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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2017年10月号

2017年10月号 (2017/10/14) 如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末(すゑ)の松山
波越さじとは
清原元輔

 さて、今日は心変わりをした女に男が嘆く歌です。ちぎりきなというのは、約束したという事。その約束も感激で涙を流して濡らした袖をしぼり合って、愛の約束をしたと云います。
 宮城県八幡海岸の松山神社の近くにある二本の相生の松をたとえ、どんなに高い波があっても、これを越すことはないように二人の愛を超えるものは絶対にないんだと誓いあったじゃないか、と女を責めています。作者は実は友人に頼まれて作ったとの事で、これを女に届けたわけですが、果たしてどうなったのか? 多くの諸君は女は謝ったんだろうとみているとか。


托鉢(たくはつ)と喜捨(きしゃ)

名画友の会 安田功
 先日、何か人生の指針となる教義はないかと探していたら、「托鉢と喜捨」と言うテーマに出逢いました。お釈迦様の教えとのこと。
 托鉢とは、笠を被ったお坊さんが、家々を回ったり、道路の脇に立ち、手に鉢を持って、その中にお布施を頂くという行為です。
お釈迦様は、托鉢に向かう弟子たちにこう言いました。「お金持ちの家を回ってはいけません。貧しい人たちの家を回って托鉢をして来なさい!」と。弟子たちは驚きました。「お金持ちの家から、喜捨を頂くのではないのですか?」大部分の方が、托鉢とは僧侶が自分の糧を得るため、信心の布施を頂戴する修行だと思っているでしょう。しかし、これには、もっと深い意味があったようです。
 お釈迦様は、このように説明しています。
 「貧しい人たちというのは、今まで自分が貧しいと思って、他人に対して、施しをしてこなかった人たちです。それ故に、貧しさから抜け出すことが出来ずにいます。だから、私たちが喜捨を頂きに行くのは、このような貧しい人たちを、その貧しさから救って挙げるためなのだから、貧しい人の家を回って来なさい」。
托鉢に金額は関係有りません。貧しさから抜け出す最初の一歩は、喜捨をしたり、他人が喜ぶことのために、お金を使うことなのですね。
 それでは、喜ばれるお金の使い方というのは、どのようなものなのでしょうか? 逆に「喜ばれないお金の使い方」を考えることで、その方法を解き明かして行きましょう。
=喜ばれないお金の使い方①ギャンブルに使う。
=喜ばれないお金の使い方②贅沢な生活に使う。
=喜ばれないお金の使い方③使わずに貯め込む。
 ギャンブルも、楽しみ程度なら良いのですが、「メガ・セナ」や「ロト」に大金を賭け、一撲千金を狙った使い方は、お金に嫌われるそうです。また、お金が入って来た時、贅沢な生活に変ってしまうような使い方も、嫌われるそうです。そして、「水とお金は流さなければ腐る」と言われています。「腐る程のお金が無いから貯まってから使うのだ」と言うのは、どうやら順序が逆らしいです。先にお金を出して喜ばれるように使うと、お金が入って来るようです。
 それでは、喜ばれるお金の使い方は、どのような使い方なのでしょうか?
=安いスーパーではなく、近所の顔見知りのキタンダ(店)で買う。
=有名レストランではなく、付近のバールで食事する。
=大企業のサービスではなく、個人経営のサービスを利用する。
=お世話になった知人の店で、感謝してお金を使う。
=他人のために喜ばれるようにお金を使っている人に、お金を使う。
=自分で出来ることがあっても、仕事を作ってあげて、お金を使う。
施しをするのは、喜ばれるところでした方が良いのです。お金に限らず「投げかけたものが自分に返って来る」というのが、世の中の大法則であると、先達も明言しています。
 試しに、優しい言葉を第三者にかけてみて下さい。必ず、優しい言葉が返って来ます。逆に、悪口や罵署雑言を投げれば、同じような言葉が返って来るでしょう。笑顔を向ければ、笑顔が返ってくるし、怒りをぶつければ怒りが返って来ます。愛情を注げば、愛情が返って来ますし、憎しみを抱けば相手からも憎まれます。奢ってあげれば奢られますし、たかればたかられます。お金も同様なのですね。
 他人のために使えば、自分に返って来ます。自分のためだけに使うと、そこで消滅してしまうのです。お金が無限に返ってくるようにするには、どうすれば良いか? 賢明な「老壮の友」の読者の皆さんは、もうお分かりですよね?


