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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年10月号

2015年10月号 (2015/10/16) 三度目のブラジリアへ

サンパウロ鶴亀会 相沢絹代
 去る八月二十八日、コチア青年移住六十周年を祝って、ブラジリアで慶祝議会が連邦議会下院の講堂で行われた。これは、コチア青年の子弟である飯星ワルテル議員の提案により開かれ、当日はサンパウロから八十七人が参加した。
 知人より「どうですか?」と参加を誘われ、二つ返事で申し込んだものの、グアルーリョス空港まで各々が指定された時間までに来るようにとの事。さぁ、大変です。出発が金曜日の早朝なので、婿に頼みたいが勤めがあり、タクシーで一人で行くことも出来そうにはないし、やっとメンバーの一人と連絡が取れて、メトロとバスを乗り継いで行くことにしました。孫が心配して、私を連れて下見をしてくれました。本当に夜も眠れないほど悩み、申し込んだことを悔やみました。 
 当日、バスの乗り場に行ってみれば何のことはない。次から次へとバスが到着。一杯になると出て行くのです。バスの中央には年配者用の席があり、四十五分でグアルーリョス空港に着いてしまい、あんなに心配したことがまるで嘘のようです。
 他の団体で行く時は、市内のどこそこで皆が集まって、一緒に行くのが当たり前だと思っていたので、今回は本当に勉強になりました。
 過去に二回ブラジリア見学を楽しみましたが、今回のような慌ただしい弾丸(だんがん)旅行は初めてです。早朝に出発し、その日の夜九時半にはサンパウロに着いているのですから。
 国会の議員席などの見学ができ、コチア青年だからこそできた事だと言われました。またとない良い機会でした。ありがとうございました。


諸行無常

サンパウロ中央老壮会 三谷堅一
 諸行無常(しょぎょうむじょう)とは、仏教の根本思想で「万物(ばんぶつ)は常に変化して、少しの間もとどまらない」という事で、釈尊すなわちお釈迦様が修行の末に悟りに至った時の状態を表しているとの事です。
 「生者必滅(せいじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)」。すなわち、生きるものはいつか死に、人に会うという事は別れの始まりであるという事です。
 有名な平家物語の冒頭にも『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声。諸行無常の響きあり。沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色。盛者必衰(せいじゃひっすい)の理をあらわす。おごれる人も久しからず。』とあります。
祇園精舎とは須達長者(すだつちょうじゃ)が中インドのコーサラ国首都の舎衛城(シュラーヴァスティー)の地に、釈尊およびその弟子たちのために建てた僧坊で、竹林精舎と共に二大精舎と呼ばれています。釈迦は菩提樹(インドに産する喬樹)の下で入滅したといわれています。
 さて、諸行無常の解釈に手間取りましたが、最近、自分の身近な所でこの諸行無常になるような事が起こりました。
 それは、私の親友の一人で、六十年来の友人の思いもよらない突然の死です。彼は数年前に新しいマンションを購入して住んでいました。私は住所を聞いていましたが、訪問するには少々難しそうなので、訪問は不可と思っていました。
 ある日、雑事で友人と会った際、彼はメトロ、私は自分の車だったので、彼の案内で彼のマンションをやっと訪問できました。
 ほどなく昼となったので、彼の奥さんと三人で近くのレストランで昼食をし、再びマンションに戻り、四方山(よもやま)話。気づいたら六時。彼とは同県人という事もあり、長いつきあいでしたがこんな八時間も話したことはなく、初めてのことでしたが、同時に最後ともなりました。
 私と談笑した二日後の午前、彼は朝のウォーキングの最中に突然亡くなってしまいました。ウォーキングは彼一人だったので、詳細は分かっていません。が、想像するにウォーキング中に胸に痛みを起こし、道端にしゃがみ込んでいた所、通りかかった人が心配して救急車を呼んでくれたらしいのですが、救急車が着いた時には彼はすでに息絶えていたようです。
 それで身元不明のまま死体安置所に運ばれたと思われます。
 幸い彼の娘さんに判事になった人がおり、そんな関係で早々に身元は判明しました。
 さて、彼は突然に死亡。火葬と聞いていたので、当日の十六時に火葬場へ行くべく早めに家を出ました。すでに家を出る時に大雨が降りははじめ、雨の中、ちょうど低地を通過中、十台ぐらい前の車が突然停車して立ち往生。これでは間に合わないと判断し、三十メートルぐらいバックして、何とか危機は脱しましたが、低地の至る所が水没しており、これらを避けてあちこちと走っているうちに道に迷い、十六時はすでに過ぎ、火葬場行きは断念。暗くなってやっと帰宅できました。
 夜に奥さんに電話で状況を伝えましたら、「七日のミサにぜひ出席して、友人代表で挨拶して欲しい」との事で、了承しました。
 さて当日、会場の会館に早めに向かいました。宗教団体の本部でもあり、私もすでに何十回も行ったことがある場所なので、住所を改めて確認する必要もないままに出かけたのですが、ここ数年、まったく訪問することはなく、状況がだいぶ変わっており、特に一方通行があちこちにあり、どうやらすでに道に迷ってしまったようです。連絡したかったのですが、住所を確認していなかったので連絡も出来ず、この日も欠席。当日挨拶することになっていた私が姿を見せないので、当事者はアトラパーリャ(混乱)。結局、他の人に依頼して、なんとかその場は収めた由。私はまたしても大失態をしてしまいました。
 せめてものお詫びにまずはお墓参りをすべく、住所を聞いたところ、墓はなくて、納骨堂との由。場所は東本願寺で幸いにも五日後に納骨予定との事で、当日は早めにお寺に着きました。予定の時間が近くになりましたが、どうも様子が少々おかしいのです。私は納骨の前に本堂で最後のミサなどがあって、それから納骨されるのでは…と、勝手に自己判断していたのですが、時間が近づいてもそれらしき気配がまったくありません。かつ、参会者らしき人もまったく見えません。
 結局、参会者は私と家内の二人。他は故人の家族で夫人と娘さんのみ。やがて係りの人らしい人が来て、骨の入った箱を受け取ると、ハシゴを持って来て、かなり高い所にある納骨の箱に納めてお終い。
 あまりにあっけない納骨に少々驚いた次第です。やはり、これも諸行無常という事になりましょうか。


