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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年9月号

2015年9月号 (2015/09/15) 森さんの想い出

サンパウロ中央老壮会 安中攻(おさむ)
 先日、私は何年かぶりでブラジルへ渡伯後、第一歩を踏み出した南マットグロッソ州ドウラードスへ旅行した。
 ここは今から約六十年前、私が十三歳の時から住んだ所である。
 森定男さんは松原植民地へ私たちより約三年早く入植した和歌山県人で、私が義兄を通じて知り合ったのは、入植後十年以上経ってからである。
 彼はいつも飄々(ひょうひょう)としていて、好物のピンガをつまみ物などには手を付けず、チビリチビリと美味しそうに飲む。その姿はいつ見てもこれほど愛飲する人は他におられないのではないかと思ったりした。私は酔いが回ってくると話し出す。彼の戦争の体験談を聞きたくて、ピンガの瓶を前において、彼が語り出すのを待った。
 年齢は私より二十歳も上なのに、いつも親しく接してくれて、色々と教わったことも多かった。
 森さんは遠い昔の過去を一つひとつ思い出すように語り出す…。
 旧制中学在学中、召集令状を受ける前に志願して陸軍へ入隊した。幹部候補生として北支へ出兵し、特務機関で、当時の日本の誰もが受けた日本帝国主義精神の教育に追従し、日本の勝利を信じていた。
 それがやがて敗戦という形で終戦となり、ソ連へ捕虜となって厳寒のシベリアに抑留されること四年余り。十分な食料も与えられず重労働と空腹に耐え戦友らと励まし合って、夜眠りについても、翌朝、隣に寝ていた戦友が凍死していた…。そんな光景を偲ぶように天井の一点を見据えて語っていた。
 過去を想う時、飲まずにはおられない気持ちだったのかも知れない。だが、昔から酒が好きだった彼は酒豪として自他共に認められていた。
 ソ連での捕虜時代のある日、伐採された原木が流れぬように鎖でつないで食い止めてあるのが切れて大騒ぎとなった。ソ連の監視兵が森さんたち日本の捕虜兵に向かって、通訳を通じて「誰か、鎖を繋いで来る者はいないか。ウォッカを一本出すぞ」と叫んだのを、森さんはただそのウオッカが飲みたい一心で名乗り出た。そして仲間には湖のほとりで火を焚いてもらい、水から上がってきたら、すぐに体を摩擦してくれるように頼んで、厳冬のシベリアの湖に飛び込み無事に鎖を繋いで来た。約束通りウォッカ一本と、その様子を見ていた上官からさらにプレゼントとしてもう一本もらい、仲間と共に飲んだ美味しさは「今でも忘れない」と話していた。
 やがて寒さと栄養失調で多くの仲間を失った捕虜生活から解放され、やっと悲願の母国・日本へ帰国。しかし、船上から見ると、夢にまで見た日本がアメリカ兵に支配されている。「我々は日本のために戦争後もソ連で苦労に堪え、多くの戦友を失い、帰れなかった戦友の思いを胸にやっと帰って来たのに、出迎えるのがアメリカ兵とは何と情けない」と船上でヤジ演説をやり、米兵に共産党員だとかスパイ容疑者と決めつけられ、連行されてしまった。連日、ソ連の地図を机の上に広げ「この川にかかっている橋は木製かコンクリート製か」とか「町の人口はどれくらいか」「ソ連兵の駐屯地はこの町のどの方角か」など、森さんの知らないことまで執拗(しつよう)に聞かれた。夜中でもたたき起こされ、以前と同じことを再度聞かれるので、曖昧(あいまい)に答えると、前の証言と違うと責められ、何のために自分ひとり耐えなければならないのかと思ったそうだ。結局、共産党員とかスパイ容疑も解けて、故郷・和歌山県新宮の生家に帰ったのは、六か月後だった。
 和歌山の生家にいる間も日本国内の共産党員から送られて来る機関紙が毎月舞い込むようになり、父は町の有識者で、兄も町会議員に立候補するという時で「お前がいたら色々面倒な事になる」と母親からも諭されて、考えた末、「行くならブラジルだ!」と移民船に乗ったと寂しく笑っていた。テーブルに置かれたピンガの瓶は空になっていた。
 あれから何年になるだろう。森さんが亡くなられたと、ドウラードスから電話を受けた時、私は多忙な事を理由に、遠くから合掌するのみだったが、今度の旅で松原植民地に近い市営の共同墓地で人づてにようやく森さんの墓前に持参したピンガを備えることが出来た。南麻州特有の夕陽が真っ赤に沈む直前だった。


