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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年12月号

2015年12月号 (2015/12/14) ♪仰げば尊し

セントロ桜会 田中保子
 いつもより遅い帰宅の娘は珍しく泣いた後の顔で気になったが、何も聞かずに夜食を付き合った。
 お茶になった頃、「今日、サイトウ君の卒業式を中継で見た」と言い、様子を話してくれた。
 サイトウ君はブラジル人の青年で日系人の多い町に生まれた。日本人の友だちが多い。出聖して高校、大学に入り、日本文化や日本語、マンガが好きになりエレーナ先生のマンガのグループに出会ったという。
 彼は日本語に磨きをかけ、日本の大学の国費留学生となった。専攻は国際法である。
 五年間の勉学を無事終え、今日の卒業の日を迎えた。
 卒業式の最後に在校生のコーラスをバックにサイトウ君は学長の前で堂々と「♪仰げば尊し」を歌った由。
 第三番まで立派に歌い通したサイトウ君を見た鬼娘もさすがに涙をこぼした次第。
 帰伯後、彼は日系企業に入社して世界中を駆け巡っている。

♪仰げば尊し
 一.仰げば 尊し わが師の恩
   教えの庭にも 早や幾年
   思えばいと疾(と)し この年月
   今こそ 別れめ いざさらば

 二.互に 睦(むつみ)し 日ごろの恩
   別るる 後(のち)にも やよ 忘るな
   身を立て 名をあげ やよ 励めよ
   今こそ 別れめ いざさらば

 三.朝夕馴(な)れにし 学びの窓
   蛍の灯火(ともしび)積む白雪
   忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
   今こそ 別れめ いざさらば


二十年ぶりの日本旅行(1)

ビラ・ソニア老壮クラブ 井口たき子
 長女さと子と英夫さんが迎えに来てくれて、私をグアルーリョス空港まで送ってくれた。長男、仁(ヒトシ)と出会い、二人一緒に日本行きの飛行機に乗ることが出来てホッと一息。そこで決められた席に落ち着くことができた。
 間もなく飛び立ち、ホノルルに到着。シェルトンホテルだ。外に出て晩ご飯。レストランのオムレツが美味しかった。
 翌朝、ホテルで目を覚まし、思いがけない美味しいみそ汁を頂いてから市内見物。
 アントニオのガイドで海辺を通る。スルフとか板で波に乗っている人が二、三人見える。楽しそうで真剣だ。
 赤い高級車が停まっていたので、自分の車のような感じで写真撮影。州長公邸などを見て廻り、二時半には昼寝をする。疲れもすっかりとれ、夕食にはうどんを食べた。
 ハワイの三日目。朝はバーガーキングという安くて美味しいのかな? 向かいの店で済ませた。その後、ヘリコプター遊覧に出かけた人たちを待ち、セントロ・クルツーラ・ポリネシアやトンガビイチなど島々を見て、さらにポリネシア諸島の文化の一つ、フラダンスを見に行った。さすが本場!上手に踊る。一日遊んで、夜十一時に戻りすぐに休む。翌日は早朝五時に起床して、六時には出発だ。ゆっくりと風呂に入り、シャワーも浴びて実に気持ち良かった。
 四月七日、ロビーで多少待たされたが、時間通りに出発。窓際に座り外を眺める。最高だ。いつもは飛行機や雲は見上げているものだが、今日は雲の方が下で泳いでいる。成田で降りて別の飛行機に乗り換え、大阪に到着。六時に起床し、朝食をとる。大阪の水は美味しくなさそうだ。けれど、とにかく飲まなければ。二十年ぶりの雪。一昨日は二五℃、さっきまでは三〇℃のハワイ。そして今はマイナス気温の日本だ。早速、大阪城まで一五分ほど歩く。水族館ではピングインや大きな魚を見る。同じ水族館でもサントスのよりも魚が大きくてスケールが違う。大阪の造幣局近くで満開の桜並木を見る。実に見事で写真を撮る。
 十日はホテル日光。朝食は七時、出発は八時でバスに乗る。私は右側に座り外を眺めると霧雨で真っ白だ。大阪の市内見物で、綺麗に手入れした庭を通り過ぎるとトンネルだ。山のふもとは家また家。トンネルを出たと思ったらまたトンネル。ピッコ・デ・ジャワグラのような山が見える。雨だ。十時三十分には自動車道を走る山の上にいた。そこから長いハシゴが下がってる。何のためだろう? そして部落が見える。きれいな瓦屋根の家々。たしか古い瓦屋根は灰色で、赤いのは新しい家だ。埼玉の夫の家を思い出す。八〇年に訪日した時と、九〇年に行った時は夫の兄さんが喜んで迎えてくれた。この度は、もう二人ともあの世の人だ。そして、日程も無い。思いながら生まれ故郷はお流れ。
 十二日。新幹線で広島から京都へ。
 十三日は二条城を見学。桜も綺麗だ。八〇%はソメイヨシノで、あちこちに咲いている。その後、金閣寺などを見ていたら、小雨がパラパラと降り出した。
 十四日は都ホテルに宿泊。シトシト雨の中、八時に出発。伊勢神宮、三重県や名古屋へ向かう。三重県の鈴鹿工場には多くのブラジル人が働いている。名神高速道路は一九六三年に出来て、一番古い高速道路である。霧雨の中、休憩を挟みつつトンネルを抜けると、名物「赤福」の文字も踊る。外の風景は田んぼ、畠、川、お墓などが見える。伊勢神宮を一時には出発。三重県桑名市にある植物園「なばなの里」でチューリップや白や桃色の桜を存分に眺めた。
 一五日は、山また山の間を車が走る。田んぼ、畠が続く。土地が平らにきれいにしてあるのを見て、父の言葉を思い出す。「ブラジルは良い所だ。広くて広くて、狭いということを知らない」と言いながらエンシャーダを振り回していた。お客さんが来ても長兄に任せて、自分はさっさと畠に出てしまった。日本ではこの辺の畠をいじっていたのかしら? きちんとしているが、狭い。(つづく)


