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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2017年2月号
2017年2月号 (2017/02/11)
お正月
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
子どもの頃はお正月が来るのが待ち遠しかった。
今のように食品店に行けばお寿司でもお饅頭でも日本食が何でも買えるのと違って、昔は何でも家で作らなければならなかった。
祝日の御馳走はお豆腐でも羊羹(ようかん)でも家で作った。男の人は豚や鶏の丸焼きを、女の人はその他の御馳走作りで「夜も寝なかった」と後に母が話してくれた。
私の母は躾(しつけ)の厳しい家で育ったので、私たち子どもにも厳しかった。母方の祖母も母も言葉遣いがきれいだった。姉や妹は母に従順(じゅうじゅん)だったけれど、私はいつも母に逆らってばかりいた。
戦争中で疎開(そかい)して田舎に住んでいたので、夜八時過ぎまで外にいると叱られた。お正月には門限がないのが嬉しかった。
我が家は九日餅(くんちもち)は縁起が悪いとお正月餅は十二月三十日に搗いていた。近所に配るのやら、分家に持って行くのやら、お供え餅やら朝から一日中、近所に住む従兄弟(いとこ)の一家も来て、餅つきをした。部屋の中がモロブタで一杯になった。弟は自分のお雑煮用に特大のお餅を丸めた。
ある年、父の知人の息子さんが友だちを二人連れて遊びに来て、お餅搗きを手伝ってくれたのはいいけれど、若さに任せて搗くので、杵(きね)が折れたことがある。一家中でお餅が好きなので、毎日食べても飽きなかった。
お正月以外にも何かといえばお餅を搗いた。移民でマットグロッソに入植した時も、一番先に餅米を植えた。
お正月には晴れ着を着て、お宮参りをした。滅多に着ない着物を汚すといけないので、ご馳走もろくに食べられないのが恨めしかった。弟は中学、妹たちは小学生なので、百人一首は坊主めくり、トランプはババ抜きと神経衰弱が遊びだった。
百人一首は熟連の「百人一首の会」に入ってから始めたので、まだあまりカルタを取れないけれど楽しい。この頃はフェスタやご馳走よりは一人で気ままに過ごす方がよくなってきた。これも年の所為かしら。
酉年の新年
サンパウロ酉年会 浜照夫
だいたい酉年生れの人は早起きです。十二支の酉を鶏の漢字に当てはめれば日本の鶏もブラジルの鶏も同様で、目覚まし時計より早く起してくれます。一人暮らしとなってしまった私は、朝の三時半には起き出して簡単な食事で腹を満たし早朝歩きの準備。サンパウロの街中で鶏の声は無理ですが、サビアの一種が唄の練習を始めます。
これを俳句では『朝告げ鳥』ブラジル季題です。幼鳥の唄は本当にヘタクソで、噴出し笑いしてしまうほどです。
酉年生れのもう一つの特徴はせっかちな事。会話も先へ先へと進み、落ち着きが無いと思われがち。スペインの教会の屋根には、風見鶏が取り付けられています。これは風の方向を見るだけではなく世の中を予言するとも考えられていて、西洋では予言者、日本では陰陽師などと呼ばれきた歴史などは興味ぶかいことです。
先ごろ、天皇陛下が生前退位について申し述べられました。国民も政府も大変におどろいているところですが皆さんは、天皇陛下が酉年という事をご存知でしょうか。
もし時間とヒマがありましたら、二〇一七年の酉年から十二年を繰り返し差し引き続けて見てください。西暦の始まりが十二支の何年になるか。ただ忘れてはならないことは満年齢と数え年のように昔の算術にはゼロはありませんでした。
ブラジルに広がりつつある日本文化
なつメロ倶楽部 田辺豊太郎
三才歳の子供移民も九十一歳になった。我一家は一九二八年に六人家族で零下四十度の北海道から、プラス四十度のサンパウロの五百キロ先、ピッケロビーへ入植したのである。
