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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2015年11月号
2015年11月号 (2015/11/15)
=心に留めた言葉=
サンパウロ中央老壮会 川崎二三男
一言憎まれ口を申してみたいと思います。実はお借りして読んだ仏教の本の中から目に止まった諺などを大まかにまとめた事を書いています。
人生に来世と言われる言葉があるべきと思います。有ると思うと、今生にてあまりにえげつない行いにて過ごしたとしたら、来世はゴキブリかあるいは蝿などに生まれ変わり、夢も希望もない来世になるかも知れません。
過去も未来も現在の自己が分かれば明らかで、三世因果とは「現在の自己を見よ」という教えの言葉にみえました。
=三世因果とは=
善因善果とは善い行いが善い運命(幸福)をもたらす。悪因悪果とは悪い行いが悪い運命(不幸)をもたらす。自因自果とは、自分の行いで自分の運命が決まるのだ、とありました。
なお、今生の種まきが来世の運命を決めるのです。
=火の車造る大工はおらねども、己が造って己が乗り行く=
地獄と言う所も、あるとは思いませんが、己が入る穴を己が掘るという事ではないでしょうか。
次には百%の正直が出世の肝要と言われますが、九九%の正直も僅か一%の不正直にて崩れ去り、一生を棒に振るものが多い。心すべき事、とありました。
最後に私共老壮会会員は家族の長老にあり、子どもや孫などには人生の手本でなければと思われます。昔から「嫁を貰うなら、親を見てもらえ」との言い伝えがありましたように人様に好かれる良き年寄りにて、残る人生を送るように心がけようではありませんか。
私の戦争体験
モジ中央日会老人部 西丸俊子
一九四四年六月二十八日夜、私が女学校の五年生、十七歳の時、岡山市がB29による空襲を受けました。一発の焼夷弾(しょういだん)が百ぐらいに炸裂し、家屋を焼き尽くしていきます。
七月三日の夜には私が住んでいる高松から見ると、東の空が真っ赤になっていました。徳島市が空襲を受けたのです。
その頃、私の家は兄が出征していて、母は里へ田植えの手伝いに行き、不在でした。父と祖母、私、弟二人の五人が家にいました。七月四日の夜半、警戒警報のサイレンが鳴り、父は防空帽をかぶり、学校を守りに行きました。中学生の弟は上級生が学徒動員で留守なので、これも学校の守りに出かけました。
私は祖母を防空壕(ごう)に避難させ、小学生の弟と防空壕の入り口で空を眺めていました。間もなく、警戒警報が解除になり、少し灯を点けました。その間、敵機は高度を上げ、上空を旋回し、市の大きさを把握していたのです。
突然、またボンボンと大きな音がして焼夷弾が落されたのです。空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りましたが、時すでに遅し。二百機以上ものB29が旋回し、町は火の海でした。海からの冷たい風が焼夷弾をあおり、町中へ飛ばしたので、海岸線にある我が家は焼けずに残りました。ものすごい数の焼夷弾が落ちる音は、ザッーという大雨が降る時の音のようです。その後、焼け野原になった町をB29が写真を撮り、引き上げて行きました。
川島町の林という所に飛行場があり、焼け跡の整理に何百人もの兵隊さんが高松に来て、その隊に交じって母も帰ってきました。
外を見渡すと、何もかも焼けてまっ平(たいら)です。三里(十二キロ)離れた私の学校だけが残っていました。鉄筋コンクリート四階建ての校舎で、当時、海軍の兵隊さんが常駐していました。焼夷弾がいくつも落ち、壁には穴が開いていましたが、兵隊さんが焼夷弾を外に投げたそうです。
私の家の裏の門から命からがら逃げ、憔悴(しょうすい)しきった顔の人がたくさん入って来て、休んでいました。
母がテキパキと指揮をして、逃げてきた人にも手伝ってもらい、私と弟で蔵から米を運び、おむすびを作り、四斗樽からタクワンを出し、おむすびと一緒に食べてもらいました。次々と被災者が来て、おむすびとタクワンを食べ、昼近くまで続きました。
その間、無事に父が帰りました。母は仏様にお燈明(とうみょう)をつけ、弟の無事を祈っていました。弟は昼過ぎに真っ赤な顔で目を充血させて帰ってきました。弟の話では走っている格好のまま背中に焼夷弾が突き刺さり死んでいる人、黒焦げになった子供の手を引いて黒焦げになって倒れている人、まったく地獄のようだと言っていました。
死んでいる人を兵隊さんが学校の運動場に並べて寝かし、肉親が一人ひとり確認に回り、兵隊さんは大きく掘った穴に死体をに入れ、ガソリンをかけ火葬しました。何日もその臭いが風と共に臭いました。
