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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2016年9月号

2016年9月号 (2016/09/16) オリンピック卓球観戦記

サンパウロ中央老壮会 中尾契信
 山口県人会は今年の二月から山口県出身の女子卓球の『石川佳純』選手の応援に行くことを決め、希望者を募り、入場券と貸し切りバスの手配をしました。準々決勝が行われる八月九日に会場で直接応援、激励するため、八日夜十一時三十に五十人乗りの貸し切りバスに二十人が乗り込み、山口県県人会館前を出発。途中、アパレシーダで小休止し、翌九日、十時前に会場に到着しました。
 残念ながら、三回戦より試合に臨んだ石川選手は北朝鮮の選手に四対三で惜敗したことがインターネットで報じられ、石川選手の試合は観ることが出来なかったが福原愛選手が残っているとの事。出身県は違えども同じ日本選手を応援することに変わりなく、用意していた『石川選手頑張れ』の横断幕を『日本頑張れ』に変更し、会場へ持参しました。
 試合に出場した福原愛選手に『ニッポン、ニッポン』の声を全員で張り上げ、最後まで声を嗄(か)らすことなく応援。試合は福原選手が硬くなっていたのか二ポイントを失うも、その後、本来の調子を取り戻し四対〇で圧勝。準決勝戦へ進出したのでした。
 準々決勝に出場した選手のうち六人が中国系(台湾の一選手も含む)。何と、ドイツ代表は名前からすでに中国系で、コーチの女性も中国系でした。
 これで現在の世界での中国の実力が垣間見れました。
 試合会場のリオ・セントロの入り口で、石川選手の父上と山口朝日放送の取材班に出会い、しばし歓談。一日前に山口県出身の大野将平選手が柔道で金メダルを取り、山口県知事より御祝いのメッセージが本人に届き、石川選手が脚の怪我で十分な力が発揮できなくて残念でしたが、次の団体戦ではがんばって下さいとの事も記されていたとの事でした。
 石川選手の父上は非常に気さくな方で、色々な事を語って下さいました。
 怪我と言っても、単なる筋肉痛との事で、団体戦は出場可能で、個人戦の屈辱を果たすべく練習をしているとの事で、我々も一安心しました。
 また、父上より山口県の友人の蒲鉾屋さんから「山口県人会の皆さんで召し上がって下さい」との事で、一口蒲鉾をお土産にたくさん届けて下さいました。それは皆で試合を観戦中に食べました。
 試合会場で感じた事はブラジル人の観戦マナーの悪さ、特に選手がサーブを打つ瞬間のカメラのフラッシュをたくという行為には驚かされ、選手自身がその方向を指さし、審判に抗議する場面もあり、再三、スクリーンモニターにブラジル語と英語で「そのような行為はしないように」との注意が表示されました。
 サッカーの試合の応援には慣れているとは言え、レベルの低さにはただただ呆れるばかり。
 全試合の終了後、皆が席を立って帰った後、座っていた場所を見ると、飲料のペットボトルやスナック菓子の空き袋が所狭しと捨てられており、我々は持参したポリ袋にそれらを入れ、会場外のゴミ箱に捨てました。
 私にとっては四十年ぶりのリオ訪問。そして参加者全員が初めての「オリンピック観戦」でした。良い想い出の機会を作ってくれた山口県人会には感謝しています。