三歳の私は覚えてはいないが、まさに転変地変と言うべきではあるまいか。そして我が家の転変である入植五年で、モジダスクルーゼスへ移った。それは母がアメーバで苦しんだからであった。
私も侵されたことがあったが、腹痛みが止まらず、血の便が止まらないのである。そんな母を数年前にすでにモジへ移っていた伯父が見て、「このままではママイを死なせてしまう。モジへ来い」と救ってくださったのであった。
親父はファゼンデーロの夢は捨てて、伯父の意見に従ったのであった。おかげで母は長生きしたのであった。
そう言うことでカフェザールから野菜作りに変わった。そしてスザノ福博村が故郷である。
十一歳から学んだのが福博日本学校である。ここでいつも考えるのが、日本人の教育熱である。
エンシャーダ時代からニ~三十家族集まったら、先ず日本学校を作ったのである。見かたによっては、一儲けしたら帰国するからだとの見方もある。しかし根源は、教育による伝統文化が根幹にあったと思う。 高学歴では無かったが殆どが「日本人の恥になるようなことはするな」と、プライドを持っていた。この思想は二代や三代で出来るのではなく、何千年の伝統から発したものであると思う。
戦後の日本は、倫理道徳が蔑ろにされてると言われるが、まだ誇れる国である。東日本大震災でそれを見たのである。英国のプライドの高い新聞が日本語で「日本がんばれ」と書いたのである。
さて、百周年したコロニアから見た日本であるが、原爆を落とされ、敗戦の灰の中から立ち上がって半世紀足らずで世界の一流国になったのである。なまなかな民族ではないのだ。正しく世界の中の日本である。
将棋の効用
サンパウロ中央老壮会 橋浦行雄
私共は生活の中にそれぞれ多くの趣味を持っております。読書、カラオケ、かるた(百人一首)。特に将棋は毎日二、三時間は楽しんでいます。
私は今、九十一歳になりますが、幼少の折に父から教わった将棋は、老後にも楽しめるもので、教えてくれた父に感謝しています。父は渡伯前に専門の二段の棋士に指導を受けブラジルに移住してきました。
父は第二アリアンサの鳥取村建設のため、人々のお世話に生涯をかけた人生の中で、将棋の息抜きは大切なものでした。一九二七、八年頃、出聖の折には、ブラジルの将棋普及に努めた日毎新聞社の中林老中氏と交遊を深め、また多くのブラジルの同好者とも楽しんだようです。
六十年前、奥パウリスタ線パウリセイ港町に在住の折、父は人々との連絡に歩き回り、草むらの穴に落ち、やっと這い上がり帰って寝込んでいました。私はその頃、ビアジャンテをしており、「これは医者に診てもらった方が良いのでは…」と思い、ジュンケイロポリス市の薬局・栄森さんに相談しますと、柔道家でもあった彼は「それは脱臼ですよ」と店を閉めてから自宅まで来て下さり、「少し痛いですよ。『エイ』」とばかりに治して下さいました。お陰様で百歳まで生きてくれました。その後も折々手当をしてもらいました。将棋好きの友人が体調の悪い折、アダマンチナ市で二、三局て合わせするうちに「あっ、これで体調が良くなった」と喜んでいたこともありました。
サンパウロに移転してからは度々将棋連盟の場に参加し、老後を楽しく過ごすことが出来、友好を深めることが出来、幸せでありました。
現在は私自身がガルボンブエノ街十七番地の三階にある将棋連盟で将棋を楽しんでいます。
移民の行き着く所
インダイアツーバ親和会 早川正満
ここで移民と言うのは、純粋な一世でデカセギではなく、そこに移り住み、その土地に眠る覚悟で移り来た民のことである。なぜこれほど口説く言うのかというと、訳がある。
八十路も越え、同じ場所に半世紀以上も住み続けていると、他民族に比べて日本移民の二世への移行の過程で我々老人を落胆させることがあまりにも多いからだ。
