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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2016年1月号

2016年1月号 (2016/01/12)
杉本さん.jpg
杉本正(まさし)さん(スザノ福博村福栄会)一〇〇歳、おめでとう

北海道出身。1917年1月8日生まれ。今月、かぞえでちょうど100歳になります。1931年、家族と共に渡伯。カフェランジャに入植しました。
その後、スザノに移転。一貫してバタタ作りに携わりました。その間、農事協、日本人会、福祉団体その他の要職を務め内外の賞を受賞。
1975年に創立したスザノ福博村福栄会(老人会)の創立会員であり、長年にわたって会長も務めました。
当連合会では会館設立に寝食を忘れて奔走。99歳の今も月1回の代表者会議に相談役として出席されております。
記憶力も抜群。熟連の「生き字引」というところです。「矍鑠(かくしゃく)」という言葉は杉本さんのためにあるのでは…。


新しき年を迎えて

熟連会長 五十嵐司
 ブラジル各地のクラブ会員の皆さま、明けましておめでとうございます。
 お元日にはご一家の方々がお揃いで、賑やかに新しき年をお迎えのこととお慶び申し上げます。お蔭さまで、連合会本部の業務もすべて無事に終了、心置きなく越年いたしました。
 なお、昨年は当連合会創立四十周年にあたり、式典やイベントなどで各方面のご協力を頂き、感謝いたしております。本年もなにとぞ宜しくご指導ご鞭撻(べんたつ)を賜(たまわ)るようお願い申し上げます。
 さて、私こと昨春色々な用件のため帰省いたしました。久しぶりに見る故国の風景は以前にも増して豊かで平和そのものと感じましたが、国の外では近東地域の紛争、難民たちの命がけの大移動や、各地の暴力テロ騒ぎ、近隣国からの不気味な威圧など不穏な状態が続き、この先、日本内地やこの南アメリカにも何事か波及してくるか、との不安に駆られます。この無風帯のようなブラジルに於いても、選挙民たちの寛容性に甘え切った、道徳性や能力の不足しているような政治当局者たちの放漫のせいか、気候温暖、資源豊富で本来ならば充分豊かであるはずのこの国の財政・経済が現在は困難な状況に陥っている有様で、この二〇一六年以降どのようになって行くか予断を許さないものがあります。いずれにしても回復には長期戦になるだろうと云われておりますが、我々移住者は母の国を離れ、行く先で出会うであろう如何なる困難にも耐える覚悟と勇気は持って来てはいるものの、あらためて考えさせられるものがあります。ただ、どのような場合にでも日本人の持つ智恵と忍耐努力を保ち続ける信念が大切と思われ、今回日本人科学者たちに与えられたノーベル賞受賞の例は良き教訓を示しているように思います。たまたま、その昔体験した事柄を書きました「青春時代の思い出 北里研究所」と言う一文を載せましたので、何かご参考になさって頂けたら嬉しく存じます。
 新しき年を迎えて、皆様のご健康とご一家のお幸せを心からお祈り申し上げます。


年頭所感

(在日本)全国老人クラブ連合会会長 斎藤十朗
 新年あけましておめでとうございます。
 ブラジル日系熟年クラブ連合会の会員の皆様には、健やかに新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 いよいよ本年は、第三十一回目となる夏季オリンピックが、貴国・リオデジャネイロにおいて開催される年となりました。南アメリカ大陸で夏季オリンピックが開催されるのは初めてのことであり、開催地はもとより国内中が大いに盛り上がっていることと存じます。
 すでにご案内のとおり、次回二〇二〇年の第三十二回大会はわが国・東京での開催が決定しており、急ピッチでその準備が進められているところです。
 貴国から我が国へ引き継がれるオリンピックが、両国の関係をより一層深める機会となることを確信し、今から楽しみにしております。
 さて、昨年創立四十周年の節目の年を迎えられた貴会におかれましては、本年は新たなる一歩を踏み出される年であります。先人が築き上げてこられた日系高齢者の結びつきの場として、また高齢者福祉の増進や日本文化の継承の場として、貴会がさらなる発展を遂げられますことをご期待申し上げます。
 わが国は社会保障制度の充実によって世界に冠たる長寿国を実現しましたが、急速に進行する人口の高齢化・少子化にともない、現在、大きな変革が求められています。そのような状況のなか、私たち高齢者も自らの健康づくりや地域における相互の助け合い活動をとおして、社会に寄与・貢献したいと考えています。
 全国の老人クラブでは、「のばそう!健康寿命、担おう!地域づくりを」を合言葉に、より多くの高齢者の力を結集し、取り組みの裾野を広げる「老人クラブ一〇〇万人会員増強運動」を展開しているところです。この運動を通じて、広く国民に高齢者の意欲と姿勢を示してまいりたいと考えております。
 今後も、ブラジルの会員の皆様と交流を深めながら、高齢者の活力が発揮できる場の拡充に努め、高齢期を生きがいと誇りを持って暮らしていける社会づくりを目指したいと思います。
 年頭にあたり、貴会の益々のご発展と、会員の皆様のご健康、ご活躍を祈念いたしまして、新年のご挨拶といたします。