小難物語

イタペチニンガ千歳会 小野忠司
 この度、二週間ほどカタール航空で日本へ行って来ました。ドーハ空港での出来事です。
 成田行きに乗り換える時の持ち物、身体検査が厳しく、最初、上着を脱ぐように言われ、脱ぐと、シャツのポケットの物をすべて出すように指示があり、挙句の果て「シャツも脱げ、バンドも外せ」でズボンも半分まで降ろさせて、体中をなぜ回されました。ほどなく登場の時間になると思い、搭乗券は旅券(パスポート)に挟んで、上着のポケットに入れていました。
 検査が終わり、いざ、着服という時、なんと搭乗券が見当たりません。そこらじゅうを見回しましたが見つからず、分からない言葉で訴えますがが通じるわけもなく、途方に暮れていると、グアルダ(警備)の人が来てくれて、カタール航空のカウンターへ連れて行ってくれました。そこで搭乗券が無くなったことを何とか訴え、旅券だけで搭乗券を再発行してくれました。後から考えると、コンピュータには登録されている訳ですから、身分証明だけで再発行が叶ったのだと思います。にっちもさっちもゆかず、焦りに焦りましたが、事なきを得て無事、旅行を続けることが出来ました。どうなることかと心配していた時のことを考えると、自分の迂闊(うかつ)さに呆れています。


私の入院

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 二カ月ばかり不調で、それも熱もなく、寝込むほどの事もなくグズッーとしていました。プロントソコーホ(救急病院)に無理やり孫に連れて行かれた事も二度ほどありました。
 年寄であるのと、大した事でもないので、つい、薬を処方してもらいそれを飲んでいました。
 三度目に薬の残りを飲んだら、下痢とめまいが一度に出たので、今度は自分から医者に行くと頼みました。ジャバクアラにあるサンルイス病院です。着くと同時に入院が決まり、十日間のトラッタ(治療)を受けて来ました。右肺の六〇%にマンシャ(影)があるとの事。寝ていても右肺にバルーリョ(雑音)はしていました。いつ気付いたかは覚えていませんが…。
 いろいろ精密検査を受け、点滴が始まりました。医者の孫婿に「お婆ちゃん。この治療が始まったら、一週間ぐらいは覚悟して…」と言われました。「そんな大事なのかなぁ」ぐらいに思っていましたが、今回はみんなの言う事をきいて、きっちり治したいと腹をくくりました。
 同じ病棟に四人の老人がおりましたが、同じ症状だったようです。ひっきりなしの治療に文句も何もない。「何々の注射です」。いちいち説明はあったがそちらの方は娘任せ。
 朝五時、指先を切られる?吸入器、いくつかの飲み薬、点滴は十二時間。すっかり医者に身を委ねました。血管を探す上手い人もいれば、モタモタして下手な人もいます。文句も言えません。薬の加減で二日ばかりすごい下痢でした。物心ついて、初めて紙おむつのお世話になりました。隣室も同じ病状であったらしいです。
 朝八時にはリハビリの先生がみえられる。「歩け、歩け」と歩かされ、腹式呼吸を教わり、体操も少しする。
 日曜日には日系の岡崎さんという娘さんがリハビリに来てくれた。彼女は「うちの婆ちゃんも、サウーデで盆踊りをしていたよ。」などと、話しかけてくれたり、嬉しい事もありました。
 とにかく年寄りという事で優しくしてくれました。立て続けの点滴に頭もボッーとし、おかしくなったのか、何も付いてない点滴の方を引っ張って歩いたりして皆に笑われたりもしました。何と言っても近くに住む友人、孫が来てくれるのは嬉しかったです。何か書きたくても電話帳も辞書もなく、日本語の活字に遠かった時、俳誌が届き、一気にみんな読んでしまいました。火曜日にようやく退院のOKが出ました。十日近く離れていて、家に帰っても何かピンときません。あんなに願った退院なのに頭がボッーとして。
 私が皆さんに申し上げたい事は…悪いと思ったらグズグズせずに医者に行くことだと思います。私もかたくなに、こんな事位と思って娘や孫の言う事をきかずに済まなかったと思います。これからは人の言う事もきかねば、と思っております。十日間、付き添ってくれた娘も疲れ切って退院の時、タクシーを拾いましたら、「ありがとう」と言って、お金を払うのを忘れるほどでした。
 あまり娘に言ったことが無いのですが「あんたの方が疲れたね。ありがとう」と頭を下げました。おとなしい、可愛がられる年寄りになろうと、自分に言い聞かせています。


