなのに起きてこない。家人が見に行くと、静かに鼾(いびき)をかいて寝ており、しばらく待つも現れないので、再び見に行くと、そのままの姿で息が止まっていたそうです。
 苦しんだ様子もなく、大往生だったという事です。
 葬儀は四月三日十三時、カルモ第二墓地ベローリオで執り行われ、大勢の知人がお別れをしました。
 吉岡ヲサメさんは一九一二年十月一日、京都府網野市に生まれました。一九三一年に儀一氏と結婚。一九三七年に娘二人と義弟の五人で渡伯。すでにイタケーラ植民地に入植していた義弟の省氏の隣の土地に入植しました。
 「百歳を過ぎても元気で居れるのは皆さんのお蔭です」と感謝の毎日でした。毎週一回、サンパウロ市内に鍼治療に行っていました。鍼師のダビ医師は「この年でこんなに丈夫な体の人は診た事が無い」とずいぶん長い間、無料で診察されました。
 毎朝、目が覚めると、腰痛体操をカーマ(ベッド)の上でしていました。
 家では好きな花の手入れ、外出する時は子や孫たちが気持ちよく車に乗せてくれ、感謝の毎日でした。
ある日の集まりの時、「病気をしたこともなく、丈夫な体で生きてこれたのは、若い時に粗食に耐えて働いてきたからです」と話したことがありました。
「毎月一回、寿会の例会に行って、会員の皆さんに会うのが楽しみだ」とも言ってくれていました。
 ここに寿会会員一同と共に吉岡さんの死を悼(いた)み、ご冥福をお祈りいたします。合掌。


喜月さんの思い出

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 喜月さんにお逢いしたのは七五年頃だったと思います。井口青瓢さんとお二人でマットグロッソのドラードスにみえられ、城田雅風居で一句会したのを覚えています。
 二人共お上手で朗らかで皆を笑わせ、にぎやかな雰囲気であった記憶があります。今から四十年前の事です。
 喜月さんは万能なお方で玉井先生の踊り教室をのぞいて盆踊りの輪に入られた事もありました。みちのく句会でご一緒でしたが、よく披講され、喜月さんの居る所は常に笑いが起きます。大変物知りで難しい語訳もしてくれたものでした。
 字も達筆で、特に大文字を得意とされ、字幕など書かれました。絵も上手で最近は絵手紙の勉強もされ、私もたくさん頂きました。インヂオ、親方、カブ、兜、犬、人形、いろいろ智に富んだ名文句を添えて、特に米寿祝いにと鶴の色紙を頂きました。額に入れようと思っています。
 民謡もお上手で多くの仲間がおられ、楽しそうでした。御婦人の多い中でも評判はよく、稀に見る万能先生でした。もう少し生きて皆の力になって欲しい人でした。
 お酒にも強く、同好のお付き合いも常に中心的存在らしく、老人クラブの台所に飲み残した古酒もあるとか。何か微笑ましい感じです。
 生前、日本の全老連より感謝状を贈られ、喜月さんも本当に嬉しかったことと思います。
 喜月さんは私にとって肩の凝らない先生的存在でもありました。いろいろと思い出しながら、ご冥福を祈っております。


