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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2016年7月号

2016年7月号 (2016/07/13) 憧れのヒマラヤへ(1)

サンパウロ中央老壮会 新井均
 人間誰しも.若き日における忘れ去ることが出来ない事どもを心のうちに持っている。私にとってのそれの一つを思い出しつつ記してみたい。
 ネパールとチベットの国境に横たわる大ヒマラヤ連峰は、いくつかの小さな山脈に分けられる。その丁度中央部に位置する、ネパールの首都、カトマンズのほぼ北方にネパール・ヒマラヤに属するランタン・ヒマールの最高峰、ランタン・リルン(七二四五米)がある。私たちはその登頂を目指していた。未だ誰も登っていない処女峰である。
 一九五九年十月七日、登山のための根拠地のキャンプを三八五〇米の永河の末端に建てたのは、八月十九日に日本を出てから約四十日後だった。背後に、リルンがほぼ垂直に近い大岩壁をまとい讐え立ち、頂上はみえず、日本の山々とは比較にならないその姿に一種の感動と恐れさえ覚えた。
 この計画を立ててより一年半、その頃まだ自由でなかった海外渡航のため、国の渡航許可取得、ネパール政府の登山許可取得、資金調達、後援要請などの煩雑な業務の遂行もあり、その感動は倍加された。
 八月十九日に神戸を貨客船で出て、九月十日にインド着、十四日、夜行の特急と飛行機を乗り継ぎ十五日にネパールの首都着。インドの特急は一等車とは言うものの、硬い布張りのベッドでしかも二段。暑い上に回転のおそい扇風機がついているのみ。まさに囚人の護送列車。
 さらに、大原野の中に一筋の線路だけが細々と見えるのみで、「事故でも起き止まってしまったら」と、ちょっと心細くなる。
 カトマンズ滞在中は、ネパール政府の高官と、コイララ首相をまじえてのシェルパ(登山ガイド)の雇用交渉、装具の税関よりの受け取り、まとめ。暇を見て市内のヒンズー教の古寺などを見学。日本的なたたずまいにチョット安らぎを覚えつつ、衛生状態のアマリよくない町中を歩く。歩く人々の汚い点を除けば、日本人と全くよく似ており、乞食もいず、ゴロツキもいず、常に微笑みを向けてくる彼ら。特にサリーをまとった女学生の可愛さに魅了される。
 九月二日朝、隊員六名、シェルパ(ヒマラヤ登山に熟練のガイド)五名、政府連絡官一名、ポーター(荷運び人)四十三名の総勢五十八名(荷物総重量一・三トン)が、いよいよヒマラヤへと出発。途中、猛暑にあおられての谷間の中の歩行は夢遊病者の如くフラフラ歩き。また、渓谷の山側の斜面でのヤマヒルの襲撃。皆、ノイローゼ気味。その時の対応術は、そのための用意にと持参した女性用のナイロン・ストッキング。効果は最高。ヒルはその上を這いまわるだけ。パンティー・ストッキングでないので、ただそれを留めるものが無く、誰かの発案で、パンツの中に紐を通し、両方のストッキングにくくり付け吊り上げて、何とかチャント使用出来た。だが、なにか変な感じに襲われてしまったのか、お互いに目を合わせ苦笑い。
 七日にポーターを帰し休養、八日、キャンプの整理、登山準備。
 九日、目的のランタン・リルンの登路偵察を行なうが、どのルートも不可となりやむなく取り止め、サルバチョメ(六九一八米)へと転進。十日より二十五日まで、サルバチョメの登頂に全力を尽くす。
 登り始めて四五〇〇米あたりから空気が薄くなり、呼吸困難となる。横になり金魚のように口をパクパク(これ以後はなれる)。日中は暖かいが、夜は零下の温度で最低二十九度にもなった。五〇〇〇米、五四〇〇米、そして約六〇〇〇米に近い雪の中に最終キャンプを設ける。途中、三〇〇米の高さの大氷壁の突破に二日間を費やした。二十日より二十五日まで、雪の中の登りに呼吸困難になったり、ピカピカに光る氷の急斜面に難儀しつつ、先輩二人とシェルパ二人がついに登頂に成功。
 私は、その日、第ニキャンプをシェルパを連れ早朝に出発し、三〇〇米の氷壁にとりつき、所々、底知らずの裂け目や、はるかキャンプが足下にみえるツルツルの氷の斜面に足がすくみ、所により頭上にぶらさがる、いつ落ちてくるかわからない大ツララに肝を冷やしながら慎重に登り、第三キャンプを通り、六四〇〇米の地点まで登頂隊を迎えに出た。そして成功を祝い、お互いに力一杯抱き合った。晴天が私たちの成功を祝ってくれているかの如く、ぬけるような青空が広がっていた。
 小さな一地方の(長野県飯田)名も知られていない山岳会が成し得たヒマラヤの登頂。
 我々みんなの努力と多数の方々の種々の面でのご支援により成功に導かれたものと確信できる。
 その後は三十一日に学術調査のためにキャンプを、ランタン谷に下り、谷間の草原に移動、十月一日より十七日まで周辺の氷河と地質調査。十八日、後ろ髪をひかれるおもいで二十八名のポーターとともにランタン村を後にした。帰路は、常にヒマラヤ連峰を背に見て、野宿しながら下る。われわれは常にシンガリで、その前を女性のポーターが男と同じペースで荷を背にしながら歩いていく。時々、途中で立ち止まるのだが、気使いは無駄とわかった。
 歩き出した後、地面がぬれており女性の立小便に初見参。足首までの長い羊毛織りの腰巻故に可能なのかと推察二十八日、カトマンズ盆地に駆け下り、一気に平地を駆け抜けカトマンズの町に、約一ヶ月ぶりに帰着。街も人の姿も一変した如く新鮮に見え、また一仕事し終えた安堵感で放心状態に陥る。