桜…この美しきもの

サンパウロ中央老壮会 鈴木文子
 「今年もまたこの季節が巡って来た」という訳で矢も楯もたまらず、カルモの桜園に行って来た。
 八月二日の日曜日、晴天に恵まれ、初夏を通り越して、夏のような暑さだった。でも、吹き渡る風は心地よかった。雪割桜、ヒマラヤ桜の両方が咲いていた。雪割桜はやや薄いピンクで華やかだけれど清純な感じもする。かたや、ヒマラヤ桜はやや小さく、少し濃い感じである。どちらも綺麗だが、私は雪割桜の方が好きである。これは人それぞれ好みの問題であろう。
 舞台のある広場では、和太鼓が演奏されていた。腹に響く太鼓の音を聞いていると、五十代後半に一生懸命習っていた頃を思い出した。覚えの悪い私は何とか先輩に追いつこうと、半年ぐらい毎日家で練習したものである。
 最初はクッションを叩いていた。そのうちあまり使っていなかった電話帳を使ったが、すぐに破れてしまい、表紙を別の物に取り換える始末だった。そうこうしているうちに何とか追いつくことが出来た。やれば出来る、努力は報われるんだと嬉しくなったものである。
 今日では、日本から来た指導者のお蔭でブラジルに和太鼓が広まったことをとても嬉しく思う。これからも真摯(しんし)に練習に取り組んでもらい、大きく伸びていって欲しいと願っている。
 公園にはまた黄イペーの花も咲いていて、桜と競演しているようである。桜の木にはどういう訳か、願い事を書いた紙(中には紙ナプキンもあった)が吊るされていて、と言うか刺さっていて、なんだか七夕みたいで、思わず笑ってしまった。きっと七夕に行ったことのある人が始めたのではないかと思う。去年来た時には無かったと思う。日本人にはない発想である。
 花より団子、ではなく、花も団子も大好きな私としては、何としても桜餅を買わなければ来た甲斐がないとばかりに行列に並んだ。そして四十分後、やっと買えた。弁当も買い、これで今日の目的の半分は達成できたわけである。
 草の上に寝転がって、家族で写真を撮る人や仲間同士でおしゃべりや飲み食いに余念のない人たち、二人の世界に浸っているカップルなどさまざまである。
 私も茣蓙(ござ)に座り、花見吟行に来た時のことを思い出していた。当時は木陰句会に入会して四年目位だったと思う。まだ俳句初心者で、季語もよく分かっていなかったと思う。桜園に着くと、当時、俳人であり桜守でもあった西谷南風様が、花の下にテーブルといすをご用意下さって、この上ない贅沢な句座となった。皆さま佳句続出。私もブラジルに来て初めて見る桜に大感激であった。
 それ以来、幾度となく花見に来ているが、その度に新鮮で心躍るものがある。これはひとえに桜を愛し、守り育ててくださっている桜守の方々の賜だと思う。そして桜まつりを盛り立てている多くのボランティア、役員、婦人会の皆様にも感謝です。
 この模様はNHKのニュースでも早速、報道されていた。ブラジル人女性が「夢のような…」と言っていたが、本当に桜は美しい。
 桜は私にとって、いや、日本人にとって特別な花だと思う。美しく、潔く…こんな生涯を送れたら、また、終わることが出来たら…。西行法師が詠んだ和歌のように…。
 願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃


渡伯早々の悲哀(1)