新年のご挨拶

在サンパウロ日本国総領事 中前隆博
 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 旧年中は、皆様に多大なご支援をいただき心より御礼申し上げます。
 世界最大の規模を誇る日系人コミュニティーを擁するサンパウロへ、総領事として昨年六月に赴任以来,日系社会の皆様との対話を重視し、様々な行事に出席させていただき有意義な年を過ごすことができました。この地に渡り、多大な努力を重ね、勤勉、誠実といった日本人の美徳を実践し、ブラジルの社会で大きな尊敬と確固たる信頼を獲得してこられた日系社会の皆様の高いお志に触れることができました。一人の日本人として大変誇らしく思うとともに、日系社会の皆様の長きにわたるご尽力に対しまして心から敬意を表します。
 昨年は日伯修好通商航海条約締結百二十周年及び在サンパウロ日本国総領事館開設百周年を祝いました。日伯百二十周年事業ではブラジル全土、また日系社会等で様々なイベントや日伯交流行事が盛大に開催されました。  
 特に、十月から十一月にかけて秋篠宮同妃両殿下がブラジル各地を御訪問され、滞在中に多くの方に温かく迎えられましたことは、更なる日系社会の発展、日伯友好関係の益々の促進を予期させるすばらしい出来事として私共の記憶に残るものでした。
 本年はリオデジャネイロ・オリンピック・パラリンピック開催年となります。サンパウロを含む各地域においてもキャンプ地や試合会場として候補があがり、今後大きな盛り上がりを見せるものと思います。またこれを機に、日本政府が推進している「スポーツ・フォー・トゥモロー」により両国のスポーツ交流もさらに推進して行くことでしょう。日系社会の皆様とともに大会が成功裡に開催されるよう応援したいと思います。
 今年も皆様にとって実り多き良き年となることを願うとともに、ご健康とご多幸をお祈りして、私の年頭の挨拶とさせていただきます。


新年のご挨拶

国際協力機構(JICA)ブラジル事務所所長 那須隆一
 新年あけましておめでとうございます。
 皆様におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。旧年中は当国際協力機構(JICA)の事業に対して格別のご支援を賜り、心より感謝申し上げます。
 昨年は日本とブラジルが外交関係を樹立して120周年を迎え、各地で様々なイベントが開催されましたが、何といってもハイライトは十月末の秋篠宮同妃両殿下のブラジル訪問ではなかったかと思います。皇室のご訪問は七年ぶりで、今回はサンパウロをはじめ十二日間かけて十都市を回られたこともあり、皆様におかれましても非常に感慨深いものがあったのではないでしょうか?
 今回両殿下が訪問された「憩いの園」、また貴連合会をはじめといたしまして、JICAは、現在、高齢者福祉分野に、高齢者介護福祉八名、栄養士二名の計十名の日系社会ボランティアを派遣しております。また、本年度の派遣に向けて、高齢者介護福祉三名、栄養士一名、作業療法士一名の計五名のボランティアの選考を実施中で、これらの日系社会ボランティアの派遣を通じて、高齢者の方々が生き生きと、健康に、楽しく過ごされるよう貢献できればと考えております。
 今年はいよいよリオデジャネイロ・オリンピックが開催されますが、リオの次は東京が五輪を受け継ぐことになり、スポーツを中心とした日伯両国の絆が一層深まることが期待されます。JICAは、日系社会ボランティアの派遣や高齢者福祉分野の日系研修員の受け入れを通じ、引き続き日系社会の高齢者福祉に貢献していくとともに、その成果がブラジル社会全体の高齢者福祉の向上にも寄与することにより、両国の絆をつなぐかけ橋になれればと願っています。
 最後になりますが、新しい年が貴連合会及び会員の皆様にとって最良の年となりますよう心からお祈り申し上げます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