オリンピック柔道観戦記

サンパウロ中央老壮会 大浦博文
 ラゴア・チジュカのイーリャ・ダ・ジボイアの友人の所に夫婦で六日間お世話になり、柔道の試合を見に行って来ました。
メトロがバーハ・デ・チジュカまで出来ておりましたが、オリンピックの入場券を持つ人しか乗れないようになっており、地上の入口でチェックしておりました。
 会場には高床式の二連繋ぎの大型シャトルバスが専用ホームから専用道路を走っていました。ターミナルから会場への道は仮設の歩道橋を渡り約五百メートル。かなり遠く感じました。入り口を入ったら、空港と同じチェックを受け、靴は履いたままで大丈夫でしたが、シント(ベルト)まで外しました。その後はそれぞれの会場に向かいます。
 会場の警備はライフルを持った迷彩賑の軍警と拳銃を持った赤茶色のベレー帽をかぶったグワルダ(警備員)が数人ずつ固まっていました。東京でのオリンピックでは、こうはいかないと思います。
 私は「カリオカ2」の柔道の会場に行き日本、ブラジルの選手を応援しましたが、足を踏み鳴らすブラジル人の応援には圧倒されました。
 各国の応援がありましたが、アメリカの応援に対してはブーイングがひどく、気の毒に思いました。(まだアメリカの水泳選手の虚偽事件が起こる前でしたが)国が嫌いでも、参加している選手達には関係なく、国際的なマナーに反していると感じました。切符はインターネットで息子が手配してくれ、午前はすんなり入れたのですが、午後は機械が反応せずトラブルチェックの所に行き、再発行の手続きの列に並ぶこととなり、開始時間に間に合うか、心配しました。ほかに三人の日本人がいて、二人は団扇に大野選手の名前があり、PL関係者のようです。もう一人は向こうから話しかけてきて、ブラジル代表のラァファエラ達を指導している藤井裕子さん(NHKで放送していた。名前は後で知った。)の旦那さんで、「私は主夫をしています。」ということでした。
 二人のうち一人が仲間の方に行き、残った人が言うには「彼は大野選手のお兄さんです」とのこと。エッ!早く言ってほしかったナー。
 二日後、観戦が終わって出たところで、藤井さん家族と出会い、今度はしっかり写真も撮りました。観戦中、柔道着を着た子供が通路をウロチョロしていましたが、その子が彼の子供でした。
午前は二階席で遠かったのですが、声を張り上げての応援。午後は一階の選手出場口の横で、松本選手の野獣の顔、大野選手の緊張した真っ青の顔、対戦相手の赤ら顔などが見え、緊張しすぎかと心配しましたが、結果は皆さんご存知の通りです。
 ラァファエラの試合は、会場大興奮で優勝後応援席に飛びつく様はさすがブラジル人と感心するやら羨ましいやら。日本人には真似できません。
宮崎県出身の羽賀選手の応援がメインでしたが、力を出し切らず三位。でもメダルを取れたので一応の成果を残せたと思います。今回のオリンピック柔道で十四人中十二人のメダリストを出した井上監督(宮崎県出身)の手腕を高く評価出来ると思い、安心しました。鈴木コーチには会えたので「鈴木さん良かったですね」と、一言声をかけてきました。
 なお、リオ往復の切符はただ。観戦切符は半額。市内のメトロ・オニブスはただ。本当にブラジルは年寄りには住み良い所ですね。


