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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2016年6月号

2016年6月号 (2016/06/14) 「亡き友を偲ぶ」

名画友の会 五十嵐司
 平成に入ってもう二十八年になるが、昭和年代からの親しい友を二人続けて失った。一月末には清談会の永田敏正君、そしてこの五月の半ば過ぎになっ て東京農大会の沖真一君である。
 永田君は長らく電装工務店を経営しながら工業移住者協会(工移協)の幹部(副会長)として、これも我が盟友であった松平和也君たちと運営に尽力し、その類い希なるバイタリティで会員を牽引し有名であった。工移協解散後になってからは、熟連に参加した清談会に あって、それぞれ一家言を持ち個性の強い言論人たちの集まりを取りまとめ、議事進行、記録、熟連本部との交渉など、よい働きをしてくれた。
 熱心な仏法の信奉者で、穏やかな中にも揺るがない信念の持ち主でもあった。
 沖真一君は東京農業大学の後輩で、長年に亘って肥料販売の傍ら自らの農園で各種の植物栽培を行い、著名な植物分類学者の故橋本梧郎氏門下の逸材として博物研究会(博研)副会長を務め、特に櫻の専門家として世間に知られて いたが、実は幅広い植物の知識と経験を持っていた。
 熟連で数回行われた園芸講座の評判も上々で沖講師を迎えての継続的な盆栽・園芸教室や植物同好 者クラブでも結成したい、と考えていた矢先の訃報で、惜しみても余りある次第となった。東京農大校友会ブラジル支部(伯国社団法人東京農大会)の 方でも会長として会の健全な運営に努め、先ほど行われた農大生移住百年記念式典も病を押して成功している。沖君は文筆の才も豊かで博物研究会 でも農大会の方でも会誌の編纂で縦横に健筆を揮っていた。残された名文を読み返し、涙して故人の温顔を偲ぶ。
 この老残の身、いま暫しの間この地 上より、天上に在って幽明相隔つ友たちの冥福を祈るばかりである。


私のこころ旅

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 先だって、NHKの人気番組の「こころ旅」に私のふるさと「亀の甲駅」が映し出された。岡山市と津山市の間を走る鉄道の駅である。
 昔は中国線、今では津山線と呼ばれる。駅舎(えきしゃ)の屋根の上に亀が二匹乗っかっていて、何とも微笑ましくびっくりした事である。
 私の知っている亀の甲駅は山間(やまあい)の明治時代に建てられた昔懐かしい鄙(ひな)びた駅だった。線路伝(づた)いにホームに行き、柵(さく)の横から近道をして入ると壁に大きな「くだんの牛」の広告板が掛っていて、いつも見上げていた。「くだん」とは人間の顔をして、胴体は牛の形をしているものの事。子供心にも強く印象(いんしょう)に残っている。
 亀の甲岩というのがあり、それは県道沿(ぞ)いの町の中心に郡の警察署(警察署)があり、その裏の田んぼの中の大きな自然岩の事である。子供たちは日がな一日中、旧道(きゅうどう)につらなる野山をかけて遊んでいた。県下でも有名な松茸山の連なる所である。
 田舎では幼稚園など無く、カタカナで自分の名前が書ければよく、杉の実を摘(つ)んでは、手製の竹鉄砲(たけてっぽう)に詰(つ)めて射ち合っていた。
 男の子も女の子も今頃の花粉病などとは無縁で、泥んこで遊び、世界は我が物のようであった。親たちは生業(なりわい)に忙しく、子どもたちには「『お菓子や飴などをあげるから』などと言う知らない人から誘われてもついて行くでないよ」と言い聞かす。その頃、サーカスに売られて鞭(むち)で叩かれ、芸をさせられるなんて話もあったそうな…。
 我が家は私を真ん中に兄弟姉妹五人。みんな昭和一桁(ひとけた)生まれであった。
 祖父は文久(ぶんきゅう)、祖母は慶応(けいおう)年間(ねんかん)の生まれ。祖父は書物を押(お)し頂いてから読む人で、二時間おきに通るバスに「往来(おうらい)に飛び出すな」といつも私たちに注意した。
 祖母からは「桃太郎」や「一寸法師」「山椒大夫」「かぐや姫」のお話などを毎晩聞かせてもらい、それらを聞きながら夢路に誘われていったものである。
 小学校へ上がって、祖父の部屋の本棚から「日本昔ばなし」などを見つけて読み出してより、私たち姉妹はみんな本好きになり、少し生意気(なまいき)になったのも、今では懐かしい思い出である。