~はるみの旅日記~「太宰治を訪ねて」

サンジョゼ・ドス・カンポス 今井はるみ
 本州最果ての青森県には、有名人が大勢いますが、その中でも太宰治はずば抜けていますよね。
 特に本好きの人にとっては、太宰治の本を読まないで、素通りする人はきっといないでしょう。
 私にとっては、〝津軽″は特に大好きな本の中に入ります。
 偶然にも津軽に家を持っていてもなかなか金木(かねぎ)の町まで行けず、胸に大きく引っ掛かっていたのですが、津軽の家に滞在中のある日の新聞の片隅に小さく「七月より九月までの毎土曜日に浅虫温泉駅から太宰治巡りの旅のバスが出ます」とあるではありませんか!
 思わず小躍りしながら家に帰り、すぐに弘南(こうなん)バス会社に電話すると、「この土曜日にも出ますから、どうぞ」との応対があり、主人に話すと彼も大喜びで、私はすぐに郵便局へ行き現金書留で費用の支払いを済ませたのです。
 さて、当日はバスに乗るまでソワソワしていた私も、右側の最前列に座って、やっと落ち着きを取り戻しました。
 バスの始発所からは主人と私の二人を乗せ、次に青森駅で四人が乗り、新幹線のために出来た新青森駅でも一人が乗車。合計七人の乗客が五十人乗りのバスに乗りあわせたわけです。
 バスガイドさんは「それでも今日は多い方なんですよ。先週はたった一人のお客様でしたからねぇ」と言い、「今、バス会社は新幹線にお客を取られてしまい、もう、虫の息です」 と言うではありませんか。主人と私は昔人間ですから、窓も開けられず、景色もゆっくり眺められない新幹線より、あちらこちらでトイレ休憩をしながら行くバスの方が百倍も好きなんですけれどもねぇ~。
 バスは海岸沿いに北上して蟹田(かにた)町を目指し、蟹田町から内陸に入って、高野崎(たかのざき)に到着して小休止しました。
 高野崎は右を眺めると下北(しもきた)半島、前方を眺めると北海道が薄ぼんやりと見え、見晴らしの良い所でした。早くもススキの穂が海の青色に美しく、何枚も写真を撮り、少し引き返して今別(いまべつ)町で昼食となりました。今までは何もない野っ原であった今別町が、新幹線の駅、それもここから海底トンネルに入る重要な駅となって、立派すぎる駅舎が出来、その周りにはおしゃれなレストランが立ち並び、活気ある町となりつつあります。
 昼食後は日本海側を走り、十三湖(じゅうさんこ)という大きな湖で小休止。十三湖では良いシジミが取れるそうです。
 この小休止の後、やっと太宰治の生まれ育った金木町にたどり着きました。まず、津軽三味線の生演奏を聞きに会館に入りました。この会館の前の大通りを渡ると、念願の家です。それは地味な赤塗りで、想像以上に大きな家でした。各々、自分の靴をビニール袋に入れて持ち歩きながら、板の間、畳の部屋、洋間のカーペットの上などをすべらないように注意しながら、二階へ上がったりまた下りたりしながら、大昔の立派な障子(しょうじ)、襖(ふすま)、掛け軸を見て周りました。建て増しをした複雑な内部でした。
 古い写真の前では立ち去り難く、陰りのある微笑みの太宰治から目が離せませんでした。
 ここから津軽鉄道に乗り、五所川原(ごしょがわら)で待っていたバスに乗りました。そこから五分ほどの所にあるこじんまりした家で三年余りを過ごしたそうです。その内部も見学。青年が顔を赤らめて太宰治の古い本をめくりながら説明する姿が、とても誇らしげであるのが印象深かったです。
 太宰治の姿を思い描きながらの見学は素晴らしかったです。また良い想い出がひとつ増えました。