網走の想い出

スザノ福栄会 杉本正
 私にとっての人生の一コマですが、わずか七歳に満たない時のことなので、どなたも本当とは思われないでしょうが、私自身も不思議に思えるのですが、本当のことなのです。
 私は北海道の上常呂出身ですが、子どもの頃のある時、耳が痛み、母に連れられて隣町の野付牛の医師の診察を受けました。その帰り、野付牛駅で乗り換え待ちをしていたところ、真っ青な色の着物を着て、肩まで深く編み笠をかぶった人が誰かと共に来たのです。子どもの私にはそれは恐ろしく、母に抱きついて「あれは誰?」と聞いたところ、「うんと悪い事をした人はみんな網走という所にある家に連れて行かれるのよ」と言われました。ただ、その時は幼かったので、そんなものかな、と思っただけでした。
 後年、成長して、小学校六年生の時に修学旅行で網走町へ行くことになりました。距離にして三十キロ内外ですが、当時まだ海を見た事もなく、珍しくて、水族館などを見て回り、最後に全国から送られて来て、刑期が三十年以上も長期から無期懲役の受刑者が収容される監獄を見学させてもらいました。
 建物は片方は海に面していて、もう一方はセメントで固めた高い塀で囲まれ、刑務所はその中にあるので「とてもではないが脱獄する望みはないね」などと語り合ったものでした。
 ところが後日、脱獄した者がいて、警察は「脱獄犯が村内を通る可能性がある」と言って、大人たちは何日か夜警に出たりしたものでした。
 その当時、足に五寸釘を刺したまま逃げたという事から、その名を「五寸釘の寅吉」と呼ばれた西川寅吉の話は有名です。
 さらにまた他の囚人の話ですが、仙台に住んでいる母親に一目会いたいと脱獄したが、北海道から本州に渡るには当時、巡航船を利用するしかなく、証明書も無い犯罪者では乗船するのはおぼつかなく、泳いで渡るにしても五十キロ近くある海峡はとても不可能。港を厳重に固め、仙台の母親の元にも手配していたそうですが、その後、どうなったかの話は親からも聞いていません。
 以上、九十二年前の私の幼児期の想い出を書いてみました。
 ところで、一九九〇年に従兄が訪日した際、網走刑務所は監獄博物館となっており、中にはろう人形の警察官や犯罪者がまるで本物の如く各所に配置されており、当時の様子を再現していたという事です。
 また、本物の刑務所はもう少しこじんまりと市内の一角に移転されていたという事です。(杉本正記)
  ――☆――
「五寸釘の寅吉」
 彼は安政元年三月(一八五四年)、現在の三重県に百姓の次男として生まれました。
 寅吉が初犯をおかしたのは十四歳の時です。賭場でイカサマがばれて殺された叔父の仇を討とうと敵の一家に忍び込み、親分と子分四人を斬りつけ火を放って逃げたそうです。少年のため死刑を免れ、無期刑となって三重の牢獄に入れられた寅吉は、仇討ちをした相手がまだ生きていることを知り、牢獄を脱走。仇を求めて各地の賭場から賭場を渡り歩くうちに、すっかり渡世人の垢がしみついていきました。世は一大転換を遂げ、年号は明治と改められました。
 ある時、賭場が手入れをくらい、寅吉は逮捕されて三重牢獄に逆戻りしましたが、二度目の脱獄をし、今度は秋田の集治監に移送されました。しかし、寅吉は、ここもあっさりと脱獄してしまったのです。