~はるみの旅日記~ 真冬の四国一周

サンジョゼ・ドス・カンポス 今井はるみ
 冬の四国一周を選んだ大きな理由は足摺岬(あしずりみさき)で二〇〇〇年の元旦の日の出を拝みたかったからなのです。
 まず、旅は明石海峡から高松に入り、バスで鳴門(なると)海峡の渦潮(うずしお)を見に行きました。
 金毘羅(こんぴら)様と栗林(りつりん)公園は既に訪ねたことがあり、この度は省いたのです。
 ガラス張りの高所から真下の渦潮も見事でしたが、何と言っても船でそばまで行き、その迫力を間近に見たのは、一生の思い出となり、渦の真ん中が深く沈み込む不気味さは忘れられません。
 その後はコトコトとJR鉄道で窓外をゆっくり眺めながら室戸(むろと)岬を訪ねてから桂浜(かつらはま)で坂本龍馬さんに無言の挨拶をしました。
 町に出て、南国土佐の播磨屋(はりまや)橋を渡ったり、高知城の見学で一日が終り、翌日は川の水がきれいな事で有名な四万十川で舟に乗り、水の中で揺れ動く青ノリの緑色に思わず歓声を上げました。
 もちろん、この青ノリを買い求めてから、土佐清水の民宿に直行しました。すぐに荷物を宿に置き、足摺岬周辺の散策に出かけ、夜は金剛福寺(こんごうふくじ)で除夜の鐘をつき、コタツに足を突っ込み、少し休んでから早朝、カメラ片手に御来光(ごらいこう)を拝むために足摺岬に急ぎましたが、小さい岬はもう人でうずまっているのです。 
 やっとこさ、もぐり込んで、雲の合い間に初日の出が浮かぶと、人々の歓声が上がり、カメラのシャッターの音も耳に入りません。
 こうして念願の二〇〇一年の初日の出を拝むことが出来て感激しました。
 さて翌日は窪川(くぼかわ)まで戻ってからJRで宇和島を目指しましたが、乗客が少ないのにはびっくりしました。長い時間を持て余し、水彩画が三枚も描け、この時の車窓の風景をブラジルで楽しんでいます。
 思い出がいっぱいある松山では、道後温泉を楽しみましたが、その想い出を少々話しますと、上の兄が予科練に入隊して、松山城に駐屯していた為、母と二、三回慰問に行ったことがあるのです。母と手をつないでこの坂道の砂利道(じゃりみち)を登りつめると、お城が姿を現したのを覚えています。今は時代も移り変わり、道後温泉の前では頭に大きいリボンをつけた、紫色の絣(かすり)の着物に袴(はかま)の女性と、カンカン帽子に白の着物と黒の袴を付けた男性が華やかに動き回っていました。
 松山の後はいよいよ私が十二歳まで過ごした小松町へ行ったのです。ここは四国お遍路巡りの六十一カ所目の香園寺(こうおんじ)があり、一泊二食五千円で三十畳の大広間に布団を敷いて寝ました。もちろん、お風呂にも入ることができます。
 幼い頃はこのお寺の園内も子どもたちの遊び場であり、昔は大浴場があって、顔見知りの村の人々ばかりが賑やかに風呂に入ったものでした。
 翌日は小松駅までテクテク歩いて行きましたが、十年ひと昔、五十年も経っていると言うのに、小松橋もそのまんま、ここにはジュンちゃんの家があって、ヒロちゃんの家はここだったし、小学校、中学校、高等学校もそのまんまだし、駅前の十字路の角にあるお遍路さんの宿もそのままでした。懐かしくって、涙を流していましたよ。
 その上、思いがけないことに香園寺の沿道の右脇の低いお店がそのままだったので入ってみたら「まぁ、アーモチャン!」と、上の姉と同い年のキヌちゃんが声を掛けてくれたのでした。お互い、年をとっても面影(おもかげ)は残っているんでしょうね。どことなく…。
 五十何年前のお店がそのままあったことがすごいと思いました。これが田舎の良さなんですね。少しも変わっていない小松町に会えて、嬉しかったけれど、死ぬ前にもう一度、ゆっくり小松町だけに行きたいと思っています。


臭い話

インダイアツーバ親和会 早川正満
 蓋をする前に聞いて下さい。少し昔の事、まだ丸山会長の頃の話です。
 私が加齢臭(かれいしゅう)の話を親和会の集まりの時に出した。地方のコロニアの集会では時々日本語が刃こぼれすることがあるので期待はしていなかったのですが、丸山さんだけが受けてくれた。
 そこで丸山さんに「お酒飲みは加齢臭が少ない事は知っていましたか?」と聞くと、「そういえば、うちの娘婿のオヤジさんは俺より酒飲みだったな。それが病気をして酒を飲めなくなった途端にすごく臭くなった覚えがある」と答えてくれた。
 では、加齢臭とは何か? 加齢臭の成分であるノネナールは脂が酸化したもの。体の様々な場所の脂が酸化されると独特の臭いが出てくるので、それが加齢臭となる。つまり、老化とは体の酸化なのだ。では予防はどうすればよいか? 「抗酸化力に努めること」と本には書かれている。お酒をちょっと飲む人は長生きなんです。なぜかと言うと、アルコールを分解する酵素は抗酸化酵素だからです。また、抗酸化効果のある食品を多く摂る事も大切。
 もう一つの臭い話と言えば「屁=おなら」です。おならのガスは腸内細菌のゲップと考えてもらえると理解が早いと思うが、おならにも臭いのと臭くないのと二種類あるように菌にも善玉菌と悪玉菌の二つがある。
 たとえば肉を食べ続けた時の便はコールタールのように黒ずんで、臭いも非常にきつくなる。つまり善玉菌を増やすように努力すべきでしょう。
 さて臭うということは、体調の危険を知らせる「シグナル=体が酸化して、老化していますよ」と考えれば、こんなありがたいことはない。なぜならすぐ対策が立てられるからだ。七十歳代でヨボヨボしているか、九十代でまだハツラツとしているかは還暦から己の身体は自分で管理することにかかっている。体調の危機は己の身体が前もって知らせてくれるのですから、畑の管理と一緒です。常に中性に保ち、抗酸化効果のある食品を多く摂り、食物繊維などや有機食品を多くし、身体の管理をしましょう。臭い物に「蓋」をする前にもっと解決策を勉強しましょう。他人事ではなく己の身体のことですから。


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