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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2015年8月号
2015年8月号 (2015/08/14)
刻字展を参観して
サンパウロ中央老壮会 宮城昌勝
去る七月十一日、松原ホテルでの刻字展を観賞する事が出来ました。素晴らしい作品に大変感動しました。
日頃、自分の念頭にあった文々句々が美しく躍動した書体で刻字されているので、親しい友だちと対話しているような気分で見て回りました。
私たちの発する声は、自分の思いを音に響かせて相手に伝える方法だと言われます。自分の思いをモジに託してその字の意味するところを書道によって形に表現し、刻字として躍動させるのは、本当に素晴らしい事だと思いました。
一人ひとりの作品を見て回りながら、どうしても自分の近くに置いておきたい一品とも巡り合い、自分のこれまでの人生を顧みることのできる有意義な一日でした。
またの機会がありましたら、ぜひ、再度参観したいと思います。
末尾ではございますが、主催者の若松先生、また出品された方々、会場の準備に労された方々に心から御礼申し上げます。
遠い日の記憶
スザノ福栄会 杉本正
久しぶりに何か変わった記事になる事でもないかと思案をしていた矢先、十五歳の時に親に連れられてブラジルに来た当時の事が次々と浮かんできた。
中でも特別に印象に残ったことのみを簡単に記してみたい。
やはり順序として、到着時のことから列記すると、一九三一年二月にサントス港について、サンパウロから奥地へ向かう汽車に乗った。途中からノロエステ線に入った。汽車は薪(たきぎ)を燃料にする蒸気機関車で、火の粉を吐いて走る姿に驚いたものだ。マット(原始林)の中なので、薪には不足しないだろうと思いながら、カフェランジャの駅に到着した。
三十キロばかり離れたシャンテプレードコーヒー園に十二家族が配耕され、各家族の配分耕地が決まるまで小屋に休んでいた。その時、急に婦人たちが「何でこんなブラジルに来たのか」と泣き始めた。子どもだった私などは喜んで歩き回っていて、何で泣き出したのか分からなかった。男たちは仏頂面(ぶっちょうづら)でだんまりとしていた。
後年、成長して、当時の婦人たちが泣いたことの意味が解かり「無理もない事であった」と感じた。
両親は移民できた以上は、義務としてコーヒー園の務めを果たすつもりだったと思うが、子どもの将来を考えて見切りをつけ、仲介者との交渉で罰金を納め、十カ月で退耕して、あらかじめ日本で知り合いになった人がサンパウロにおり、スザノ郡ゴイアベーラ区に行くことにし、役所などの整理が決まるまで、一応サンパウロ市内の日系のあさひ旅館に下宿し、義兄と毎日のように市内を歩き回った。
プラッサ・ダ・セ(セ広場)街からジレイタ街の角に法科大学があり、その並びにはコーヒー成金たちが喫茶室として利用した室が昔のまま残されていて、覗き見をしたものだった。
あの辺りは深い谷間となっていることから、渡り橋が作られ、その名も「御茶ノ水橋」。子どもだったので、その由来も知りもせず、義兄と「お茶を飲んだ広場からこんな名前を付けたのかな」なんて話したものだった。
御茶ノ水橋を越えると、ヘプブリカ街で、すでに右側には劇場があり、左側には当時は電力総務局があったように記憶している。
さらにシネマ館は二館もあり、商店も立ち並び、賑やかな通りだと思ったものだ。ついでに当時のサンパウロ市の人口はたしか七十万人と言われていた。
九十八歳の今日に至ってもまだ、子どもの頃の記憶が脳裏の片隅にあるものだと、つくづく思い、拙(つたな)いながら思い出の一片を書き記し、筆をおきたい。
百七十回を迎えた百人一首の会
サンパウロ中央老壮会 中山保巳
熟連「百人一首の会」が六月一日の例会で百七十回を数えた。世話人の田中保子さんにとってはやはり特別な感慨があったようだ。
現在、会は月の第一月曜日と第三月曜日の正午十二時半より十五時まで例会の時間を持ち、会場は熟連の事務所の上のサロンが当てられている。
競技はたいてい木の取り札の「ちらし」より始まり、のち「源平(二組に分かれて)」で競う。あとは紙の取り札でやるのが習慣になっている。
