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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2018年2月号
2018年2月号 (2018/02/15)
テンプラ
名画友の会 安田功
学歴詐称や地位を一段も二段も挙げることを、学生用語で「テンプラ」と言う。移民としてブラジルへ移住して来た人で、赤道を越えた途端、急に偉くなる人が居る。
高等小学校は中学校卒業となり、中学校卒業は高等学校卒業となり、駅弁大学は一流大学卒となる。ブラジルに移民して来ている一流大学卒の五〇%は、「デンプラ」。つまり自称卒業生だと、ある有名大学卒業生が嘆いていた。
自分は戦時中は「中尉」であったと、時代錯誤もはなはだしい御長老と話をしたことがあるが、よく調べてみると、「中尉=ちゅうい」ならぬ「注意人物=ちゅういじんぶつ」であったと言う話は、枚挙に暇がない。
第三者に認めてもらいたいという「願望」は、人間の本質らしい。
日本とブラジルは、教育協定が不備である為、日本の大学卒業生は、学部によっては、再度ブラジルの大学入試を受け、卒業する必要がある。
一般的には、日本の高等学校の成績表(アポスチーラ刻印付)を、ポルトガル語に公証翻訳し、近所の教育庁(Ministerio da educacao)へ提出すると、ブラジル国高等学校卒業と同等資格を得て、ブラジル国内の大学受験をすることが出来る。
第二の方法は、日本の歯科学部卒業証書(アポスチーラ刻印付)を公証翻訳し、レバリダソン(再有効)の試験を受け合格すると、歯医者として開業することが出来る。現在の所、歯科学部と獣医学部のみがその恩恵を享受することが出来る。
単にレバリダソンと言っても、専門用語が嫌になる位出てくるので、「アケーレ、コケーレ」のブラジル語では、受験料を損するので、止めた方がよろしい。
日本の大学は、入学は難しいが、入学するとどの様な一流大学でも、殆どがトコロテン式に卒業出来る。ブラジルの大学は、入学は比較的容易であるが、たとえ駅弁大学であっても卒業は、「そうは、問屋が卸さない」のである。一流、二流の如何に拘わらず、六〇%程しか卒業出来ない。
義理堅い生徒になると、裏表(四年制度は、八年間)する剛の者もいる。(人のことは言えないが……)。卒業出来ない場合でも退学とはならないが、「卒業証書」は貰えない。単に成績表のみである。
待望の卒業式であるが、その時、卒業生は、一人一人呼ばれ、学長直々、筒を受領するが、如何せん、その筒は「からっぽ」で、卒業証書は、入っていない。手続きを踏み、ブラジリアの教育長官のサインを得て、約二年後に、やっと卒業証書を受領することになる。
昔と違い、大学卒業生の多いこと。学部によっては、就職出来ず、有名大学卒業生でも日本のみか、ポルトガル、イタリア、北米へも出稼ぎに行っている。本人たちは、「研修留学」と格好を付けているが、、弁護士も医者も多いこと。弁護士によっては、顧客が来ず副業として「水や衣料類」を売っている者もいる。弁護士様が「ベンデドール」にならないことを願うのみ。医者も奥地へ行くと、「ドトール、銭がねえから、これでも食ってくんしゃい」と、ブタや鶏を持ってくる患者もいるので、気が付いたらドトールが「ブタ飼い」になっていたなんてことにならないように……。
川柳で知るコロニアの現状
インダイアツーバ親和会 早川正満
老壮の友の川柳欄には移民独特の生活の中からしか生まれない、珠玉(しゅぎょく)の句がある。私はそれが好きで一つひとつ小箱に拾っておき、文章の書き出しなどに使っている。その一部分をここでご披露したく思います。
▽孫と対話ときどき日語プラスして
▽ポ語が通じなくても生きていける国
このような環境におられる方はコロニア全体の三割ぐらいではないでしょうか? 特に地方では老人会にでも出なかったら、家の外でも内でも日本語に触れる機会のない生活の人が多くいます。
▽リベルダーデ七夕祭りで盛り上がる
この句を詠える地域に住んでおられる高齢者の方は、幸せな方たちですね。
▽明日を追い明日に追われてひと日暮れ
評 人は皆明日に行かされているのです。年を取ってからのコロニアの生活は、何を言っても皆、シンプルな毎日ですよね。
▽親子四人今は老親二人だけ
我が親和会の人に聞いても、この姿の方が多い。親が一世の場合、異国で独りになったら悲劇である。そこで
▽お帰りと迎える家族いる至福
という句があります。せめてこのような形を作っておきたいものです。
▽老人会医者より詳しい奴ばかり
農業生産地においては、作物の医者は近年は化学肥料の近代農業の知識ばかり。しかしながら、我々高齢者は経験に基づく有機農業という違いがあります。あなたはどちらを選びますか?それとも併せてやりますか?