夢と希望をもって

JICAシニアボランティア 与那覇博一
 新年おめでとうございます。
 ブラジル日系熟年クラブ連合会の皆様には日頃から家族共々大変お世話になり、心より感謝しております。JICA派遣のボランティア活動も残すところ、あと約半年となりました。人生でこんなにも月日の流れを早く感じるのは始めての経験です。
 昨年は特に日伯百二十年の絆を記念する行事も多く開催され思い出深い一年となりました。日伯両国が益々発展することを心から願っています。
 高齢者介護のボランティアとして特に日系一世・二世の皆様との出会いと交わす言葉は貴重な体験で、多くのことを学ばせて頂き同時に皆様に対する尊敬の念が絶えません。
 特に個人的に印象に残る出来事の一つは日本祭りの高齢者プログラムでレクリエーションを担当させてもらったことです。このような大きなイベントに高齢者のプログラムが組み込まれているのは驚きでしたが、何よりも参加している高齢者の方々がみんな元気で活気に満ち溢れていました。今年の日本祭りも楽しみです。
 もう一つはサンパウロ大学の老人学国際学会で指体操の発表をさせて頂いたことです。認知症予防に効果を期待される体操の一つでオリジナルも組み込みましたが伯国の専門家の方々からも評価して頂き感謝しています。 今後は日伯の高齢者介護分野でも相互研究が進み貢献できるように願っています。
 熟年クラブ主催の温泉旅行に同行したことも忘れられません。初日の夜に健康講演とレクリエーションをプログラムに取り入れました。行き帰りのバスではレクリエーションを担当しマジックショーや歌を楽しみました。皆さん、これからも素敵な旅を楽しんで下さい。
 巡回先のクラブではいつも温かく迎えて下さり、ありがとうございます。そこで楽しみにしていることの一つが皆様方の手料理です。和食中心で、健康的で美味しく、いつもおかわりして頂いています。お陰様でだいぶきつくなってきたズボンが何着かあります。今後も皆様が世界も認める和食の伝統を継承されて、伯国の食文化にこれからも寄与されるよう願っています。
 今年はブラジルでオリンピックも開催され世界中から注目されますね。そして四年後は日本の東京で開催されます。不思議な縁を感じます。また、ジャパンハウスのプロジェクトも今後期待できますね。現在ブラジルは決して明るい話題ばかりではありませんが夢と希望を持って前向きに歩みたいものです。大きくジャンプする時は一度腰を低くかがめます。今はそんな時かも知れません。
 様々な活動を通して皆様が人生を楽しまれ、健康で幸せな一年を過ごされますように心から祈念しております。


新年のご挨拶

ブラジル日本文化福祉協会会長 呉屋春美
 ブラジル日系熟年クラブ連合会の皆様、新年あけましておめでとうございます。
 旧年中はブラジル日本文化福祉協会に対し温かいご理解とご支援・ご協力を頂きまして誠にありがとうございました。
 昨年、ブラジル日本文化福祉協会は無事還暦を迎えることができましたことは、一重に皆様のご支援とご協力の賜物であります。この場をお借りし、心より感謝を申上げます。意義ある六十年の歴史を未来の歩みとし、さらなる発展に努める所存でございます。
 さらに昨年は日本ブラジル外交関係樹立百二十周年という大きな節目を迎え、多くの交流事業が実施されました。その中でも移民八十周年以来となった秋篠宮殿下のご来伯はブラジル日系社会を大きな感動の渦に包み、皆様にとって明るい話題となりました。
 今年は申年。「申」は樹木の果物が熟して固まっていく様子を表す漢字だといわれています。実りに向かって成長する上でも、百二十周年記念事業は日系社会のエネルギーとなったのではないでしょうか。
 老人クラブでは数々の文化教養教室が運営されています。皆様におきましては若人に負けないエネルギーと情熱を活動に注ぎ、ブラジル日系社会の一員として日本文化の紹介に携わっておられますが、ますますご壮健で明るく健やかに過ごされますことを祈念いたします。
現在、ブラジルの政治経済は極めて厳しい局面を迎え、その余波は当然のことながら私共日系社会にも及んでおります。このような状況の下でブラジル日本文化福祉協会におきましても、本年度の重要課題として、文協文化ホールプロジェクトの推進があげられますが、より一層の努力を持って頑張ってまいりたいと存じます。
 このプロジェクトが日頃より文協をご愛好頂いております皆様のご活動をより充実化させ、ブラジルにおける日本文化の普及活動に実り多い収穫をもたらしてくれるものと確信しております。
 日系団体も二世から三世へと移行し、それに伴う団体離れと会員減少という連鎖作用というべき現象も危惧されています。ブラジルにおいて日系団体が存続するため最大の要素は日本文化の伝承であると思われます。それらの数々を実行に移されています老人クラブの皆様方の熱意に敬意を表します。
 機関紙『老壮の友』を発行されます関係者の皆様、そしてその活躍を維持されるブラジル全土のそれぞれの地域で活躍される会員の皆様のますますのご健勝とご多幸を祈念しまして、新年のご挨拶とさせていただきます。