特別給付金

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 二〇一〇年十月、日本の弟から政府の平和祈念事業特別基金のパンフレット(特別給付金)が送られて来た。冒頭に「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法が成立し、特別給付金を支給する」とある。
 このたびの給付金は今度で四回目にあたり、支給内容を略記すると次の通りである。支給対象者は平成二十二年六月十六日の法律施行日に日本国籍を有する存命者。以下略。特別給付金の金額は左記の通りである。
 弟がすべての手続きを代行し、二〇一一年七月に二十五萬円(四四〇〇レアル)が銀行口座に振り込まれた。
 今回の慰労金支給は四回目に当たり、支給金額は合計四十七萬円になった。
 第一回の支給は、抑留者と満州からの引揚者が対象で、一人当たり一律に二萬円であった。申請手続きや支給金の受け渡しは、県連が代行している。たしか一九六六年のことで、県連が設立されたばかりであった。
 第二回目は一九九〇年頃、弟の知らせで知った。平和祈念事業特別という政府の一機関が、抑留者に対して十萬円と銀杯一つを給付するという。申請手続きは弟が代行してくれた。しばらくして、平和祈念事業から抑留の事実を証明する戦友二人の証人の証明書が必要だと通知が来た。
 戦後四十五年も経ち、抑留の事実を証明できる証人などいるわけがない。弟にその旨伝え、十萬円も銀杯もいらないから断ってくれと書き送った。折り返し弟の返事が来る。
 「兄さん、短気はいけないよ。手続きの期日は一年先だから、それまでに何らかの方法が見つかるはず。誰も十萬円をくれないよ。百円足りなくて、欲しいものが買えないことだってある。兄さんらしくないことは言わないで下さい」。
弟から諭されてしまった。数日後、記憶の中から浮かんできたのは広島市長の復員証明書である。証人二人の証明書でなくても、市長証明で役に立つかも知れない。
 作業場の二階に置いたままの行李(こうり)を調べると、ネズミの巣になっていたが、半分は荒されていない。一枚一枚書類をめくっているうちに復員証明書が見つかった。ネズミの小便臭がする証明書を送って数週間後、弟から電話が来た。
 「OKが出たよ。××証書は現金に替えて郵便貯金の定期に、銀杯は大事に預かっておく」。
 こうして二回目は終わったのであるが、同じ抑留者でもナホトカ乗船、舞鶴上陸のものは証人も証明書も不要であった。ごく少数の者が、北鮮経由で佐世保に上陸しており、そのために証人が必要だったらしい。
 それから八年後の二〇〇八年に平和祈念事業特別基金は三回目の給付として、「十萬円相当の旅行券または高級万年筆のいずれか一品を、特別慰労品として抑留者に贈呈する」と、発表した。弟は「どちらにするか?」と電話してきた。
 体調は最低であったから、日本旅行は出来そうにない。高級万年筆は「豚に真珠」である。
 「今回はどちらも要らない」と返事をしておいた。数日後、弟が電話で言う。
 「旅行券を貰えよ。兄さんは使えなくても、我が家では使える。俺が十萬円で買うよ。すぐ送金するが、厭か?」。
 面倒見のいい弟の言葉に甘えることにした。かくて抑留者であった私と、政府とのかかわりは終わったと思ったが、それから二年後、冒頭の第四回目の特別給付金支給があって、政府はこれをもって、抑留者への慰労金支給を打ち切りにすると、付け加えた。
 四回にわたる合計四十七萬円の慰労金をもって、終戦六十六年後に、政府とのかかわりは完全に終わりを告げた。
支那戦線を転戦した歌人・宮柊二(みや・しゅうじ)氏の短歌を思い出し、噛みしめている。
 死(しに)すれば やすき生命(いのち)と友は言ふ われもしかおもふ 兵は安しも(終 二〇一二年四月記)

抑留帰還時期による慰労金額の違い
①昭和23年12月31日までの帰還 25萬円
②昭和24年1月1日から昭和25年12月31日までの帰還 35萬円
③昭和26年1月1日から昭和27年12月31日までの帰還 70萬円
④昭和28年1月1日から昭和29年12月31日までの帰還 110萬円
⑤昭和30年1月1日以降の帰還 150萬円
 これをもって、抑留者に対する慰労金支給は打切りになる。


ジアでマイ(母の日)

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 家でブラブラしていると、突然電話が鳴った。娘であった。「ジアでマイだからどこかレストランへ御飯を食べに行きましょう」と誘ってきた。
 行く約束をして待っていると、娘夫婦に孫夫婦が来た。
 アメリカから帰っている孫はまだ会っていなかったので、珍しく話が弾む。「とにかくレストランに行きましょう」と娘の車に乗せてもらって、ノーベ・デ・ジューリョの「エスタソン・ジュンジャイ」というレストランに入った。あるわ、わるわ、食べ切れないほどたくさんのご馳走がある。好きなものだけを選んで食べたがお腹はいっぱい。
 孫娘はジュンジャイに来たのは初めてだからあっちこっちと街を見て歩く。母の日というのは、なかなか良いものだ。娘から色々とご馳走してもらうし、お土産は頂くし、孫まで「婆ちゃんに」と言って、お土産をくれた。私はなんて幸せ者なんだろう。
 年下の友だちまで「私のママイ」と言って、プレゼントをくれた。他人から母の日だからとプレゼントを頂くなんて、夢のようだ。涙が出てきた。嬉しいことばかり。友達は良い人ばかり。病気でもすればてんやわんやと心配してくれる。何から何まで幸せ過ぎ。娘たちや友だちに頭が下がるばかりの果報者だ。
 間もなく九十一歳を迎えようとしているこのお婆ちゃんが何のお返しも出来ず、ただ神様にみんなの健康と幸福をお祈りするばかりだ。