松根油の物語り

名画友の会 三谷堅一
 今を去る約七十年前、第二次世界大戦はヨーロッパからアジアにも広がり、俗に言う太平洋戦争となり、日本もその戦争の真っ只中にありました。やがて戦争も末期に近づき、海外からの物資の補給はままならず、特に国内での生産は全く不可能だった石油関連の物資の不足は致命的に近い状態になりました。
 その中でも特にガソリンは「血の一滴に等しい」と言われました。そんな社会情勢の中で「松根油」なる物が生まれました。
 元来、松という樹は、樹自体に「松ヤニ」などでも分かるように樹脂を多く含んでいます。地上部分は樹木となり、やがて朽ち果てて消えて行ったり、用材として伐採されて終わったりします。通常、地下部分は掘り起こさない限りは残りますが、放っておけばその大半は腐食して土へと還っていきます。しかし、この根の部分にあった樹脂成分だけは腐ることもなく、極くちいさくなって地中に残ります。この残っている部分の根の部分を掘り出します。これは大変な作業ですが、この掘り出した根、といっても大半はかつお節のような状態になっているものを小割にします。
 この小さく小割された根を特別製の大きな鉄製のタンクの釜の中にびっしりと入れて蓋をします。さらに蓋の上に鉄製のパイプを取り付けます。このパイプは長くて大きな水槽の中を通っており、最後のパイプの出口には蛇口を取り付けておきます。
 次にこの鉄製のタンク釜を下から強火で熱します。やがて釜の中の松根はその熱でまず、根に含まれている脂分が溶けて蒸気となり、釜の上部のパイプを通り、次いで冷やされて液体となって出てきます。最初に出てくるのは薄桃色の液体です。これをコップにとって火を点けると燃えるというより、瞬時に爆発。まさにガソリンと同じ。
 次に出てくるのは石油、軽油状で、さすがに爆発はおこりませんが、かなり高熱で激しく燃焼します。
 そして最後に出てくるのはタール状の油で、大別すると三種類で、松の根から取れた油なので「松根油」と名付けられました。
 これらの油はドラム缶に入れて、燃料の専門工場に送られ、精製・混合等で加工されて、なんと航空機エンジンの燃料となりました。
 太平洋戦争末期、日本本土はB の爆撃等により、都会の大半は焼かれますが、この大型爆撃機を迎撃した残り少ない日本軍の戦闘機の燃料にもこの松根油入りのガソリンが使用されました。
 さて、この松根油の生産ですが、その原料となる地中に残った松の根ですが、その多くは東北地方の草深い山地にありました。 軍の命令で地方農業組合等にこの古い松の根の供出が命令され、合わせて松根油の製造設備の建設とその設備を即稼働して、松根油の生産も命じられました。
 しかしながら当時の民間に若い働き盛りの男性の姿はほとんどいませんでした。男の大半は軍役や軍用物資の生産業務に駆り出されていて、残っているのは爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんと子供ばかり。この三「ちゃん」の労働で松根油の生産が続けれられました。
 以上で松根油に関する概略の解説は終わりました。続いて、後半を書いておきたいと思いますが、書くとなると、いやが応にも私的な内容が多く加わるので、いささか躊躇(ちゅうちょ)する次第です。


約束と嘘

サンパウロ中央老壮会 外山保
 幼い頃、親からよく言われました。嘘は絶対についてはいけない。約束は必ず守る事。
 親父からこのように厳しい教育を受けて育った私ですが、時には嘘をつき、約束も守らなかった。
 だからいつも怒られていて、場合によっては殴られた事もある。そういう教えは、私の頭に、心に刻まれ、忘れられない思い出となりました。
 多くの人達は大人になっても、嘘をつく、約束を守らない傾向を持ち、生きるためにはやむを得ないと思うのだろう。
 「早く帰る」と言っておきながら、夜遅くまで飲み歩いて、妻に「仕事で遅くなった」と嘘をつき、約束を守らないおっさんが大勢いる。
 また、嘘をついて、約束を守らないという点では、政治家には特に多いように思われる。例えば、ジルマ・ルセフ大統領は選挙の時は「約束は必ず守る」と言って大統領になったが、守ることなく首になってしまった。
 米国での選挙、トランプ候補もその例で、彼の場合は言っている事を本気で実行するつもりなのか分かりませんが、いまや、大衆からの目を惹き選挙に勝つためには、嘘は欠かせない不可欠な要素となっているのだろう。
 トランプ候補は日本に「自分たちで核を作れ」とか「自分の国は自分で守れ」とか言いたい放題。言っていることが嘘だとしたら、日本には都合がよく、核なんか作る必要がありません。
 嘘と約束は良い面と悪い面があって、妻に嘘をついて早く帰えらなかったおっさんの場合は、良かったのか悪かったのか分かりません。
 私は熟連の事務局に「これから書きたい記事を熟連の会報『老壮の友』に載せてもらえないか」と頼みましたが三か月も遅れてしまい、今日、やっと書き終わり、渡した次第です。
 幼い頃に親に嘘、約束に対しての厳しい教えを受けたことを忘れていましたが、三か月も遅れはしましたが、約束を守ることができました。
 やはり、親父は正しかった。「三か月も遅れるとは何事だ!お前は未だにだらしのない、約束を守らない人間なのか!」と、亡き親父の声が聞こえて来たような気がしました。
 事務局の皆さん、遅れてしまって、本当に申し訳ございませんでした。これからもよろしくお願いします。