木の取り札は、漢字の崩し、行書、草書、当て字、ひらがな、片かな、変体仮名と大きく小さく、上に下に横にと書き散らしてあるが、よくよく見ると素晴らしい筆跡である。おそらくこれは競技用としてではなく、芸術品として制作されたものであろう。取り札として慣れるまでが難しく、新しい加入者は面食らうが、慣れるとすこぶる面白くなって止められない。
さて、百七十回を迎えた今、会の始まりはどうだったのだろうか?と、第一回目の参加者名簿をめくってみた。
当時の老ク派遣のシニアボランティアとして来られていた宇野妙子先生を中心に集まり、カルタ取りの話が進められ、カルタを取り寄せて具体化した。それに戸塚マリさんが木製取り札の寄贈があり、二〇〇七年四月十六日、百人一首の会は発足した。
第一回かるた取りの会合に集まった人の名前を記してみると、藤木輝子、高橋考太郎、原口末吉、原口貴美子、長瀬仁冶、中西恵美子、本田敏子、井出香哉、寺田雪恵、田中保子、内海博、広川和子の十二名であり、現在の会に残っているのは、井出香哉、寺田雪恵、田中保子の三名だけである。
私の知っていた高橋考太郎、原口末吉、内海博の三人は亡き人に入っている。
現在の出席者(第百七十二回目)は、永田美知子、田中保子、井出香哉、畠山てるえ、寺田雪恵、山田富子、森川玲子、中山保己の八名で、一品持ち寄りで食事をするがこれも会の魅力の一つであるかも知れない。
何事も始める事は難しく、それをずっと欠けることなく続けることも難しい事である。昔から言われるように「創業(そうぎょう)難(がた)きか、守成(しゅせい)難(がた)きか」である。百人一首の会百七十回を期して、一言感想を述べてみた。
人情味あふれるボリビア
サンパウロ中央老壮会 栗原章子
前々から見たかった世界一大きいといわれているウユニ塩田に今年こそは行こうと思い立ち、ボリビアの知り合いの日本語教師にお願いして、「清潔で高くなくて(この点がカンジン!)、空港からもあまり遠くなく、買い物に便利な所にあるホテル」を探してもらい、一人で行くのは心細いので、友達に声をかけたら、七人集まり、結局総勢八人のジジババで行く事になった。
そして、いざ出発!コチャバンバ経由でボリビアの首都ラパスに着き、その晩、予想に反して、私はひどい高山病にかかり、頭痛に悩まされ、何度も吐き気を催し、トイレに駆け込むといったテイタラク。前に行った高山地帯のペルーのクスコでも少しは頭痛がしたが、寝込むほどはひどくならなかったのだが、ラパスはもっと高い所にあるのを甘く見すぎたようだ。でも、一日寝て、友だちが持ってきてくれた高山病用の薬を飲んだりして、すっかり元気になり、予定通りチチカカ湖へ行き、小船(ひどい年代物で、ボロかった)で遊覧したり、日本人が教えたというチチカカ湖で養殖されている鱒の塩焼きを美味しくいただいたりして、すっかり元気になった。
チチカカ湖の穏やかな水面を我らが乗ったエンジン付きのあちらこちら継接ぎだらけの小船は、頼り無げにトットと進んでいき、葦(ガイドさんが言っていた名前は忘れた)が生えている隙間を通って、プレインカの遺跡がある小さな島へ行ったのだが、ハアハア言いながら登った小高い丘からの眺めは良くて、何だか、子供の頃絵本で見た十戒のモーゼ赤ちゃんが葦の籠に入れられて、葦が密生している川に流されていく挿絵を思い出させるような景色だった。(赤ちゃんモーゼが流されたのはパピロスが密生しているエジプトの川だったが…)。
三日目は一晩バスに乗り、もっと高い海抜四千メートル近くのウユニ塩田に向かった。着いてびっくり!何だか冴えないブラジルの田舎町を思い出させるようなこじんまりした町だった。「さあ、乗ってください」と言われて、そうとうガタがきている、フル~~イ日本製のトヨタのジープにコワゴワと乗った。ジープは相当の年代物だったが、運転手はインディオの血を濃く引いている端正な顔立ちの清清しい若者で、私たちが何か聞くと、知らない場合はちょっと、はにかみながら、それでも、思い出し、思い出ししながら、一生懸命答え、知っていることを質問されると得意げになって、長々と説明してくれた。その態度が可笑しくもあり、また、とても人間くさい感じがして、観光者慣れしたガイドさんとは違っていて、気持ちがよかった。
先ず、ジープはウユニの町外れにある汽車の青空博物館という所に案内してくれたが、錆付いた汽車に興味がない私と何人かはそのままジープの中から見る事にした。
そしていよいよ待望のウユニ塩田!