与那覇さんの沖縄タイムス寄稿(2)「ビバ! ブラジル日系熟年パワー」

JICAシニアボランティア 与那覇博一
 サンパウロで一番日本を感じる街はリベルダージ地区だろう。十メートル近くはあろうと思われる赤い鳥居、通りには提灯型の街灯、立ち並ぶ日本食のスーパーや料理店など連日観光客や買い物客でごった返す。すれ違う人にも日系人と思われる顔が頻繁に見られる。日本の殆どの県人会館もここにあり、様々な活動が行われている。
そこの一角に私の活動先、「ブラジル日系熟年クラブ連合会」がある。西洋風の歴史を感じさせる立派な建物。元々は老人クラブという名称を最近、熟年クラブへ変更した。年々減少する会員数に歯止めを掛け、若々しい意識を持ってもらうためだ。実際の活動を見ると確かにみんな元気で活気があり、名称を替えたのは伊達ではない。お揃いのTシャツで音楽に合わせて汗ばむ程体を動かす体操クラブ、外まで聞こえるカラオケや民謡クラブ、その他にもダンス、マージャン、川柳、書道などがあり、朝から精力的に活動している。私も時々、顔を出して交流を楽しみ、要請があれば健康講話やレクリエーションをプログラムに取り入れる。メインの仕事は各地にあるクラブを巡回訪問することだ。例会と言って月に一度集まり会員の親睦を図るため食事をしたり、楽しい活動を行うこの会に参加して用意してきたプログラムを提供する。
どこの地区でも高齢化が進み健康に不安を抱えているが雰囲気は明るく、元気でパワーを感じる。その最たる活動の一つがビンゴゲーム!会費や持ち寄りで用意した景品を並べ、出た数字が一列に並ぶとビンゴ!というあのゲーム。これが日系人社会では大人気で、まず一回で終わることはない。何度もやる。大会時には昼食を挟んで午後まで続く。集中力も凄いが、難聴者や遅い人へ協力しながらやるところも素晴らしい。楽しそうに一喜一憂している笑顔を見るとこちらまで幸せな気持ちになる。
今、好評なレクリエーションは指体操。リズムに合わせて両手を交互にグー、チョキ、パーと交代して出したり引っ込めたりする。なかなか思うように行かないというもどかしさで大笑い。「家で孫と一緒にやってみたけど楽しかったよー」との感想もあった。「ありがとう、また来てねー」と感謝され笑顔で握手されるとこの仕事をやってきて良かったと喜びを感じる。最近、日系社会でも認知症予防についての関心が高く、生活習慣を見直し効果のあるトレーニングを取り入れようとの機運が出てきた。様々なプログラムを織り交ぜながら、生活に生きがいを感じていけるように楽しい活動をこれからも心掛けたい。
先日、川柳教室に参加して一句創ってみた。「和の群れに 誇りを抱き 夢育つ」。異国の地でも力を合わせ助け合い、和の精神を大切にしてきた日系移民の歴史に触れる時、日本そして沖縄に生まれ育ったことに誇りを感じる。私もこれからの人生に大きな夢を持ちたくましく生きていきたい。ビバ! ブラジル日系社会!


大相撲夏場所あれこれ

サンパウロ中央老壮会 鈴木文子
 夏場所最大のヒーロー照ノ富士、幕内初優勝、三度目の敢闘賞、そして大関昇進も果たしてしまった。初土俵より二十五場所でのスピード出世である。
 夏場所千秋楽、照ノ富士は白鵬と共に十一勝三敗で並んでいた。先に碧山に勝ち、結びの一番白鵬対日馬富士の一番を待っていた。そして日馬富士が渾身の力で白鵬を破っての優勝である。
 日馬富士は照ノ富士が所属する伊勢ヶ濱部屋の兄弟子である。可愛い弟弟子のために、最大の援護射撃をしたわけである。この時の懸賞が六十本かかったというから、日馬富士にとっては二重の喜びであろう。このように実力と運の強さでもぎ取った優勝であったと思う。
 また我らがブラジルのヒーロー魁聖も十勝五敗と大いに頑張ってくれたと思う。一時は白鵬と並んで優勝候補の一人だったのだから、大したものである。来場所は前頭上位になるだろう。三役ももしかしたら夢じゃないかも!?
 そして遠藤、初めて結った大銀杏、よく似合っています。さすがイケメン。先場所は怪我での途中休場、今場所出場も危ぶまれたが、本人の強い意志での出場である。サポーター一つ無い体、ここに遠藤のプロとして、また男としての美学を見るのは、私一人ではないと思う。ただ、怪我のことを考えれば、サポーター位はしても良かったのではないかと思う。
 成績は六勝九敗と残念ながら負け越してしまったが、しっかり怪我を治して、本来の彼の相撲を観たいものである。
 他にも日本人力士で好きな力士は結構いる。だが、本来の実力が出し切れていないような気がするのは残念である。
 照ノ富士は場所後、正式に大関に決定した。伊勢ケ濱部屋での大関昇進伝達式において、「今後も心技体の充実に努め、さらに上を目指して精進いたします」との口上を述べた。
 この気持ちを忘れず、今度は横綱に挑戦して欲しい。彼ならきっとできると信じている。そして日本人力士にも大いに頑張ってほしいと思っている。