渡伯早々の悲哀(終)

スザノ福栄会 藤田朝嘉
 食物を摂らない弟・傳は日毎にやせて行く。家の者は畑に出ているので、私は傳を抱きかかえるようにして便所に連れて行くと、金隠しにすがってウン、ウンとか細く唸る。少し排泄したら「もういい」と言うので、寝床に連れ戻す。その繰り返しだ。傳の手足は骨と皮になった。「もう駄目だ。今夜は寝ずに見守ってやろう」と父が言うので、薄暗いカンテラの灯りで傳の枕辺に座って見ていると、何か言うのだ。母は傳の顔に自分の顔を近づけて聞くと、「お寿司が食べたい」と言っているのだと。母は困った。荷物が着いたとは言え、寿司の具にするものは何一つないのだ。義祖母に相談すると、「酢は持って来てあるから、それで真似事のお寿司を作って食べさせよう」と決まった。母は早速、米を磨いで仕掛けた。
 ご飯が蒸せ終わると母は砂糖と塩と酢を利かせて真似事の寿司を茶碗によそって、箸で挟んで食べさせると「うまい」と言って食べるのだ。今までお粥も食べなかった傳が真似事の寿司を「うまい」と言って食べる。無くなると、もっと欲しいと言う。父は「食べたいだけ食べさせた方がよい」と言い、母も心得ていて、また、ご飯を食べさせた。
 食べ終わった傳はしばらくして眠りについたので、父が兄と私に「寝てもよい」と言ったので寝床に入った。
 翌朝、目覚めると母は傳の枕辺に座ったまま居た。一晩中、傳を見守っていたのだ。傳は目覚めると、また、「お寿司が食べたい」と言うので、母は食べさせた。ところが、不思議である。真似事の寿司を食べてから、食欲がつき、ご飯も食べるようになり、めきめきと元気がつき、一か月後には元の丈夫な体になったのである。
 助からぬ、と思った傳に寿命があったのである。
 私は後年、この事を子だくさんの善家さんに話したら、善家さんは「儂(わし)の家でも同じような事があった。七歳の次男がアメーバに罹り、やせ細ってしまい、骨と皮だけになって、明日の命も無いという時『キュウリの酢もみが食べたい』という。キュウリは不消化物である。医者に相談したら、おそらく与えてはいけないと言うに決まっている。どうせ助からぬ命なら食べたいものを食べさせたほうが良い。死んでしまってから「あの時、食べさせてやればよかった」と言って悔やんでも後の祭りだ。「作って食べさせろ」と言って、家内がキュウリの酢もみを作って食べさせたら、同じように「うまい、うまい」と言って食べ、「もういい」と言うまで食べさせたら、食欲が付き何でも食べるようになり、一か月後には元の元気な子になったという。
 後で思った事だが、キュウリの酢もみやや酢飯の「酢」が腸内のアメーバ菌を殺して、回復させたのではないかと。
 ブラジルに着いてから、毎日晴天続きであった。野菜の種子を持って来ているけれど、蒔くこともできない。正月が来るというのに、何一つご馳走も作れない。毎日毎日、ご飯とフェイジョンの甘煮ばかりで過ごしているのだ。