ウユニ塩田は地平線までも続く見渡す限りの塩田が続き、よくこんな所を間違えずに運転できるなあと感心するくらいだった。
その夜泊まった、塩のホテルは、トイレとシャワーは共同で、十時になると消灯。壁も椅子もベッド代わりのマット台も塩でできていた。夕食は八時頃、天井から吊るされた裸電球の下で食べた。
スープが美味しかったので、給仕していたガイドさんに友達が作り方を聞いたところ、彼は台所から、何とインスタントスープの袋を持ってきて見せてくれた。聞いた友だちも苦笑いしながらも、キョトンとしている若者に渋々お礼を言っていた。毛布三枚を借りてきて寝袋に重ねてやっと寝た。夜、トイレに起きて、またまたびっくり! 真っ暗なのだ! ちょうど友だちが起きて、トイレに行くと言ったので、携帯で足元を照らしながら二人で恐々、一歩一歩進んでいった。
ぼろジープは運転手兼、ガイド兼、食事係のくだんの若者が観光地(?)に止まる度にボンネットを上げて、エンジンを調べて、何やら心配顔で弄繰り回していて、「こんな何もない所で故障したら困るなあ」と私たちも心配してしまったが、何とか石ころだらけの坂道をどんどん登って、海抜四千七百mという見晴らしのいい所に到達。チワナコ塩田(?)では、後続のジープ(私たちは六人乗りのジープに二グループに分かれて乗っていた)を待っている間にチリまで行くという貨物列車を見た。何だか、西部劇のような砂漠地帯に貨物列車が頼り無げに走っている感じがした。しかし、遠くには雪を被った山々が見え、とても景色のいい所だった。その晩は、塩のホテルよりもっとぼろいホテルに泊まり、寒さのため、風邪を引いてしまった。友達は気分が悪くなり、夜通し、吐いたりしていたので、翌日は、もっと高い山を越えて、チリに行く事になっていたが、私たちは頼んで、渋る二台の運転手さんを説き伏せて、一台は、チリまで行くというスウェーデンの若者を乗せていく事になり、
私たち一行は、一台のジープにギュウギュウ詰めになって、ウユニに戻った。帰りは、石ころ道ではなく、ちゃんと舗装された道だったが、リャマやビクーニャなどが見られ、景色もよく、すれ違う車も少なく、ゆったりした気分でウユニの町に戻った。薬局に行って喉にいいというコカの飴玉を買ったり、果物を買って食べたり、ドルをボリビアのお金に替えたりしてやっと人心地がついた。
一緒した運転手の若者ももう一台のオジイさん運転手さんもとても親切だったし、会って話したボリビア人もとても親切な人達ばかりで、機械文明に侵されて殺伐とした人々とは違って、温かみがあり、人間味が感じらる人々だった。また、ボリビアのホテルを紹介してくださった日本語教師はボリビア人の奥さんとの間に二人の可愛い娘さんと丸々太った男の子の赤ちゃんがいたが、奥さんも二人の娘さんも日本語を話し、素朴でとてもいい人達だった。
ラパスに戻ってからも、大事をとって、観光予定を買い物日に変えて、ホテルでゴロゴロ寝ていたり、近くの店で買い物したりした。私も頑張って、咳をしながらも、坂道だらけの所を歩いて、楽しい買い物に出かけたが、行きは良い良い、帰りは怖いで、坂道をドンドン下りて行った分、上らなければいけない羽目になり、ハアハア、フウフウ言って上った。それでも、道々、止まり、値切りながら買い物するのは楽しかった。
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