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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2016年2月号

2016年2月号 (2016/02/18) 豪勇・久保寺五年兵

サンパウロ中央老壮会 内藤図南
 今にして思えば、それは珍妙な出会いであった。昭和十九年、太平洋戦争も末期の夏頃であったと思う。
 当時、私はジャワ島にあった伯母の農機具店の小僧で、その使いで久ぶりにシンガポールまで行くことになった。
 ありがたいことに当時、ジャワ海はまだ平穏で潜水艦騒ぎもなく、別府航路の錦丸が徴用されて、不定期でシンガポールとジャカルタ間を就航していた。
 もちろん、一等、二等は軍のお偉いさんが占めており、私どもは三等の畳敷きでごろ寝である。快い船の動揺に身をまかせ、ウトウトしていた所突然足を踏んづけられて、驚いて飛び起きた。なんと、碧眼紅毛鼻あくまで高く、どこから見ても西洋人そのものの大男が「小僧、じゃまや。なんやこんな所にゴロゴロしやがって」といきなり流ちょうな関西弁の日本語で怒鳴られたのには二度びっくり。
 それから何となく親しくなり、お互いにシンガポールに着くまで、暇にまかせて身の上話や武勇伝など話し込んだ。
 聞くところによると父君はイギリス人で、母上は日本人(広島県人)とのこと。マレー半島のゴム園の農場生まれとかで、日本留学中に日中戦争がはじまり召集になったそうで、その当時はよくある話である。両親は交換船でイギリスへ。本人は中国戦線を皮切りにシンガポール攻略戦を最後に現地除隊をした。
 印象に残るのは、彼はコチコチの軍人精神の権化。なにせ軍人勅論朗読が得意。それも単なる「一つ、軍人は~」の五か条勅論ではなく、「わが国の軍隊は世々天皇の統率したまうところにぞある~」に始まって延々と続いた。
 毛色が変っているため、初年兵の間、人の倍以上殴られたそうだ。
 やはり日本の軍隊では出世にも影響して、万年一等兵。実は満期になっても帰る所が無いからそのまま居座り、本人は「軍隊は階級やない。メンコ(飯の数)や」とあっけらかん。泣く子も黙る五年兵になると怖い者なし。上げ膳下げ善はもとより、作業、訓練はまったくやらず、まぁ、兵隊ヤクザというところ。幹部候補生(学卒の速成将校)あがりの少中尉なんか、逆にご機嫌をとる始末。機関銃が好きで、自動小銃などない日本軍で重い軽機関銃を小脇に抱えて突撃したそうで、のちに機関銃好きが嵩じて機関銃中隊を志望。狙撃される率の高い銃手として活躍した。
 シンガポール上陸作戦、ブキテマ高地争奪戦など、本人得意の一隻はまた次の機会に。
 シンガポール一番乗りをした彼の原隊広島第五師団の有名な彼の好きな「♪遺骨を抱いて」の歌「一番乗りをやるんだ、と力んで死んだ戦友の遺骨を抱いて、いま入るシンガポールの街の朝」を歌う時、涙ぐんでいたことを思い出す。
 なにせ英語、日本語、マレー語はペラペラ。中国戦線が長く、中国語も日常会話は十分こなし、除隊後、シンガポール軍政部に勤めた。まさにうってつけで、大変重宝がられたそうだ。
 戦後、抑留所に一度面会に来て頂いたが「くよくよするな。人生禍福(かふく)はあざなえる縄の如し。逆境はチャンスに繋がるカウンターパンチや」との言葉が戦後の混乱期にずいぶんと力づけられたように思う。久保寺五年兵殿、ありがとう。戦後は父母と再会。幸せな日々をマレーで送られたそうだ。


追憶

サンパウロ中央老壮会 高友
 昔の話をするようになってしまっては、年を取った証拠と言われています。しかし、追憶とはなんと甘美な言葉でしょう。
 例えば、戦時中の彼の苦しかった食糧難時代、身の毛もよだつようなB の爆撃、猛烈な艦載機の機銃掃射の体験から。また、「青春は灰色だ」などと身勝手な受験生時代の思考。渡伯当時に経験した通じない言葉のもどかしさなど、数えれば限りのない苦難の人生。
 それぞれ特有な「負」の思い出を持たない人はいないでしょう。
 その「負」に関する思い出も時の流れに押し流され、次第に歴史の中の一コマのように記憶の中で薄れ、懐かしささえ憶えてくるから不思議です。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の諺(ことわざ)のように人間の頭脳も都合よく、親切に忘れるようにできているようです。
 戦時中の忌まわしい思い出の数々さえも、忘却の彼方に置き忘れたかのように記憶も薄れがちで、心に残るのは、家族で疎開(そかい)した群馬県の温泉町での楽しかった事(当時小学三年)。
 「灰色の人生」などと、人並みに悩んでいた受験生時代にしても、現在、胸に去来するのは友と過ごした楽しい事ばかり。過ぎし日に思いをはせる時、「明」の部が浮き彫りになるようです。
 「昔話はもう一つの甘美な人生」と言われたある有名作家の言葉が実感されます。