 一九三五年の年は明けた。皆、原始林の上に昇る初日を拝む。〝原始林の上に初日の出づるとき開拓者われら皆手を合わす″〝一片の餅もたうべず原始林の上に昇れる初日を拝む″
 二日目の朝だった。南の原始林の上方から黒い入道雲が出て来て、風が吹き出した。雲足は早く、たちまち開拓地と収容所の空を覆いつくした。稲妻が光った瞬間、頭上で大雷が鳴った。大地を引き裂くほどの大雷が鳴り続いた。原始林の方でもドロドロと鳴り響くのだ。後年、私が大人になって覚えた念腹の「雷や四方の樹海の子雷」の名句そのものだった。
 皆が「ブラジルは国が大きいだけあって、雷の音まで大きい」と言う。大粒の雨が降り出し、慌てて収容所の中に入ると、トタン屋根に当たる雨音は木琴を鳴らしているように聞こえる。本降りになった。屋根に当たる雨音はバラバラ鳴り響くので、人の話し合う声も聞こえない。
 雨漏りがするらしく、バケツを据えている人もある。どしゃ降りの雨は二時間ほどで止んだ。旱天の慈雨と言って皆、大喜びした。明日はそれぞれの畑に野菜の種子おろしが出来る。
 二月に入って間もない日、私の上膊(じょうはく)部がキリキリと痛む。腕を見ても変ったことはない。しばらくすると、またキリキリと痛むのだ。私は正ちゃんと同じ病気に罹ったかと思うと、怖かった。腕の痛みは日毎に増したが、十二歳になった私は泣くほどの痛さではなかった。
 翌日、私は倒木に腰かけ、腕の痛む所を陽に当てるようにしてよく見ると、毛穴ほどの穴に汁が少し出ていて、何か白い小さなものが見えた気がしたが、すぐ消えた。義祖母が収容所にいたので話すと、局部を布で拭いて、絆創膏を貼ってくれた。その日、一日腕は痛んだが、翌日は痛まなかった。二日ほど経ってから私は絆創膏を剥いでよく見ると、小さな白い蛆が貼り付いているのだ。ビックリした。家の者に見せると、皆、ビックリして、ブラジルという所は不思議だ。生きた人間の体に蛆が入る。正ちゃんのオチンチンはこの蛆に冒されて亡くなったのだという事がはじめて分かったのである。
 蛆には身に線があって、黒い針のような毛が付いているので、蛆が動くたび、肉に当たり、キリキリ痛むのである。この事が校舎の先入居者の中で誰かが体験していたら、正ちゃんは死なずに済んだのではないかと思うと、残念でたまらなかった。不運だった正ちゃんが哀れでならなかった。
 後年、正ちゃんの骨あげは伯父と私でした。その後、伯父は正ちゃんの遺骨は埋葬せず、家で祀っていた。
 娘婿の希望でパラナからパラカツへ移住した伯母の訃報を手にした私は、妻と二人でお悔やみに行った。二年前に娘婿は交通事故で亡くなった。伯父は「儂が死んだら、正孝の遺骨は胸に抱かせて埋葬するように」と和子に遺言してあると話した。
 僅か五歳で助かるべき命をなくした正ちゃん。ブラジルに来て、不運続きであった伯父を想う時、私の胸は痛む。伯父は九六歳で世を去った。


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