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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2017年12月号

2017年12月号 (2017/12/15) 年月の長さは記憶による

 早いもので、もう十二月です。本当にアッと言う間です。
 このアッと言う間の一年を、フランスの哲学者ポール・ジャネーという人が説明していると、ある人が教えてくれました。ジャネーの法則と言うそうです。
 それは、記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く感じるのだということです。
 五十歳の人の一年は人生の五十分の一であり、五歳の人の一年は人生の五分の一である。つまり、一歳の人の記憶の一年は三百六十五日ですが、五十歳の人の一年はその五十分の一になるのだとか。
 人は二十歳で人生の半分を終え、その後の二十~五十歳は、〇~二十歳と同じであると…。
 未経験のものをやっている時は、それが強く意識に残り、時間が長く感じられる。しかし、慣れてしまえば同じ時間も短く感じられる。
 子供の時は新しく知ることが多いため長く感じ、その後は慣れてしまうことによって短く早く感じるのだそうです。
 人生、七十年、八十年と生きていると、そのほとんどが今まで経験したことなのでしょうね。
 熟連までの道も、初めはけっこう遠いなと思っていても、慣れてしまえばすぐそこだということでしょうね。
 来年もすぐそこの感覚で、ちょくちょくお立ち寄り下さい。良いお年をー。(や)


如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
立ち別れ いなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む
【中納言行平】
 色男の業平の、母違いの兄で、弟と同じような情熱の人であったと言われています。
 「あなたと別れて因幡(鳥取市の郊外)へいきますがあなたが待っていると聞けば、すぐに帰ってきます。」以前にも転勤を命じられ、須磨で生活していた時、松風と村雨という海女姉妹を同時に寵愛したという話が謡曲にあるといいます。経済的手腕も抜群だったそうで、塩を焼くために平たい鍋を発明し、今でも「ゆきひら鍋」と呼ばれて使われています。
 前記の歌から、飼い猫が行方不明になったら、この歌を記して玄関に貼ると、猫が帰ってくるという話が伝わっています。


日系人はもっと日本語を

サンパウロ中央老壮会 柏木成一
 私が感じた事ですが、純然たる日系社会は日本語を読み書きできる一世とその両親などから教わった数少ない二世、三世がすでに高齢のため、社会から淘汰されると、あと十年もしない間に無くなってしまうと感じます。
ブラジルで日本の文化、自然、歴史、テクノロジー、習慣に興味を持って日本語を勉強してくれている最近のブラジル人の数と、日系子弟の数を単純に比較しただけでも愕然(がくぜん)たる思いがします。
 日系人が日本語を勉強する数が少ないため、日系人は日本語を話せるのかと云うと、大間違いで、殆どの日系人は日本語を話せません。
 日本が世界に誇れる文化を何故、日本人・日系人は自分の子どもたちに教えないのでしょうか?
 今また日本への出稼ぎ者が増えているようですが、彼らの日本語の理解度はどの位のものなのでしょうか? ブームに乗り遅れるなと、短時間でマスター出来るほど日本語は簡単では有りません。話せても、読み書き出来ないと学校で習ったこと以上の知識を得ることは出来ません。
 そんな彼らが日本に着いて戸惑うのは、事細かく決められた日常生活を送る上で、必要になる日本独特のルールです。これを理解するうえで大切なことは、いかに簡単な日本語が読め、理解出来るか? です。
日本語を読めず、判断できないために、ブラジル同様の習慣・慣習で行動し、日本の法律に違反して罪に問われる人が中国人、ベトナム入等に続いて三番自に多いのはとても残念な事です。
 ブラジルに於いて、ブラジル人から「ジャポネース・ガランチード」と云われるのは何故か? 想像出来ないほどの苦労を重ね、努力をして、『郷(ごう)に入れば郷に従え』の言葉どうりにブラジルの習慣に従って行勤して来たからでは無いのでしようか? ブラジルは他民族国家です。同じような顔をしたアジア人が一杯住んでいるのに、なぜ日系人だけがこのような信用を得るのでしょうか? ブラジル社会に同化するのは必要な事ですが、日本人の誇りを捨て、英語、スペイン語等を話せても、日本人としての思考・精神を捨てては、その他大勢のアジア系ブラジル人と同じになってしまいます。
 日系父兄はもっと日本人・日系人としての誇りを持って、子弟に日本語を教えて下さい。
 日本にも色々問題はありますが、世界に誇れる数少ない国家のひとつである事に間違いはありません。主旨をご理解頂ければ幸いです。