若返り、新陳代謝

インダイアツーバ親和会 早川正満
 「老壮の友」の読者の皆さん、そう遠くないゴールの丘が見えてきた日々をどうお過ごしですか?移民として、移民の子として良かったと思いつつ、完歩できそうですか? まだ何年という時の余裕がありそうですからそこにあるベンチ(老人会)に寄って、私の話など聞いて一服しませんか。
 今日は新陳代謝(しんちんたいしゃ)になぜ若返(わかがえ)りとふりがなをつけたか?からお話しましょう。我々の身体は、たとえ老体と言われようとも、新規に細胞は取り換え続けられているのです。ただ、それぞれの人がその細胞に対して、援助精神があるか無いかでその差は大きいと思います。話が難しくなってきたので、これからは色々な例を添えて、やさしく話しましょう。
 当親和会で、私は世話役の一端を持たされていますので、会員全体の動向に気を使っています。よく見かけるのは、新入りの時はあまり目立たなかった老婦人が何となく身ぎれいになり、若返ってくるようになるのです。髭をそり残していた老男子も身だしなみを整え、サマになってきたりします。これは会に入って、様々な人と出会うことで、新陳代謝が活発になるからです。新陳代謝にはホルモンと仕事師(ビタミンEをはじめ色々なビタミン類)、そして体内細菌の助力も必要ですが、会には異性との触れ合いがあり、移民社会という環境から普段あまりない日本語での会話、これらが助けとなり、老いの進行を少し遅らせる活力になっているのではないかと私は思っています。さぁ、若さを少しでも得て、人生のゴールを目指しましょう。


ある友人のこと

サンパウロ中央老壮会 矢野康子
 四十数年前に知り合った一人の素敵な友人がいる。穏やかな人でいつもニコニコしている。他人の悪口や陰口を絶対に言わない人で、私はそこが大好きだった。
 幼い時に渡伯した人だが、立派な日本語を話す。
 近くに住んでいたので、たまに私の家へ来たり彼女の家へ行ったりした。私は実母に、彼女はお姑さんに子どもを預けて映画を観に行ったこともある。その後で話す感想もしっかりしたもので、いつも感心した。他の人が話している時は熱心に聞き、その後で自分の意見を静かに言った。彼女にも私にも幼い子どもが二人ずついたので、躾(しつけ)の話や食事の話などいろいろ教えてもらった。
 彼女は手術にも参加する上級看護師で忙しい人だったが、お姑さんに子供を預けて半日だけ働いていた。
 その友人が突然遠くに引っ越してしまった。それ以来消息を聞くことがなくて、残念に思っていた。ところが、最近ある所で偶然行き会った。二人で「ワァ!」と叫んで抱き合った。二人ともすっかり年を取ってしまったが、友人のニコニコした顔は昔と変わらなかった。
 お互い、昔より太って白髪があって、皺があって、年月の流れをつくづく感じた。
 友人は「五月に娘と一緒に日本へ観光旅行に行く」と嬉しそうに言った。外国旅行は初めてだと言うので。びっくりした。「今はサンパウロ郊外に住んでいるから、時々会おう」と言って別れた。
 それからしばらくして、リベルダーデのレストランで落ち合って食事をしながら、長い間おしゃべりをした。ご主人は引っ越して三年目に亡くなったそうだ。その後、何年かして彼女は再婚した。
 日本へ一緒に行く娘というのは、実子ではなく再婚したご主人の子どもである。そのご主人も妻を病気で亡くしていた。そして二人とも幼い子どもが二人ずついたのである。
 友人は小さい四人の子どもを育てるために仕事を退職した。四人の子どもを育てるのはさぞかし大変であったろう。
 子どもたちが大学・高校に通っていた頃は出費が大変だったと言う。四人の子どもはほとんど年が近かったから無理もない。彼女はまた病院で働きはじめ、子どもたちもそれぞれアルバイトをしていたという。
 その頃、ご主人が亡くなった。彼女は二人のご主人と死別したのである。その時の彼女の気持ちはどんなだったか。想像するだけで胸が痛くなる。
 今は四人の子どもはそれぞれ結婚し孫も五、六人いる。だが、亡くなったご主人の母親が九十何歳かで、まだご健在。そのために日本旅行もどうしようかと考えたと言うが、お姑さんが「この年まで面倒を見てもらったのだから、娘の所へ行く」と言ってくれた。亡夫の妹の所で預かってもらうことになった。だから「安心して行けるわ」とニコニコ笑った。彼女のニコニコ顔は昔と変わらず、穏やかだった。
 私も人並みに苦労をしたと思っていたが、彼女のように大勢の人を抱えて悪戦苦闘した人には恥ずかしくて言えない。
 時間が空いたら、これからもっと頻繁に会って、いろいろ話をしようと思っている。