とりとめもなく

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 逆流性胃炎で大きな声が出なくなって、何年にもなる。よく人は「コーラスをやっているから歌が上手でしょう」と聞いてくれるが、コーラスをやっているから歌が上手とか、声が出るとかではない。私は歌が好きで、皆と楽しく歌いたいから、コーラスに行っている。
 一人暮らしなので、家では声を出さない。独り言は言う。花やテレビを相手にしゃべる。とりわけ迷惑をしているのはテレビで、嫌いな人や贔屓(ひいき)の力士(りきし)が負けた時は「お前はそれでも日本人か!恥ずかしくないのか」と思い切り罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐く。するとスッキリする。あとでテレビに「ごめんね」と謝っておく。
 昔はフォークダンス、社交ダンス、体操、トランプ、折り紙、紙人形作りと毎日出歩いていたが、年と共に頭はフラフラ、目は回る、足は痛いと出るのが億劫(おっくう)になって、今は百人一首とコーラスだけやっている。昔は目の前の文章を口で読みながら、目は五、六行先を読んでいて、カルタなどはパッと見るだけで全文が分かったけれど、今はあまり目が見えないので、一枚一枚読まなければならない。その間に人に取られてしまう。読み手をやると大声を出すので、頭にも喉(のど)にも良いみたいだ。昔は本のない世界には住めないぐらい本を読んでいたけれど、今は活字をじっと見ていると目が痛くなって涙が出る。それでも虫眼鏡で本を読んでいる。
 この頃はあまり外に出ないので、これではいけないと歩きに出ると、足が重くて上がらないので、小さな穴につま先を引っかけて転び、膝(ひざ)が紫色に腫(は)れて痛い。転ばないようにと下を向いて歩けば、電柱にぶつかり腹が立つので、自分のことは棚に上げて「ナンダ、テメエ!人の前に立ちやがって、危ないじゃないか、このデクノボウ」と毒づいたがノッポの知人を思い出して、それ以上、悪口を言うのはやめた。
 料理は好きで、あれこれ作ったが、今は料理の本を読んで作った気になっている。
 私の上に一人姉がいるが、病気になって自力で食事ができないので、鼻から管を通して、リキド(流動食)を流し込んでいた。姉が嫌がるので、今は胃に穴をあけて、管を通している。喉を傷めて話が出来ず、「アーアー」と言うだけ。ご飯は口で食べられず、話は出来ず、テレビも本も見られず、両手両足は硬直して動かず、ただ上を向いて寝ているだけだ。
 見舞いに行くたび、「これは地獄だ。私はこんなになって生きたくない」と思うが、何かあれば、本人の意思は無視して医者に連れて行かれる。医者は病気を治し、元気にするのが仕事だから、山ほど薬をくれて、生かそうとする。無用の長物はやめて、さっさとあちらに行こうと思うが、いつまでも旅立たせてもらえない。せめて耄碌(もうろく)などしないようにせっせと熟年クラブに通っている。


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