 秋田から故郷の三重に向かって逃走する途中、牢獄でイカサマの手口を覚えた寅吉は、静岡のある賭場で荒稼ぎをしました。元来指先が器用だったのでけっして見破られることはありませんでした。しかし、一人であまりにも勝ちすぎたことから乱闘になり、数人に傷を負わせる事件を起こしました。非常線が張りめぐらされ、巡回中の警官に発見された寅吉は、逃げる時に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまいました。
 しかし、そのまま三里(約十二キロ)も逃走。結局、力つきて捕まってしまいましたが、この時以来「五寸釘」の異名がつけられました。寅吉の身柄は東京の小菅監獄に移され、そこから遠い北海道の地に送られることになりました。寅吉の名は全国に知れわたっていたのです。
 樺戸集治監では彼を畏敬する囚人たちの援助を得て、三度にわたって脱獄を繰り返しました。一度目は明治二十年夏、構内作業中、濡らした獄衣を塀にたたきつけ一瞬の吸着力を利用し、塀を乗り越えたといいます。人並みはずれた彼の脚力は捜査人を翻弄しました。
 今日札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌と、神出鬼没で、しかも豪商の土蔵から盗んだ金は、バクチで湯水のように使う一方で貧しい開拓農民や出稼ぎ夫の家に投げ込んだりしたため、一躍有名になったばかりでなく、庶民からもてはやされ一種のヒーローになっていったのです。
 しかし、半年後、釧路の賭場でついに捕まってしまいました。 二度目はこの年の冬、吹雪のあとの除雪作業中、仲間が投げる雪煙にまぎれるように脱走しました。しかし、三ヶ月後に函館で逮捕され、再び樺戸に連れ戻されました。
 三度目は仲間が食事の飯の中に隠して差し入れた特製の合い鍵で錠をはずして逃亡。警察当局の裏をかいてまんまと北海道を脱走し関西の大都市、大阪の人混みの中に姿を消しました。
 しかし、全国に張りめぐらされた捜査網から逃れることはできず福岡で捕まり、再び北海道に送られて今度は空知集治監に収容されました。ですが、ここも間もなく脱走します。さすがの寅吉もこの時は四十歳の峠を越して、体力も衰えていたものと見え、わずか一週間で逮捕され、釧路集治監に収容されました。そして、釧路の集治監が網走へ移動する時に、他の囚人たちと一緒に網走入りをしています。
 寅吉の脱獄は計六回にもおよびました。しかし、十四歳の少年期から悪の道を極めてきた彼も、網走に来てからは沈黙した穏やかな生活に入り、寅吉は監獄で働いて得たわずかな金を、捨てるように残してきた故郷の妻子に送金し続け、季節の変わり目には必ず手紙を書き送っていたといいます。大正十三年九月、ついに寅吉の長い長い獄中生活に終止符が打たれる日がやってきました。
 寅吉はすでに七十二歳になっていました。
 彼の出所を手ぐすね引いて待ちかまえていたのは、興行師たちでした。それを知った刑務所側は、彼が利用されるのを心配し、釈放日をずらし、秘かに出所させるなど配慮を払いましたが、興行師の手を振り切ることができず、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業したのです。
 寅吉は幾人もの興行師に利用されたあげく、最後には捨てられました。昭和の初め、故郷の三重県に帰り、息子に引き取られて、平穏な生活に入り、畳の上で安らかな往生を遂げました。(参考「博物館 網走監獄」ホームページ)


渡伯早々の悲哀(2)