新年のご挨拶

サンパウロ日伯援護協会会長 菊地義治
 ブラジル日系熟年クラブ連合会(熟ク連)会員の皆様、役員の皆様、そして関係者の皆様、新年明けましておめでとうございます。
 二〇一六年(丙申)の新春を迎えるにあたり、サンパウロ日伯援護協会(援協)を代表して一言、新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中は援協の社会福祉・医療事業に対し、多大なる御支援、御協力を賜り、篤く御礼申し上げます。
 さて、二〇一五年度の援協の経営全般に就きましては、福祉介護事業及び医療事業共に不祥事や事故もなく、日伯友好病院の好調な決算を背景に引き続き、堅調に推移いたしました。
 福祉介護事業ではさくらホーム、サントス厚生ホーム、あけぼのホームが神内プロジェクトの完工により、見違えるほどに一新され、入居者は快適で楽しい入居生活を送っておられます。又、スザノイペランジャホームも日本財団の資金援助で改修工事が完了し、入居者は快適な住環境の下で健やかに暮らしておられます。お陰さまですべてのホームは満杯で入居待ちの状況が続いております。
 さて、近年、ブラジルでは公益社会福祉法人の認定に対する法規制強化により、今後は援協もブラジルの政府及び公的機関との提携事業並びにブラジル人及びブラジル社会をも対象とした幅広い福祉事業活動が求められております。斯かる状況下、援協はブラジル社会の時流に即した、しっかりとした組織体制作りを行い、援協の将来に亘る長期的な存続の可能性をより確実なものにし、援協精神の原点であります「高齢者及び社会的弱者の救済援護」事業をさらに充実・発展させていくことが肝要であり、この課題達成に向け、努力精進してまいります。引き続き、皆様のご指導とご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。
 さて、熟連様の活動は会報誌「ブラジル老壮の友」の刊行、カラオケ、舞踊、コーラス、マージャン、民謡、練功、カラオケダンス、絵画、囲碁、ポルトガル語、書道、百人一首、俳句、川柳、名画鑑賞、健康表現体操、なつメロ等々、広範多岐に亘って活発にいろいろな素晴らしい活動をされております。
 ブラジルは年々歳々、高齢化が進んでおります。そのブラジル社会の中で日系社会がいかに日本の伝統と文化を維持し、独自性を発揮し、そして融和、融合しながら、発展していくのか。その意味でも熟連様が果たす役割はこれから益々、重要になっていくことと思います。微力ながら、援協も熟ク連様のご協力を得ながら日系社会発展のために努力をしてまいりたいと考えております。
 結びに関係者の皆様のご多幸と熟連様が益々その活動範囲を拡大し、その存在感を高め、日系社会高齢者の交流・社交の場、憩いの場として大きく発展されんことを祈念致しまして二〇一六年の年頭のご挨拶とさせていただきます。


新年に思うこと

ブラジル日本都道府県人会連合会会長 本橋幹久
 一年の計は元旦にありと申しますが、ブラジル日系熟年クラブ連合会が新年号機関紙「老壮の友」を発刊されるにあたり、ブラジル日本都道府県人会連合会を代表いたしまして、皆様へのメッセージを申し上げます。
 本年は、ブラジル日本移民百八年、そして南米大陸で初めてオリンピック・パラリンピックが八月五日からリオデジャネイロで開かれます。日本からの応援団や二〇二〇年の東京オリンピックに向けての関係者も多く来伯するのではないかと思います。
 県連も創立五十周年という節目を迎え、日本とブラジル、そして近隣の日系人との交流をより密にしたいと願っています。県連の発足は、当初は、戦後海外からの引き揚げ、ブラジルに移住した日本人の権益を擁護する団体として、また移住者の消息調査、移住者家族子弟研修生の送出など、すべて移住者の切実な問題に対処する目的で発足しました。しかし、戦後七十年を過ぎ、県連は、開拓先没者慰霊碑の管理、日系人の交流を深める「移民のふるさと巡り」、そしてこれも恒例となった「フェスティバル・ド・ジャポン」があります。それとともに母県を繋ぐ留学生、研修員制度の復活や増員がこれからの役目です。
 ブラジルに移住された方は戦前、戦後を通じて約二十五万人といわれ、今ではその数は少なくなり、ブラジルで生まれた二世の方でも、百歳以上の方がいるのではないかと思います。
 ブラジル日系熟年クラブ連合会は、ブラジル在住の日系在宅高齢者の老後生活充実を目的にされ、この中で会員相互の親睦と相互扶助、生きがい増進のための文化・体育活動、福祉活動やその他の行事に参加しておられることは、いつも熟年クラブ大会、カラオケ大会、芸能祭、ゲートボール大会など見させていただいて、心強く感じております。またこの方々の多くがフェスティバル・ド・ジャポンを支えてくださることは、心強く思っております。
 連合会のクラブ会員も一世から二世、そして三世、四世へと活動がこれからも末永くブラジル日系熟年の心の支えになることは間違いありません。この組織がブラジル全土に広がり、名実ともにブラジルの日系熟年クラブの連合会になるとともに、今年もますます発展され、皆様方の心豊かな生活と明るく活気ある社会作りに貢献されることを祈念いたします。