お別れの言葉

サンパウロ中央老壮会 西原訓子
 ブラジル国籍の主人が亡くなって間もなく、熟年クラブに入会して友人もたくさんできました。それまでポ語ができず、何もかも主人任せだった私は、人との会話そのものが苦手でした。
 それが、日本語で話せるようになったお陰で、言葉がすぐ出て来なかった私もスムーズに話せるようになり、また、アウラ(教室)にも参加させて頂き、理解力が鈍っていたのも解消できたように思えます。
 人との接触、会話が一番、ボケ防止になることを実感できました。この体験で熟年クラブの存在に心から感謝しております。 
 この度、ブラジルに一人住まいの私は(娘・孫、姉妹皆日本に在住)、元気で動けるうちに、広島へ帰国することになりました。何年かぶりに寒い正月を迎えますが、今暮らしやすいブラジルから帰りたくないような、帰りたいような複雑な気持ちです。
 八年間、熟年クラブの皆様にお世話になりましたことを心から感謝申し上げます。有難うございました。
 熟年クラブの益々の発展をお祈り致します。


=齢と共に= 一期一会

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 私の遊び仲間は二十人ばかりいた。誕生会やトランプ、餅つき、旅行したりした。それが一人減り、二人減りして今では四人になった。四人の中で二人は認知症、一人は目が見えなくなり、外に出られなくなって、私一人が残された。
 やはり多いのは癌(がん)で、毎日のように会っていたYさんは癌のオペラ(手術)をした後、「死んでも医者に行かい」と言って、病気がひどくなっても、子供さん達すら寄せ付けなかった。私にも「こんな痩せた身体は見せたくないから来るな」と言って、一人、旅立った。死後、三日目に見つかった。無理にでも会いに行けばよかったと私でも思うのに、お子さん達の気持ちはどんなだったかと考えると、他人事ではないと暗澹(あんたん)とした気になる。
 私は逆流性胃炎がひどくなり、この頃は歌も歌えない。大好きなコーラスもやめている。また、道を歩いていても胸が苦しくなり、首まで痛くなって立ち止まり、大きな息をする。
 いつか道で倒れて、気が付いたら、プロント・ソコーホでソーロ(点滴)を打っていた。
 メトロでも二度倒れて、メトロの関係者がタクシーでホスピタル・サンパウロに連れて行ってくれた。
 このくらいで死んだら楽なのだが、楽に死んだ人は少ない。死を思う時、やはり考えるのは子供達のことだ。私の家族は少ない。息子(子供無し)一人、娘一人と孫二人だけなので、私が居なくなったらどうなるのか。息子は一人で老いたらどうなるのか?娘は、孫は、と考えると、涙が出てくる。
 反面、私も両親を亡くしても、こうして生きているから大丈夫かなと安心したりもする。
 私は輪廻転生(りんねてんせい)を信じているので、死んだ順に記憶を失い、草花が種をつけ、また芽を出すように、赤ちゃんになって生まれ変わってくると思っている。
 私は何回も同じ夢を見る。坂下の道を登りきると、広場に出る。真ん中が商店街で、両側が住宅になっている。私は家に帰ろうとするのに、いくら探しても家が見つからない。これは私の前世の記憶がまだ残っているのだと本で読んだことがある。
 私は祖母、夫、長男や友など多くの人を失ったが、これはこの世だけの縁で、二度と会えないと思っている。だから、生きている間は皆と仲良く楽しく暮らしたいと願っている。


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