骨の気持

酉年会 浜田照夫
 終戦を境に戦中、戦後、育ち盛りを日本で過した人は比較的体力が弱いと言われている。つまり、ろくな物を食べていなかったためである。それに比べて戦後七十年が経った今日の青少年の発育はどうか、特に身長の伸びたこと、海外の選手と比べてもあまり見劣りしなくなってきてはいる。
 大相撲の国際中継を見て思った。何と大半が百五十キロから二百キロ。力士の体重が重いのである。ましてや怪我が多いこと。
新弟子から期待の星が上ってきても、たちまち怪我で、包帯だらけとなり休場。年間六場所では治す時間がない。
 痩せ型の新弟子も、ちゃんこ鍋が待っていて食べろ、肥れとやる。素人考えではあるが、もう少し骨の気持ちにもなって欲しい。骨の密度太さ堅さそして膝や足首などの関節。新弟子のときにこれらのデーターを提出してはどうか。学生横綱とか地方のチャンピオンとかは通用しない心すべき重量級の世界なのだ。
 高齢化社会が始まっている。力士のように体力の消耗が激しいと。やはり寿命も普通人とは違って短い。最近では還暦の六十歳は働き盛りの観さえある。先の力士の肉と骨との成長時間と違いが解らないひとびとには理解しがたいと思うが、骨の身になって考えると、栄養のバランスもあるが、なにしろ高齢者の骨の成長は奇跡に近い。お年寄りが転んで骨を折ったら、くっつければいい、急ぐなら器具でネジ止めしましょうなどと、ロボットまがいの応急処置も聞くことがある。あなたも下半身ロボットの完成を待つ一人ですか。そうでしたら私と一緒に脳ミソの交換可能な時代を待ちましょう。


涙の川柳

岩手県 富安英雄
 昨年の十月、胆沢町文化創造センターで開かれた第五十四回岩手芸術祭川柳大会に選者の一人として出席した。胆沢町で芸術祭の川柳大会が開催されたのは初めてということだったが、多くの関係者の入念な事前準備のおかげで大会は成功裏に終わった。
 大会終了後の懇親会で一人の若い女性川柳人から声を掛けられた。初めてお会いする方だった。彼女は開口一番「ぜひお会いして、お礼を言いたいと思っていました」と言った。
 お互いに会員になっている「いわて紫波川柳社」の柳誌には会員がリレー方式で、その柳誌の中の会員作品から何句か選んで干渉するという「リレー鑑賞」欄があった。
 一昨年の暮れ、私がこの欄を担当した時に彼女の作品を私が取り上げたというのである。その当時の彼女はひどく落ち込んでいたらしく、私の観賞文を読んで泣いてしまったという。つまり私の文章で勇気づけられたというのだ。私は今までいろんなエッセイを書いてきたが、こんなことは初めての体験だった。
 川柳大会からの帰宅後、例の私の「問題の文章」を探して読んでみた。五句取り上げた中に彼女の
「責めないでこれが私の精一杯」
 という作品があった。この句に対して私は次のようなコメントを書いていたのである。「一生懸命に頑張っている人には私は『金メダル』をあげたいと思う。その姿だけで感動してしまうからだ。急激な進歩はなくてもいい。その人なりの精一杯の『努力』が実は尊いのである。仮に成果がなくても、誰もその人を責める権利はないはずだ」
 その後に発表された彼女の
 「すこしだけ肩をかしてね泣かせてね」
 という作品が平成十三年度の「岳豊賞」(年度賞)に輝いたのである。選者の藤沢岳豊さんは選評の中で「この句をタイトルにすれば、どんなドラマでも浮上してくる。句のここまでのことと、ここからの先のことを、限りもなく川柳の視野が展開してくるのである」と感想を述べた。彼女は、この作品を自分の「会心の一句」に選んだ。二つの作品を比較すると、彼女の心の成長ぶりがよく分かるのである。
同じ柳誌に発表した
 「約束をまだ忘れない指がある」
 という私の作品を読んだ大阪の女性川柳人が、「私と亡き主人と色々約束したことを思い出しました。涙が出てきました」と「リレー鑑賞」欄に書いた。「川柳が人を泣かせる?」これも貴重な体験だった。
 エッセイも川柳も一度、活字になって自分を離れると「一人歩き」を始める。いろんな人の目に触れて、また新しいドラマが生まれてゆく。この「事実」に私はあらためて感動した。どちらも心優しい川柳人の目に触れて幸運だったと思う。そして、お二人に言いたい。「泣かせて、ごめんね」と。(岩手日報社編『続・心に残るいい話』より)


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