~ 日々の日誌の中から ~「波乱もあった老ク連」

スザノ福博村福栄会 杉本正
 一九七五年八月八日に創立された老ク連も歳月の流れは早いもので、昨年は四十周年を迎えました。二十周年記念祭には会館建設案を本格的に発足し、三十周年記念祭には三十周年史を発行し、昨年四十周年を迎えるにあたっては、本会館前庭に建立されている地蔵尊に本協会員ご家族一同の安泰をお守りして下さるよう仏事にて祈願の礼拝を謹んで行いました。
 次いで四十周年式典に際しては在サンパウロ日本国総領事館より中前隆博総領事はじめ各界の名士の方々が出席して下さり、ご祝辞も賜りまして、誠に感謝の至りです。
 さて、創立四十周年を迎えての、思い出の記事でも投稿して欲しいという事で、少し書いてみたいと思います。
 私は老ク連(現・熟連)の役員に籍を置かせてもらって三十年、その間のことは三十年史にも自分なりの思いを記載させて頂きましたが、今回はひとつ、内容を変えて老ク連も今日まで穏やかな姿ばかりで歩んできたわけではなく、その裏話を簡単に書かせて貰おうと思います。
 まず、当時は役員でありましても、定款などあまり気にはせず、設けていなかった顧問を勝手に設け、会員諸氏も別に気にもしない事なので、本来ならば臨時総会もと、考えはしましたが、当時のことゆえ、役員のみでということになり、後日、承認したという形にして処理したこともありました。今から考えると、会員が問題にしたらと、思うと冷汗三斗の思いです。
 また、事務局長排斥問題もありました。その頃は常任理事会と各支部クラブより特別選出した十四名の普通理事会が設けてありました。
 常任理事会で事務局長不都合なる事となり、除名することになり、顧問を議長として、除名の件について発表致しました。理事会はその発表を聞いて、一応調べてあったので、「なんら事務局長を除名(退任)させる理由はない」と全員が反対にまわりました。議長提出案として、投票にて決定する事となり、結果、常任理事案は否決されました。
 しかし常任理事はあらかじめ用意してあった役員総辞職案(副議長一名のみ反対)を議長に提出しました。ですが、議会が理事会はすでに承認された事にて、閉会を宣言しました。
 後日、この問題が蒸し返され、当時務められた議長は顧問であるからか、自己顕示欲が強いのか、なぜか諦めきれず、意中の人を通じて、真鍋さんと私に事務局長が引くように取り組んでほしいとの相談を申し込んできました。
 しかし、理事会の拒否にて決定済みの事であり、何ら権限もない私たちに無謀な謀(はかりごと)の相談として、はねつけたものでした。
 相手方もさる方で、分かってもらえないなら、本会の脱退もあると言われたので、老ク連の権威を示すためにはっきりと「脱退することは自由成り」と申したものです。
 さらに各クラブの理解者に手を回して、幾名かが私たちに電話をかけてきたものでありましたが、「話をする必要は無し」と、これまたはねつけました。
 後日、議長が出身の老人クラブは脱退されましたが、会員には何らの説明も無かったという事です。会員は不審に思いながらも、おとなしく従ったのでした。
 お偉い御方も逝去され、会員諸氏も昔のこととして忘れ、今は熟連に復活されました。
 思うに私たちより教養ありし御方でありながら、なんでこのような馬鹿げたことを考えられたのかと、腹が立った一抹でした。当時、携わった御方は皆、逝去されました。