♪思い出の歌「真白き富士の根」♪

サンパウロ中央老壮会 佐藤整
 妻と長女の眠るビラ・プルデンテの墓掃除に次女の明美と一緒に行った。
 墓には今日も野辺送りの人たちがたくさん来ていた。百人位集まっていた一部屋から歌声が聞こえてきた。もちろん、ポルトガル語で歌っていたから意味は分からなかったが、曲は確かに聞き覚えがあった。何の歌だったろうか? うろ覚えのメロディーを何度もハミングしていたら、「教会に一度も行ったことのないパパイが讃美歌なんか知る訳がない。何か似た別の曲だよ」と一笑に付されてしまった。
 人ごみを抜け、家の墓に行った。私はいつも墓に着くと、最初にロウソクと線香に火を灯す。線香の煙が虫除けにもなった。この日も火を点けようと思ったら、白い小さな蝶が一匹飛んできて、私がセメントで作ったロウソク立ての屋根に停まり、墓の上を旋回してどこかに消えた。私は思わず「恵が来たんだ」と叫んだ。娘も「そうだ。恵だ」と言った。私の長女、恵は三年前、四十六歳でガンで亡くなった。その時、病室に一匹の小さな蝶が入って来ていて、恵の胸のあたりを飛び、カーマ(ベッド)の下をくぐって、どこかに消えたと、一人で恵の死を看取ってくれた明美から聞いていたらからだ。
 墓を掃除中、三十メートル離れた沖縄桜の枝に頭に黄色の鉢巻をしたベンテビ鳥も長い間止まって、こちらを見ていた。その後、柿色の蝶も一匹飛んできた。近くの木にも数羽の鳥が騒がしく戯(たわむ)れていた。
 明美が恵を散歩に連れ出すと、よく動物が近寄って来たと言っていた。死後も動物と一緒に暮らしているのだろうか。
 帰宅後もあの墓で聞いたうろ覚えのメロディーを何度もハミングしていた。
 翌日になって自然とまたハミングしていたら「雄々しき御霊(みたま)に捧げまつる胸と心」と日本語の歌詞が口から飛び出してきた。
 そうだ!あのメロディーは「真白き富士の根」だと気付いた。あの名曲なら日本から買ってきたCDのどこかに入っていると探したら、『抒情愛唱歌全集なつかしき歌こころの歌』に解説が載っていた。
 明治四十三年一月二十三日午後、神奈川県七里ヶ浜沖合でボートが沈み、十二名の少年全員が溺死した。二月六日。逗子開成中学の校庭でその合同追悼法要があった時、鎌倉女学校の教諭だった三角錫子(みすみ・すずこ)はこの曲に作詞し、哀悼鎮魂歌(あいとうちんこんか)として自校の女学生に歌わせた。原曲はアメリカのガードンが作曲した「When we arrive at home-帰郷の喜び」。何しろ百年前の歌。題名だけは有名だから知ってはいたが、歌詞はうろ覚え、三番まで見ると、当時の悲しみが伝わってくる。
 この「真白き富士の根」の映画が上映された時、私は高校一年だった。親父が珍しく「映画を観に行くか?」と私を誘ってくれた。映画を見た後、ぜんざい屋に入った。近所の知り合いの小母さんも私より一歳年下の娘さんを連れて店に入って来た。
 同じ映画を見ていたのだ。一緒に並んで食べた。話しかけることも出来ず、青春の淡い思い出となって残っている。
 墓掃除に行って忘れていたこのメロディーと共に昔を懐かしく思い出した。これもお墓参りの功徳(くどく)か。

♪真白き富士の根♪(七里ヶ浜哀歌)

作詞 三角錫子
作曲 ガードン

真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々(おお)しきみたまに
捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨は深し 七里が浜辺

み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処(いずこ)に迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に


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