後にNHKの放送で知ったのですが、六十六カ所の都市が焼け野原になったそうです。八月六日午前八時十五分には広島に、九日午前十一時二分には長崎に原爆が投下され、十五日に終戦になりました。
渡伯早々の悲哀(3)
スザノ福栄会 藤田朝嘉
川平家は村でも旧家と云われた。よく友だちと一緒に遊んだ祗園の杜(もり)の前に樹齢六百年以上という大きな一本杉は、川平家の先祖がこの地に祇園様を勧請して、祠(ほこら)を建てた時、記念に植えたものである、と言い伝えられていた。
昭和四年だったと思う。伯父は二階建ての家を新築した。田畑山林もあり、その上に助役の月給が入るので、何一つ生活に困ることのない伯父がブラジル行きを決められたのである。
「川平さんがブラジルへ行くのなら、儂(わし)も行く」「儂も行く」となり、六家族のブラジル移住となったのである。
手続き一切は伯父がした。十年計画の出稼ぎ移民だった。
伯父は母と妹に後事を託して、断腸の思いでブラジルに移住した。事が解ったのは私が六十歳になって、伯父から手渡された「自分史」とも言うべき手記を読んだからである。
伯父は手記を手渡す時、私に言った。「この手記は和子にも見せてはいない。せめてお前にだけでも何故ブラジルへ十年計画で移住したかを知って欲しくて書いた」と。
私は家に帰って、伯父の手記を読んで愕然とした。
人様に言えない深い悩みが伯父にはあったのである。悩み煩悶(はんもん)した挙句(あげぐ)、ブラジルへの移住を断腸の思いで決行したのである。
県庁の土木課に就職が決まった時、母の猛反対で断念した伯父は仕方なく、村役場に就職したのであるが、この度のブラジル移住は人様にも言えない。そのような事があるのなら、家のため致し方ないと泣きながら母は許してくれた、と云うのだ。伯父の手記は「私一人の胸に納めて遺さぬ方がよい」と焼却した
思えば、伯父はブラジルに来てから不運続きであった。伯父は人格者で通る人であった。
ある日、伯父が突然、収容所に来た。「今日、皆の荷物が付くとの知らせがブラ拓の事務所からあった」と言う。やつれて不精髭(ぶしょうひげ)を生やし、憔悴(しょうすい)した伯父を見るのは、子供心にも胸が痛んだ。
午後一時過ぎ、自動車が収容所に着いた。皆、大喜びで名前の付いた荷物を床の上に分けて置いた。伯父は自分の荷物は片隅に置き、必要品だけ取り出し、手荷物にして「正孝の四十九日忌が済むまでは向こうにいる。明日また来る」と言って、帰って行った。
翌朝、伯父は見えた。今日は皆の土地をくじ引きで決めるという四人の家長を連れ出し、収容所の前の道を少し行って右折した。人一倍、好奇心の強い私は付いて行った。
しばらく行くと、まっすぐな道が原始林に向かって伸びている。伯父はまた右折した道を行く。この道は七組の方へ行く道だ。「ここで良い」と伯父は言って、ブラ拓から借りた西アレグレ区の開拓地の図面を皆に見せて説明する。「儂等(わしら)の入植地は八組だ。今、儂等のいる前に薮(やぶ)がある。あそこまでが七組で、薮の手前から八組だ」と言って、近くに生えているマルゴーゾを引き抜き、小刀で切って、長短のクジを五本作った。(久保田さんは七組に空いた土地があったので、そちらへ入った。私たちの入ったロッテより低かったが、平坦で綿作に適した土地であった)。
伯父はクジを左手に握って、倒れ木に腰かけて、一番短いクジが七組の隣接地、次に短いクジはその隣。一番長いクジが収容所前の土地だと言う。父は真っ先に引いた。最後のクジは伯父の手にある。五本のクジを見せ合うと、一番短いクジは片岡さん。次のロッテは音地さん。伯父さん、岡本さん、一番長いクジは父だった。収容所の前であった。
伯父の土地は片傾斜であった。「不運な者は土地運まで悪い」と伯父はぼやいた。
しかし、片傾斜の伯父の土地が一番地力があり、綿の木は大人の背丈ほど伸びた。
三年後、伯父は三アルケール植え付けて、六百アローバ以上収穫して、チエテ移住地の棉花収穫量番付で小結になったのである。あの当時、チエテ移住地には、棉花栽培者が六百家族以上あったのではないかと思う。
入る土地が決まったので、家長たちは六キロ離れたベラフロレスタ市街地へ農具と日用品の買出しに行った。私たち一行が来る時、一休みした所である。市街地は名のみでブラ拓の事務所と学校と十軒ほど家が建っているだけだった。
夕方、家長たちは帰って来た。翌日は朝から家長たちは鍬の柄、マッシャードの柄をすげるのに大童(おおわらわ)であった。農具は英国製だった。
荷物が着いて、敷布団の上に眠れることを喜んだのも束の間、弟・伝がアメーバに罹ったのだ。
母がお粥を作って食べさせようとしても「要らない」と言って食べない。
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