~ 青春時代の思い出 ~「北里研究所」

名画友の会 五十嵐司
 二〇一五年度のノーベル医学・生理学賞は北里研究所の特別栄誉教授である大村智氏の熱帯病治療薬開発への貢献(こうけん)に対して与えられた。
 その薬はアフリカや南アメリカなどの熱帯地の風土病で、ある種の寄生虫(きせいちゅう)が人間や家畜の皮膚(ひふ)を冒(おか)し、眼に入り込み失明に至る悲惨(ひさん)な病気オンコセルカ症を年一回の投薬で予防・治療する特効薬(とっこうやく)である。この薬は始め土壌(どじょう)に生息する放線菌(ほうせんきん)という微生物(びせいぶつ)の一種から生産されるエバーメクチンという物質を発見し、その構造を調べ、それにもとづいて作られた同質の有機(ゆうき)合成化合物で、イベルメクチンと名付けられたこの物質の多量生産を産学協同先のメルク社で行い、年間数千万人の人々を救っているものである。
 今回の輝かしい日本人研究者の業績(ぎょうせき)と栄誉、しかも私が学生時代のひと時を過ごした北里研究所の生んだ嬉しいニュースを聞いて、六十八年前に私も研究のお手伝いをした生化学部秦 研究室での生活がまざまざと想い出されます。
 その当時、この研究室は後年、大村教授がそのまま引き継いだ新抗生剤開発の研究を進めていたのです。その頃私は大学予科を卒業して学部の農芸化学(のうげいかがく)科に進んだのですが、終戦直前の東京大空襲で校舎を焼かれ、別の地にあった旧陸軍の機甲(きこう)整備(せいび)学校の校舎に移っており、ガスも止まったままの仮化学実験室を覗いたら、何と、一部の上級生たちが木炭の七輪(しちりん)をうちわで扇(あお)いで火をおこしてフラスコの蒸留(じょうりゅう)をしたり、アルコールランプで試験管(しけんかん)を温めたりしており、試薬類(しやくるい)も全く不足という今では想像も出来ないような有様(ありさま)でした。
 そこで新入生たちに「できたら、焼け残りの官・公・私の研究所を探して、化学実験の実技を指導してくれる所へ入れて貰(もら)え、理論の講義は大学内で受ければよい」ということでした。
 そこで、私は伯母に頼んでその親戚に当たる北里柴三郎博士の研究所に入れて頂いたのです。青かびから発見され、肺炎菌(はいえんきん)や化膿(かのう)性の疾患(しっかん)によく効き、最初の抗生剤といわれたペニシリンや終戦の少し前に土壌放線菌から発見された結核治療薬ストレプトマイシンの発見(いずれもノーベル賞受賞)の刺激(しげき)を受けて、世界中の研究機関が新抗生剤(しんこうせいざい)の開発に動き始めていました。
 入所した北里の秦研究室も室員が手分けで各地の土を集めその中から新種微生物を探し出すのを行っていました。
 今ではストレプトマイセス(放線菌族)は三千種以上あると言われていますが、私も自分の家の庭土などを採って行き、探索のお手伝いに加わっていました。
 有効(ゆうこう)成分の抽出、分離(ぶんり)、精製(せいせい)そして対象病原菌(たいしょうびょうげんきん)への効果の試験などを延々(えんえん)と続ける、大変根気の要る作業です。
 室長の秦藤樹教授(後で研究所長)は梅毒(ばいどく)の特効薬(とっこうやく)、エルリッヒ・秦六〇六 号、サルバルサンの発見で有名な秦佐八郎博士の嗣子(しし)ですが、ご尊父(そんぷ)が成功した六〇六番目の合成砒(ひ)素化合物の数よりさらに多い数千の生物製剤を捜(さが)し求めて九年後、私がブラジルに渡った一年後の一九五六年に大ヒットを飛ばしました。
 やはり放線菌からマイトマイシンC という癌(がん)の治療薬の発見で、現在でも使われています。
 驚いたことに、先年私が緑内障(グラウコーマ)の手術を受けたときに、「切ったあとにマイトマイシンをさしておいたから安心です」と言われたことです。癌治療ばかりでなく、マイトマイシンは不適当な細胞増殖(ぞうしょく)を抑(おさ)えるので、眼圧降下のための切開後の保持 ができるので世界中の眼外科医が使っている、と言われました。
 さて、今回の大村教授ですが、師の秦先生から受け継いだ「謙虚(けんきょ)な気持ちで向き合えば、微生物から裏切られることは無い」という科学者の人生哲学を守って研究室のチームを率い、長年にわたり気の遠くなるような作業を続け、 何千種の菌から約四五〇種もの有効成分を一つひとつ丹念(たんねん)に研究して、ついに画期(かっき)的な治療薬を発見されたのです。
その上、大村先生は所長になった北里研究所の経営でも昔からのワクチンや血清の製造によるわずかな利益を使っての苦しい運営から一歩前進、強力な製薬メーカーとの産学協同によって新製品の世界的普及、それによる発明特許ロイヤリティ収入の道も開いて、研究所の財政の再建と事業の拡大に成功されました。
 北里研究所は創立以来百年余、休むことなく一民間事業でありながら、多くの人々の命を守る重要な研究と治療を行い、同時に千名を超える博士を含む数多くの学者・ 教育者を育てるという実績を成し遂(と)げ、創立者北里博士の夢を実現したのです。
さて、私がお世話になったわずか一年足らずの間でも、生きている病原菌株コレクションの管理に当たっていた若い医師が猛毒の菌に感染し、新婚の妻を残して一晩で急死した悲劇(ひげき)や、付属病院新病棟の棟上げの晩に強い台風が来襲(らいしゅう)して倒壊(とうかい)という被害にあったり、私とも親しくしていた相思相愛の研究者同士が長年の研究が実って、学位を得てめでたく結婚にゴールインしたり、様々なドラマがありました。
 私は北里研究所研修の後、川島四郎博士の食品化学の研究所に移ってまた一年、そこでも抽出法・有機合成法などを教わり、その後は香料ひとすじで、ついに南米に夢をかける人生になってしまいましたが、思い出の多い秦先生やそして大村先生のいらっしゃる、東京は港区白金の一角で、綺麗な庭には小さなコッホ神社(北里博士が尊崇していた恩師で近世細菌学の始祖ロベルト・コッホ教授を祀っている)のある北里研究所で過ごした若き日を想い、懐旧の情ひとしおです。