高齢者スポーツ祭に参加して

サンパウロ中央老壮会 寺田雪恵
 ハポーゾ・タバレス十九キロ地点から左に入って、イスラエリッタ墓地の前にソリダリダーデというクラブがある。その中の二百アルケールほどの森の中に幼稚園、中学校と職業学校がある。そこには医者もいれば、孤児さえ引き取っている。そこに私たち高齢者の教室もあって、午前と午後に分かれて料理、バレーボール、ピンポンなど九種類ほどあり、毎日参加している人もいる。体操には百二十人もいて、入りたくても空席待ちの人がいるほどだ。月謝は無料、帰る前にはランシェ(軽食)も出る。
 さて、そのクラブから八月二十三日から四日間、プライア・グランデでスポーツ大会があるから参加しないか、と誘われた。「プライア・グランデ」と聞いて、心が動いた。もう何年も海を見ていないなぁと思うと懐かしくなって、試合には自信はなかったが、「行く」と返事をしてしまった。私たちのクラブからはドミノ一名、陸上二名と私が卓球で計四名が行くという。
 しかし、卓球の台が壊れて修復していないのだ。どこで練習しようかと考えているうちに一週間が過ぎた。八月二日に返事をしてから、あと二週間しかない。静岡県人会の卓球教室は火曜日午後二時から始まる。しかし帰宅時間を考えると練習する時間は少ない。その上、二十人位もいて、すさまじい速さで卓球台に玉が飛び交う。台から一メートルも離れても打ち返している。三つの台はいずれもアポゼンタ(退職者の)人でパワー満開だ。近場でないか?と考えて、思いついたのがピニェイロスのSESC(ブラジル商業連盟社会サービス)だ。行ってみると、若い青年が多く、二つの台でラケットを順番待ちに置いている。女性は私と四十代近い人の二人だけ。だが、ここも全部で二十人位いた。
 出場を決めたからには、と雨の日も風の日も出かけた。下校途中のような十代の子どもも相手になってくれる。こうして休まずに頑張って、いよいよ当日となった。
 最初の日は午後五時半に着いて、二千人位入れる体育館で夕食。サンバのリズムを聞きつつ、フェイジョン(豆)、サラダ、ヘポーリョ(キャベツ)、とベテーハーバ、肉の薄切り。
 翌日の開会式は午後一時からというので、午前中は同行の三人で海まで散歩に出かけた。百メートルも歩くと、潮風が頬に触れる。サンパウロの曇り日の続いた後だったので、青空は何処までも青く、建物のそばの木々も太陽の光で輝いて見えた。朝のうちは射すような暑さではなく、柔らかい風も心地よかった。道の両側は土産物店だが荷物になるので、買う人はいなかった。陸上の友だちは少し走ってみると言って、渚をややゆっくりと走る。私は渚の湿った砂を踏みしめながら桜貝を探す。片方だけ見つけた。波打ち際に立って、潮の返って行くのをじっと見ているのも楽しかった。
 会場に戻ると、二千四百人収容と書いてある。室内にはプラッカ(板)に市の名前が二十三ほど書かれてあった。バレーボール金メダルのジーマ氏が場内の手伝いをしていて、皆が写真を一緒に撮ろうというので、私たち三人も彼の前に並んで写したりした。次々と人が来るが、気さくに応じていた。
 開会式はマイクがガンガンなって、あまり良くなかったが、アルキミン州知事のプリメイラダマ(統領夫人)がねずみ色のスーツで挨拶をした。金曜日からは本格的にあちこちに分かれて試合が始まった。卓球はサンパウロから二人だけだった。マルコというブラジル人で彼は「何も練習していないよ」と言い、テニスも好きなのか、大きなモシーラ(リュック)にテニスラケットも入れて肩にかけていた。彼は車で今日来たと言って、私とテニスをする二人を乗せて、試合会場へと向かった。
 私は気楽にしていたつもりだったが、やはり緊張していたのかなぁ。サントスの日本人と対戦して負けた。二週間ぐらいの練習ではねぇーと、自分で納得。次はジアデマの伯人女性と対戦した。彼女は七十八歳。彼女には勝ったが、やれやれ、八十歳以上は二人しか居なかったのだ。
 三回目はバルエリの人。その方は先生だけでなくコンビで、応援団まで来ていた。日本人の女性だったが、弱点を突いてきて、とうとう負けてしまった。マルコは私の試合中の写真を撮ってくれて、終わった後で、テニスの友人と一緒にカフェをしようと、少し離れたテニスクラブに連れて行ってくれた。そこは広い公園で船が陸上に二隻も置いてあり、錆びていたが風情があった。
 テニスの人は昼からもう一試合あるという。このレストランは両側に海が見え、中型の船が四、五隻、白帆をかけた船も浮かんでいる。公園のあちこちにある太陽の帽子という樹の下でシュラスコの煙を立てている。カフェと軽食の会計はマルコが済ませてくれた。どうもご馳走さま。優しい、感じのいい人であった。素晴らしい環境でスポーツを楽しみ、カフェを飲むと、なんか金持ちになった気分だった。
 マルコとは「うんと練習をして、来年は頑張ろう」と約束した。私のバッグを取ってくれたり、少しひざが痛い私に階段の上り下りでは必ず手を貸してくれて、紳士であった。素晴らしい出会いに感謝している。
 遅い昼食を食べに食券を持って宿舎から三百メートルほど歩いていった。青年が「覚えている?」と声をかけてきた。はて?と思っていると、卓球の審査員だった青年が「ユキエ」と私の名前を言ったので「あら、日本人の名前なのに」と言うと、笑って近くのテーブルに座った。それだけのことでもプライア・グランデは楽しい四日間であった。
 また、ダンス会場を除くと、例のバレーボールのジーマが来ていて、ダンスのコンクールの用意をしていた。何しろ背が高いので、すぐ目につく。一緒に写真に写りたい人は彼の胸までしかない。
 ダンスはサンベルナルドが一位、二位がオザスコ、三位はブタンタンだった。
 閉会式には歌手のワンデレイ・カルドーゾが歌っていた。腹が出ていて足が短く見えたが、マイクの声にはまだまだ若さがあった。
 天気は良かったし、無事故で夜七時には帰宅。心地よい疲れで夜を迎えた。
 来年はもっと練習をして頑張ろうと自分に誓った。そうそう、潮の香りのするあの桜貝の片割れも見つけなくっちゃ。


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