駅までの風景

サンパウロ中央老壮会 松本清子
 自宅から地下鉄駅までは二キロメートル以上あるらしい。ジアデーマ方面行の大通りの近くに住んでいる。若かった頃は十五分でジャバクアラ大通りまで歩けた坂道が、後期高齢者になった今では二十五分から三十分かかる。 自宅から歩いてすぐに八十五歳になるおじいさんが住んでいる。前庭に小さい椅子を出して日向ぼっこをしながら新聞を読んでいる。先祖はイタリア人、スペイン人、フランス人が混じっていて「自分は国際人だ」と言う。小柄で痩せているが、足も腕も筋肉が硬い。「毎日、体操をしたり、歩いたりしている」と誇らしそうに触らされた。
 すぐ上の四辻にある建具屋に全身クリーム色の犬が寝ころんでいる。オートバイが嫌いで、大声で吠えながら追いかける。建具屋さんに「この犬、そのうちに轢(ひ)かれるよ」と言うと「大丈夫。一度も轢かれたことないから。名前はヘッキスだよ」と教えてくれた。それからは「ヘッキス、おはよう」と挨拶していたが、何の反応もなし。ジロリと目を動かすだけ。なんと愛想のない犬かと思った。飼い主に可愛がられていないのかも知れない。そこで、自宅の犬用のスナックを持って行ったら喜んで食べた。
 建具屋さんに「与えてもいいか?」と聞くと「ヘッキスはこの近所、みんなの犬だから何を食べてもヘッチャラさ」と言う。ずっと前にこの辺をウロウロしていたノラ犬で、可哀想だからと、近所の人が集まってお金を出し合って獣医に予防接種とパイプカットをしてもらったと言う。今ではあっちの家、こっちの家で食事をしているそうだ。そうなのか! そんな過去があったのか。それからは毎日、自宅の犬のスナックをちょろまかして持ってくる。ヘッキスは態度を一変して、こちらの姿を見つけると、トコトコと近づいてくる。しっぽを振って、愛想笑いをしてくれる。これも今話題のプロピーナ(賄賂)かな、っと思った。
 その場所から五百メートルほど上に理容院がある。そこの主人はマットグロッソ・ド・スール出身の背の高い浅黒いおじさんで、二人の若い理容師を使って営業している。客は男女を問わず、けっこう繁盛している。
 「八十二歳の母親がマットグロッソに一人で住んでいる。弟が近くに住んでいるので安心だが、母親が頑固で困る。自分は七人兄弟の長男で、自分も子供が七人いる。六十五歳になったら、故郷に帰る。十九歳で聖市に出てきて、日本人経営の理容師学校で二年学んで免状を取った。今の若い理容師は二か月ぐらいで許可証を出すインチキ学校を卒業している者もいる。パーマネントも、髪を染めるのも、薬品を使うのだから気を付けないと髪が痛むのに、そんな事にはお構いなしにやっている。困ったもんだ。アミギンニャは日本人か中国人か?近くに住んでいるお客は中国人で、アミギンニャより小さくて九十三歳だ。あの人もアミギンニャだ。『オバサン』という日本語は『チア』ということだろう。あんたのことは『オバサンジンニャ』にしよう。よし、そうしよう」。
 「おばさんじゃないよ。おばあさんだよ」。
 「オバアサンジンニャ? わかった」。
 最近は「オ」がなくなって、「ア」もなくなって「サン」が省略されて「バジンニャ」になっている。
 駅に向かってさらに歩いていくと、前庭に花がたくさん植わっている家がある。そこで少し立ち止まって花を見る。
 そして地下鉄のエスカレーターで下に下りて行く。


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