日系社会でボス的存在であった人が金銭だけ残し、息子に本当の人格形成や精神の伝授を怠っていたのではないか?と思う現状に度々あうのだ。この多民族国家での日系の誇りの行き先が心もとなくなる。移民してきた当初、他の民に対する自覚がなかったのかも知れない。
私が住む所はイタリア系移民が多い農業地帯で、その中にポッと存在する日系農家だが、それだけに常に彼らと接触している。子どもたちは小学校から幼なじみであり、移民としての先輩であり、常に学ぶことが多いが例えば四代、五代と確実に時代と共に形は変わっても移民の子孫としての影はハッキリと残っている。それに比べて日系はちょっと心もとない。
昔は子の上に老人がいたが今は老人が子等の心情に合わせて平和を保っているのが現実ではないか。
私の老友仲間の中にも他人には大きな口を開けて言っている人も自分の息子にはその一割も伝えられないようだ。「俺は墓は買ってある」と威張る人はいるが、墓守を子にはっきり伝授していると言い切れる人は少ないと思う。
家族の絆が分散したり、異人さんの系統に吸収されたりして、影が薄くなっていく現実を時折目にすると、終活の身なれどやはり日系コロニアの行き着く所が気になり、こんな文章を書いてしまった。いや、まだ時はある。一世が健在なうちにうまく舵を取ろうではありませんか。
「ああもったいない」
サンパウロ中央老壮会 安本丹
毎年のように水不足の問題で大騒ぎになるが、アパートでは水が共益費の中に含まれているためか、無駄遣いする人が多い。水不足の時期でも家の前の歩道の清掃や洗車のため、大量の水を使っているのを見ると腹立たしくなる。水道管が破裂して、水が道路を流れているシーンはよく目にする。
トイレで手を洗い、紙を五枚も六枚も使う人がいるが、私はいつでも手を振って水を良く切り、どんなに薄い紙でも一枚しか使わない。ガラスの空瓶が再利用されずに道路に捨てられたり、割れて散らばっているので危険である。
レストランでも食べ残しをする人が殆どであり、持ち帰りをしない場合はそのまま捨てられてしまう。先日ドイツ料理店である料理を頼んだら、量が多かったので三分の一しか食べられなかった。残りを持ち帰るように頼んだのに、ウェーターは要らないと思ったので捨ててしまったという。料理人が丹精込めて作ったおいしい料理を、そのように簡単に捨ててしまう人の心理が分からない。
スーパーで買い物をしたときに使ったビニールや紙の袋は一枚も捨てずに保存し、ごみやその他の目的に使うことにしている。
ところが最近は節約が必ずしも良いとは限らないことを痛感するようになった。たとえば後で使おうと思って溜めていたものが、引越しをするときに邪魔になり、結局は全部捨ててしまった。また、やたらに溜め込んだガラクタが多くなり、何かに利用しようと思っても見つからず、買わざるを得ないことがあった。古い野菜も捨てずに食べていたが、野菜は古くなると栄養価が失われると聞いたので捨てることにした。
電気製品の修理代が高くなり、むしろ新しい機種を買ったほうが安上がりになるので、修理すれば未だに使えるのを捨ててしまう。それにモデルチェンジで取り替えたい部品がないので、新しい機種を買わざるを得ない。メーカーは客が買い替えを早めるため、故意に故障し易くしたり、モデルチェンジをしているとしか思えない。
最近は本棚が一杯になり、置く場所が無くなったので、思い切って数百冊の本を古本市や古本屋に寄贈した。大学卒業後も勉強し直そうと思い、三十年以上も大切に保存しておいた経済、経営、会計などの本は全く手をつけなかったので、これで気分がすっきりした。
そのうちに何十年も捨てないで溜めていた機材類や日用製品、あるいは領収書、銀行残高、手紙、旅行案内などの書類もじゃんじゃんと捨てるつもりである。
このように本当に必要なものだけを選び、利用価値がないものは捨てる勇気が必要であることが分かった。
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