スザノ福栄会 藤田朝嘉
 チエテ移住地の一番奥、アレグレ区の原始林の真っただ中にブラ拓が建てた赤い瓦屋根で板壁作りの校舎があった。一九三四年十二月五日、愛知県人七家族、総勢三十五人をすし詰めにした自動車がそこに着いたのは午後一時頃であった。
 この校舎には一足早く着いた三家族がいて、後続である私たち一行を温かく迎えてくれた。
 先に入居した人たちは皆、顔色が悪く、活気がなかった。野菜一つあるでなく、毎日同じものを食べて生活しておられるのであろう。サントスに上陸して三日後という着いたばかりの私たち一行と顔色が違うのは当然のことである。
 そこにいた三家族のうち、一家族は愛媛県出身で、善家さんという私たちの村をよく知っている方で、力強く思った。子どもも五、六人いたが、元気がなく弱々しかった。足に吹き出物があり、見た目にも痛そうだった。
 校舎の正面から三〇メートルほど離れた所にトタン屋根の炊事場があり、壁はなく、丸見えで、竈(くど)が五つほど並んでいた。校舎の横には便所が板壁作りで二つあった。教員住宅はまだ建っていなかった。
 善家さんの話では、学校の敷地は五町伐採し、一町だけ拓いて整地し、残りは再生林同様になってしまったそうだ。
 鬱蒼(うっそう)とした原始林の中に校舎が一つ建っているに過ぎない。まるで山送りの囚人のような生活である。
 この山の東側には一キロほど行ったところに同県人が十五家族ほど住んでいる。西側にも十四、五家族入植している。この学校が中心になり、東アレグレ区と西アレグレ区に別れているそうだ。
 井戸は百五十メートルほど離れた低地の原始林の側にあった。深さは六、七メートルで一度に七家族も増えたので、水は充分とは言えなかった。一番後で汲む人は、半濁りの水で我慢するより仕方なかった。
 校舎の中は、先入居者が行李やトランクなどで仕切って居場所を確保していた。「今、家を建てているので、出来上がり次第引っ越すので、狭いでしょうが、それまで辛抱して下さい」と、婦人が言われる。
 私たち一行は、当座の必要品だけ手荷物にしてきているので、壁代わりに仕切る物とてない。それぞれに居場所を決めたが、窮屈(きゅうくつ)な事、この上ない。
 アメーバに罹っている子がいると見え、舎内は何となく重苦しい感じがした。
 この度の入居者である私たち一行七家族のうち、一家族だけ松山市の方で、片岡さんといった。後の六家族は同じ村で皆姻戚になる者ばかりだった。
 私の家は七人の構成家族であった。兄は十三歳、私は十一歳、弟は五歳で男ばかりの三人兄弟だった。
 母は私たち兄弟がアメーバに罹るのを何よりも怖れた。
 翌日、母は善家さんから聞いたと言って、私たちが入植する地には大きな収容所があり、周りは拓けていて、原始林から離れているとの事。「せめて兄と私だけでもそちらへ行かせた方が安心だ」と父に言う。父もその方が良いと思ったのであろう、原始林の中の幅三メートルほどの車道を一人で歩いて出かけて行った。
 昼過ぎに父は帰って来た。向こうの収容所までの距離はここから約二キロ半程で、開拓地は広々として、家も三軒ほど建っている。
 日本人の井戸掘りが井戸を掘っていて、あと十日もすれば水が汲めるようになるという。あの井戸さえ早く出来ていたら、みんな収容所に入れたのに、と父は残念がった。
 次の日、父は弁当と手荷物を下げ、兄と私を連れて収容所へ向かった。両親が決めたこの決断が正しかったことは、後日分かった。
 原始林の中の道は薄暗かった。一キロほど行くと、急に目の前が明るくなった。開拓地である。伐採した山はよく焼けたらしく、黒焦げになった大きな倒木や切り株が点々と見える。何か植えてある。父は「棉だ」と言った。二十センチぐらい伸びていた。しばらく行くと、一軒の家が見えた。赤い瓦屋根で板作りである。「あの家は志津野さんだ」と父は教えてくれた。
 後年、私が十八歳になった時、短歌の手ほどきをしてくれた志津野華絵さんの家だった。家の後方には玉蜀黍(とうもろこし)が植えてあり、一メートル以上も伸びて青々として陽に光っていた。
 志津野家の前を右折していくと、丘陵になっていて、道は迂回する。また一軒の家が見えてきた。東京出身の島田さんの家だ。この家は一風変わった作りだった。床を二メートルも上げ、階段で上がるようにしてある。東京出身の方だから、蛇や獣を恐れて、このように作られたのであろう。父は「島田さん、島田さん」と声をかけたが、畑に出ていて留守とみえ、返事がないので家の側にある井戸の水を汲み、容器に満たして歩き出した。(つづく)


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