分水嶺に立つブラジル

ブラジル書道愛好会名誉会長・書道教室指導者 若松如空
 十一月に入ってから、刻字の授業に使う木材が底をついていたため、いつも買いに行くガゾーメトロに近い木材市場に行った。
 昨年、一年分を買いだめしていたので、そこへ行くのは一年ぶりであった。そしてびっくりした。
 いつもの立派なお店は閉まっていて、近隣の店も半分は開いていない。車を停める場所も見つけ得なかった昨年の様相は一変して、駐車はゆうゆう。「この店はどうしたの?」と聞いてみると、家賃が払えないので撤退した」という。
 新聞によると、二〇一五年の経済成長はマイナス四%近いものになり、一六年も二・六%のマイナス予想だ。
 先行きどうなるか分からないから、投資をする者も無く、経済は動かない。動かなければ失業者はますます増加する。二年も不況が続くなら、雇い人を少なくしておかねばならない。誰でもそう対応するのが当然であろう。
 学者によると、問題は経済ではなく、政治だという。ルーラ、ジルマと続く十二年の政治が出鱈目だったため、財政に大きな穴が開いたという。私の相棒で政治評論をしていた赤嶺さんが、ルーラ政権が生まれた時、「若松さん、大変だよ。金を持ったことがない連中が政権を握って、いくらでも使えることを覚えたら、大変なことになる。汚職も蔓延だよ」と言った。さすが赤嶺さんだ。
 今、新聞にあらわれているのは「ラーバ・ジャット」という名の警察の粛清(しゅくせい)部隊だ。ブラジルが過去には予想されなかった膨大な油の埋蔵量が見つかり、ペトロブラスがこれを開発するにしたがって、利権をめぐる想像を絶する大きな汚職のケースが明るみに出た。出るわ、出るわ、毎日のように新しいケースが報道されている。
 大企業が利権を得ようと政治家を動かし、ペトロブラスの役員を巻き込んでの大きな企みがいくつも出てきた。政治家に与えられた金はそのままドル業者が海の外、多くはスイスの銀行に預金されていた。
 逮捕されたドル業者とペトロブラスの役員は正直な話をすればお前の刑は軽くしてやるとの誘いで、内容は次第に明らかになり、結果、政治家や大企業の社長が次々に捕らえられた。
 建設会社の大社長が次々に捕らえられ牢屋に入れられたなどという事は、過去の歴史にはなかった事だろう。
 金持ちは牢屋に入らないというのは貧乏人のひがみかも知れないがブラジルは何でも金で解決できるという概念は誰でも持っていたのではあるまいか。
 こんな出来事は珍しい。あるいは無かったことだろう。
 警察の調べが及んだのは、六十八人ということになっているが、その中で上院議員が十四名、下院議員が二十三名含まれていると報道されている。
 今、大方の焦点はスイスに預金を持っているという下院議長をどうするか、である。彼は「持っていない」と言うが、スイスの銀行からは「口座に金が置かれている」と報告されている。
 下院の粛清委員会は退任要求を投票できるはずだが、ここ数日、延期されていた。退任に賛成すると思われるPT党の三人について、これらの議員の態度変更、つまり退任反対への投票を政府に要求しているとの事で、議長が大統領の弾劾案を握っていて、これを議場に提出することができるため、政府側が説得できないと、決議は議長案を提出するかも知れないと心配されていた。このため行く方を見守っていた。
 大統領は日本訪問どころではない。さし迫る経済政策の議会通過案も手をつける暇さえない。
 このまま不況が続くと経済は深刻になるから何とかしなくてはという声が一部の経済専門家からも出始めた。罪人を追い込まないのはブラジルの常道で、これを許すのが体質なんだという人までいる。
 パラグアイ戦争も敵を全滅させることはせず、講和したという話。あるいは、罪人は教会の牧師に正直に告白すれば許されたではないか、という昔の話をする人もいる。
 ある新聞は経済論評(ろんぴょう)で「ブラジルは今、分水嶺の頂上にいる。右へ行くか、左へ行くか、正義を守るのか、不罰の道を辿るかだ。正義を守れなければ、先進国への路はない」と述べている。
 コロニアも百年を過ぎて、色々な人物を輩出している。この事件で、ドル業者の内妻として日系女性が捕まった。彼女はパンツに多額の金を隠したとの尾ひれがついたが、警察での説明ではズボンのポケットだったと言っている。いずれにしろアバズレの感は避けられない。そして、もう一人は警察の中のサムライだ。この人、日系人ニュートン・石井氏が大物の逮捕には必ずついて出て来る。「捕まえるのは俺だ」と言っているようだ。ブラジルのテレビでも「おっ、また日本人だよ」という声が聞こえる。正義側につく日系人の姿には感動する毎日だ。カーニバルの行列に彼の人形が出るはず。
 我々も今後とも日本人のガランチードぶりを発揮したいものだ。


