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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2017年6月号

2017年6月号 (2017/06/14) なぜ相撲取りは短命なのか?

名画友の会 安田功
 元横綱で相撲協会理事長・北の湖、元横綱・千代の富士(九重親方)、元大関・貴ノ浪(音羽山親方)等の急逝(きゅうせい)は、角界のみか世間一般の者まで、騒然とさせた。それぞれ六十二歳、六十三歳、四十三歳であった。持病を抱えていない力士は、皆無に等しいとのこと。心臓、肝臓、腎臓、大小腸、呼吸器官、肺などの慢性病を患っている。
 十数年前、力士の平均寿命は、六十歳強と言われていた。明治から昭和初期までなら五十五歳。着実に寿命は延びているとはいえ、日本人男性の平均寿命・八十歳からすれば、かなり短命だ。
力士は毎日、朝稽古の後は、食べては寝て体重を増やさなければならない。無理をして急激に太るので、どうしても心臓に負担が掛かる。現役の親方の中にも、心臓に持病を抱えている者は、少なくない。近年は引退してから、酒やタバコを止めて節制に努力している親方も、現役時代の「ツケ」に悩まされている。力士達は、年に二度、社会福祉として、赤十宇社へ献血するが、大部分が糖尿・肝炎等の濁った血で、七〇%は使い物にならないとのこと。見かけ倒しなのである。
力士の中でも特に短命なのが、横綱経験者だ。彼らは六十歳になると、還暦土俵入りを披露する仕来(しきたり)になっている。二十二代横綱の太刀山が、戦前の一九三七年に始めて披露してから、五十八代横綱・千代の富士(九重親方)まで、土俵で勇ましい姿を見せてくれたのは、十人しかいない。第三十五代横綱・双葉山(享年五十六才=不世出の大横綱で六十九連勝を誇る)五十九代横綱・隆の里は、五十九歳で死去。六十代横綱以降は、未だ還暦を迎えていない。
 つまり、太刀山以降、四十人弱の横綱がいるにも拘わらず、還暦まで生きていた、或いは健康を維持できた横綱は、四分の一しかいないのだ。
 そのような訳で、還暦土俵入りを果たした北の湖理事長も、健康には気を付けていた。「還暦まで死ねない」と言い、万歩計を腰に付けて毎日ウォーキングを行うのが日課であったとのこと。
 なぜ、横綱はそれ程、短命なのか?
 まず、現役時代のストレス、負け越しが許されず、優勝争いが義務だけに重圧は、想像を絶するものがある。大部分の横綱経験者が「ストレスで身体がボロボロになった」と話している。勿論、日々の稽古も人一倍しなくてはいけない上、お座敷も頻繁にかかるので、並みの力士よりも酒を飲む機会が多い、大関も横綱に負けないくらいストレスがある」元大関・貴ノ花(若貴の父)などは、太っていなかったが、五十歳代で死亡した。柏戸、玉ノ海(現役時代、一番脂の乗り切っていた頃、二十七歳で死亡)、琴桜=以上は横綱。幕内では若三杉、荒鷲、久島海は朝稽古に姿をみせないので、弟子が見に行ったら「血の海」の中で遁死(とんし)。享年四十六歳。このように七十歳まで生きる人は、稀(まれ)である。「土俵際の粘り腰」「魔術師」「足に目が付いている」とも言われ、なかなか土俵を割らなかった名力士達も、人生の土俵を簡単に割ってしまうとは…。大横綱・大鵬(享年七十二歳)などは、長生きの部に入るかも知れない。
 まず、動物実験で摂取カロリーと寿命の関係を見ると、カロリー制限をした動物の方が長く生きる傾向がある。人では、BMIと寿命の関係が研究されており、少し太めのBMI二五~二六が一番長生きしている。二七以上になると、重いほど短くなる。
 さて、統計的には、力士に限らず、一流スポーツ選手、作家、演歌歌手や俳優・タレントなども短命(自決、自死、事故死も多い)である。
 赤木圭一郎(享年二十四歳=事故死)。力道山(享年三十九歳=刺殺)。美空ひばり(享年五十四歳=間質性肺炎による呼吸不全)。江利チエミ(享年四十五歳=脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息死)。水原弘(享年四十三歳)。三島由紀夫(享年四十四歳=自決)。石原裕次郎(享年五十三歳)。藤圭子(享年六十二歳=自殺)。猪熊功(享年六十三歳=自決)。
 西洋では、ジェームス・ディーン(享年二十四歳=事故死)。タイロン・パワー(享年四十五才)。ロミーシュナイダー(享年四十三歳=事故死)。ナタリー・ウッド(享年三十九歳=水死)。マイケル・ジャクソン(享年五十歳)。西部劇のガンマンもガンで、五十歳代であの世行きとなった。「ガンマン、ガンに死す」。このように短命である。
 短命のみばかり記述するのは、気が引けるので、例外としてある程度の長寿者も付記する。橋幸夫さんは七十二歳で、最近ブラジル公演を果たした。日本では、誰も相手にしないが、ブラジルでは未だイケルのだ。キャーと言う女性の叫び声を、久しぶりに聞いたというから、押して知るべし。雪村いずみさんも八十歳で「テネシー・ワルツ」を歌い続け、未だにガンバッテいる。小林旭(マイト・ガイ)も七十八歳で、今でも「昔の名前で出ています」。
 ペギー葉山さんは八十三歳で、「南国土佐を後にして」を歌い続けていて早や五十年だったが、今年四月十二日に他界した。森光子さんも享年九十二歳で、林芙美子氏の放浪記で千回目の舞台で「でんぐり返り」が出来なくなったと嘆いていたが、そのうち、あの世へ「でんぐり反って」しまった。
本当に長寿と思える人は、数えるだけしか居ない。
 「老壮の友」の読者諸氏のように「中庸・中産階級・自然体」が、一番長生きする。「百歳万歳」と行きましょう。