スザノ福栄会 藤田朝嘉
 迂回した道を少し行くと、一段と高い所にトタン屋根が見えた。「あれが収容所だ」と父が説明する。道の左沿いに近道があるので下っていくと、低地になっていて、井戸掘りの人がいた。「こんにちは。ご苦労さんです」と声を掛けると「やぁ、藤田さん。子供さんを連れて来られましたね。井戸は交代で掘っているので、あと十日足らずで出来上がります。そうしたら、皆さんにこちらへ移って頂きます」と言われる。うず高く盛り上げられた土には石一つ無かった。
 この井戸から五十メートル程行き、丘陵となっている坂道を登っていくと、平地になり、収容所があった。手前に炊事場がコの字型に作ってあり、屋根はトタンで板壁なので、壁があるだけでも校舎よりましである。
 収容所の後ろに便所がある。まだ誰も使っていないので清潔だった。収容所の戸を開けて入ると、真ん中が通路になっていて、両側を一段と高くして、板敷きの床になっている。父は持ってきた物を床に置いて、「二人きりで淋しいだろうが、少しの間の辛抱だ。アメーバなどに罹るよりも良いと思って我慢するんだ。弁当は毎日私が持ってくるから、心配ない」と言う。
 父は兄と私を外へ連れ出して、この収容所の前あたりが私たち一行の入る土地らしい。今通って来た道の向こうにある丘の後ろには、ここからは見えないが、入植者の家が十四、五軒あるそうだ。いずれ近いうちに私たちの入る土地も伯父さんが来て決める。そうしたら、家建てで忙しくなる。寝る前には戸締りを忘れんように。明日また来る」と言って、もと来た道を戻って行った。
 私と兄は「少し歩いてみよう」と言って、焼け残っている木をよけながら行くと、棉が植えてある。ブラ拓が植え付けてくれたのだ。「低地の方へ行ってみよう」と兄は言って、井戸掘りの人を横に見ながら下っていくと、陸稲が植えてあり、十センチ程に伸びている。その左側に小さな川があり、小魚が泳いでいた。開拓地に小川があるという事が何よりもうれしかった。ただ、残念な事に三年後には水が無くなって涸れてしまった。みんなが山を伐って開拓地を広げた故である。
 兄と私が収容所に越して一週間がたった時、井戸が出来上がったので、校舎にいた人たちは引っ越してきたが、伯父さん一家がみえないので心配して母にたずねると「正孝ちゃん(五歳)が病気に罹って来れないの」だと言う。兄も私もびっくりした。「正ちゃんはオチンチンが痛いと言って、三時間おきぐらいに泣き叫ぶの」だと母は言うのである。その上にアメーバに罹ったと言うのだ。
 夜も「オチンチンが痛い」と泣くので可哀想でたまらなかったそうだ。伯母が言うには、オチンチンは見た目には何ら変ったことはないとの事。
「不思議な病気がブラジルにはある。お前たちも気を付けなければ」と、母は言った。
 正ちゃんが亡くなった知らせがあったのは五日後だった。収容所の人たちはびっくりすると同時に深い悲しみに暮れた。主だったものは食事を早めに摂り、元の校舎に行った。
 皆、夕方に帰って来た。母が言うには「正ちゃんのオチンチンは無くなっていた」と言うのだ。母も兄も私も皆、泣いた。弟・傳(つたえ)の良き遊び相手であった正ちゃんは、ブラジルに来てわずか十五日足らずで亡くなったのだ。色白でふっくらとした賢い元気な子であった。
 船の中では佐渡情話や清水の次郎長の浪花節を真似て、語って聞かせ、台詞一つ間違えずに言うので、大人顔負けするぐらいだった。弟の傳はいつも言い負かされていた。その正ちゃんが亡くなったのである。
 川平の伯父さん夫婦には三人の子があった。長女は和子さんで九歳、正孝ちゃん五歳、次女の教子ちゃん二歳の五人家族だった。
 ブラジルに着いてわずか十五日足らずで、目の中に入れても痛くない最愛の一人息子を亡くした伯父夫婦の悲しみは私の拙い文章では書き表すことができない。
 こんな事になるなら、ブラジルに来るのではなかった、と如何ほど悔やんだとて、元には戻らないのだ。
 伯父はブラジルへ来る前までは、村役場の助役を勤めていた。毎朝、ネクタイをかけて自転車で役場へ通う姿をよく見かけた。勤勉で正直だったので、次期村長は「川平さん」との声も高かった人だ。村の中を流れている広瀬川のコンクリート橋は、伯父の測量によって、昭和三年に架橋された。


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