我が青春のメキシコ

サンパウロ中央老荘会 安本丹
 昨年九月下旬に県連主催の第四十四回ふるさと巡りに参加し、数日間メキシコを訪問した。
 実はもう一つの個人的な目的があり、それはメキシコ市に住む又従妹と会うことだった。彼女の父は、私の大叔父(祖母の弟)に当たり、子供のころ祖母から彼がメキシコで活躍しているという話を聞き、それが私のブラジル移住を決めた理由の一つとなった。
 又従妹は一九六〇年ごろ日本に数ヶ月間遊びに来た時に侮度か会った。当時彼女はまさに芳紀十七、八歳で、明るい性格と美しい容姿でラ米から来ていた留学生の人気者であり、私もすっかり彼女の魅力に取り付かれたが、恥ずかしがり屋の貧乏学生だったため、あまり話しをするチャンスがないまま、彼女が帰国してしまったのをいつまでも悔やんだ。
 一九六八年ごろメキシコを訪れた時に大叔父と会ったが、彼女は既に結婚して別の場所に住んでいたため、再会できなかった。それ以後は連絡が全く途絶えてしまった。
 今回四十五年ぶりでメキシコを再訪することになり、日墨協会に彼女の消息を尋ねたが、返事がなかった。メキシコに到着した当日、うろ覚えだった通りの名前を電話帳で探し、タクシーで遠いところまで行ったが、全く別の地区だったので会うのを諦めた。
 しかし翌日に協会の女性から「彼女の住所が分かった」と教えられた時はびっくりした。旅行の最終日にようやく自由時間が取れたので、彼女が開いているスーパーへいきなり行くと、五十数年が過ぎ、すっかり変わっていたのでお互いに見分けが付かず、彼女は無表情な顔で挨拶したので、劇的な再会を期待していた私は拍子抜けがした。それでも色々と話しているうちに、少しずつ昔の彼女の面影が浮かんできて、懐かしい気分で一杯になった。
 しかし彼女は最後まで冷静な態度だったので、今回の再会劇は私の一人芝居で終わったようだ。その理由は後から人に聞いて納得した。彼女はお嬢さん育ちだったが、日系人の間ではかなり知られた御主人が数年前に誘拐され、莫大な身代金を払わされたため、主人が持っていた建築会社を安売りしただけでは不足し、それを補うために東洋製品及び食品店を開いた。急いで資金繰りをするため、極めて厳格な経営者に変わったという。御主人は今は不動産屋を持っており、ロータリークラブの活動により、日本から感謝状や表彰状を何枚も貰った。
 大叔父は四十年前に再婚した妻と小さい娘を連れて日本に行き、豪邸を買って住んでいたが、数年前に九十九歳で大往生したとのこと。今回の旅行はカンクンなどの有名な観光地へ行かなかったので物足りなかったが、それでも半世紀ぶりに又従妹に再会しただけでも良かったと思う。


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