如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
わすれじの
行く末までは
かたければ
けふを限りの
命ともがな
【儀同三司母】

 平安時代には「妻問婚」が盛んに行われました。妻問いを字引きで引いてみると、男が女を訪ねて求婚する、とあります。
 昨今のブラジルでも若者たちは一緒に住んでから、ある期間を過ぎて結婚をするのが流行だそうです。
 あの時代は恋が始まっても、男が来てくれなければ、愛もおしまい。結婚も不成立という不安定な成り行きでした。
 だから、「行く末まで君のことを絶対に忘れないよ」と言われても、「今夜限りの命だ」と思って、心の底から彼を愛するんだという女心が本当にあったのでしょう。


四国の田舎町の話

サンジョゼ・ドス・カンポス 今井はるみ
 この田舎町は日本の教育をさせるためにブラジルから五人の子どもを連れて帰った母の故郷だったのです。
 見上げれば、夏でも山陰に雪が白く残る石鎚山(いしづちさん)をはるか前方に眺めて過ごした十二年間は素晴らしい思い出となって心の真ん中にいつもあります。
 町の自慢である六十一カ所目の香園寺(こうおんじ)には白装束(しろしょうぞく)のお遍路(へんろ)さんが絶えることなく、駅前通りには、窓を開け放したお遍路宿が並び、平和そのものの村でした。
 小松橋の下を流れる石ころだらけの川原は、子どもたちの遊び場で、石をどけてカニと遊び、水を掛け合ったり夕暮れが迫ってもまだ、水の中にいたものです。
 母が「セリを採って来て!」と叫べば、すぐ近くの小川へ吹っ飛んで行き、小さい両手いっぱいにセリを持ち帰ったものです。セリはブラジルのアグリオンの味に似ています。日本では、アグリオンのことをクレソンと言います。こうして物思いにふけっていると、映画の中の物語のように、夢の中の一シーンのように色々なことが蘇るのです。
 桜の時季には東京大学での村長さんを先頭に、風呂敷包みを下げた上品な奥さんも横にいて、村中がその後ろにズラッーと二列に並んで桜の花見に歩くのです。
 村には黒のジープ一台しかなかったのですねぇ。これは駅前の医院の院長さんの車でした。今でもその窓の大きな車の姿が目に浮かびます。
 田や畑は牛や馬が耕し、荷馬車も馬や牛が引いて通るのです。のどかなものでした。
 子どもたちがワイワイして待った秋祭りには、村中の家の前まで神輿(みこし)がヨイショ、コラショと勢いよくねり歩く姿も良かったですねぇ。
 また、香園寺の沿道の両側にはズラリと屋台が立ち並び、子どもたちは行ったり来たりしながら好きなおでんや綿菓子を買うのです。当時の履物(はきもの)と言えば下駄(げた)でした。学校にはズック(=テニス)をはいたと思うのですが、私には下駄の思い出しか浮かびません。
 母のふるさとは、母の一番下の弟さんが家と田畑や山を守り通したと聞いています。
 あれから半世紀以上の時が流れ去っても、私には昔のまんまの母のふるさとが同じ姿で時を刻んでいるとしか思えないのです。
 どんなことがあっても、死ぬ前にはカニを探した川原やセリが生えるきれいな水の流れる小川に手を入れて、このふるさとへの深い想いを探し歩いてきたいと思います。父母の心と一緒に時間をかけて歩き回って、涙を流してくることにします。


= 齢と共に =「失敗」

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 昔の話だけれども、友だちのTさんとプライア(海)へ行った帰りのこと。私が水を買っている間に来たバスにTさんが乗り込んだので、あわてて行き先も見ずに私も乗ったら、サンパウロに入ってから知らない町ばかり通る。いつもは通らない飛行場も通り過ぎて、ピニェイロスに出た。降りようと思ったが、道に迷うより終点まで行こうと思って乗っていたら、オザスコに着いた。そこから汽車でルス駅まで行き、メトロに乗って帰った。Tさんが「乗ったことの無い汽車に乗って、面白かったね」と負け惜しみを言った。
  ― ☆ ―
 ガルボンブエノで友だちのYさんと出会った。「久しぶりね、元気だった?」から始まり、「ほら、あのときのビアージ(旅)、一緒になったでしょう。それでね」と私が話すのを黙って聞いていたYさん。やおら「お話中ですが、私はYではなくてSなんですが」。世の中に似た人が三人いるというけれど、本当にYさんにそっくりさんでした。
  ― ☆ ―
 知人から大根をもらったので、煮物を作ろうと竹の子、竹輪(ちくわ)、にんじんを切り、砂糖、しょうゆ、みりんをドボドボ入れてコトコト炊いて味見をしたら、辛いこと、辛いこと。砂糖と塩を間違えて入れていたのでした。あわてて水洗いしてみたがまだ辛い。砂糖とみりんを足してみたら妙な味になった。もったいないので、泣き泣き食べた。
  ― ☆ ―
 散歩の途中、ショーウィンドーにに感じのよいブルーザを見つけた。素材もよく、大きさも私にピッタリ。値段を見ると信じられないくらい安い。それは掘り出し物だと、ホクホクしながら店員さんに持っていった。そこで私は目をむいた。一桁見間違えていたのだった。
  ― ☆ ―
 前夜、眠れなくて、朝方トロトロしてハッとして目を覚ました。時計を見れば七時半。これは寝過ごしたと大急ぎでカフェも飲まずに家を飛び出した。七時半のバスに乗らないとメトロが一杯になって乗れないのだ。停留所まで行ったら誰もいない。考えてみたら、今日は日曜日だった。


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