▽移り移ってやっと見つけた安住地
移民の成功とは、この心境になった時でしょう。そういう人を褒め称えたいと思います。
▽竹の子がパルミットに化す食開花
移民がこの地で祖国の食に近づけたものや、野生化した果実を商品化したりしました。
▽パステルで一躍日系名を上げる
の句のようにブラジルに固定化したものが多くあるのです。
伯人がオハヨウと云い通り過ぎ
▽いつからか日本語族は吾一人(家庭内で)
▽山小屋で学びて日語読める幸(移住地内で)
▽片言のポルトガル語で友になり
▽日系人出稼ぎ先で差別され
等など。いかがでしたか? たかが川柳、されどもコロニアの日系人の思いや移り行きが垣間見えます。
▽洞察の深さ川柳味が出来
の句の通りです。
終わりになりましたが、今年もよろしく。戌(いぬ)年だけに「ワン」ダフルな年であるますように願っています。
チリの弥次喜多道中
サンパウロ中央老壮会 安本担
年末年始はチリのサンチアゴで五日間過ごしたら、国内旅行よりも安い値段だった。もう一人、日本人のUさんがツアーに参加していたので、ブラジル人に混じって八十歳前後のじいさん二人での「チリの弥次喜多道中」が始まった。
サンチアゴは二十数年前に来た時よりも、遥かに近代的な都市に変貌していた。殆ど一年中雨が降らないが、アンデス山脈の雪溶け水を利用して多くの樹木を植えたり、公園を作って空気の汚染を防いでいた。地下鉄もサンパウロと同じ本数と距離ぐらいはある。しかし、町自体はサンパウロよりも小さく、主要な所へメトロで行けるので便利である。
またサンパウロのイタリア・ビルよりも高いスカイ・コスタネラ・ビルがあるが、年末のため、展望台は閉まっていた。しかも中南米では珍しく治安が良かった。
取りあえずは百レアルをペソに換金したら、一レアルが百八十ペソ近くだったので、大金持ちになったような気分がした。ところがレストランの昼食だけで、金が殆ど消えてしまった。二日目の市内観光中に急にUさんの姿が見えなくなった。皆を待たせるのは悪いと思い、自分がバスを降りて探すことにした。十分後にやっと見つけたが、彼は「観光客を良く見ていなかったガイドが悪い」と言い張るのにはあきれた。
昼食時にUさんは食べるものまで私に選んでくれという。勘定を頼むと、彼が「全部を払う」といって聞かなかったので、私に「金がないとでも思っているのか」と怒鳴りつけた。また眼鏡を落として困っていた。しかしそういう自分も翌日には眼鏡をなくしたり、ズボンのポケットに穴が開いているのを知らずに金を落としたり、現金自動引き出し機でペソを受け取ろうとしたら、無効であるとの表示が出たのに、更に何回も試したところ、カードが中に吸い込まれてしまった。
サンチアゴでは他にプレ・コロンビアーノ博物館、ノーベル文学賞受賞者のパブロ・ネルーダの家、ワイン工場などを見た。市立公園の小高い丘の頂上からの眺めが素晴らしく、遠くにアンデス山脈も見えた。
大晦日は海岸地帯のユネスコの世界遺産に指定されたバルパライーソ、およびビーニャ・デル・マルへ行き、有名な花時計などを見た。
しかし、年末のため交通規制が敷かれたので、行けない場所があった。ブラジルとは異なり、チリでは静かに新年を迎えるように思えた。ホテルの近くのレストランで夜食を取りながら十二時になると、花火やシャンパンもなく、いつの間に新年になったかが分からなかったが、それでも周囲にいた何人かが新年のお祝いを言ってくれた。
元旦にサンパウロに戻るため空港に行くと、Uさんは入国したときの認証印カードを無くしてしまい、出国できないかと心配したら、幸いに係官は気が付かなかったようだ。
未だ二万六千ペソ(約百四十四レアル)も余っていたので、先に昼飯を取ると金を殆ど使ってしまい、お土産を買うことができなかった。今回はこのように失敗やハプニングだらけの弥次喜多道中となったが、それでも落ち着いた綺麗な外国の町で新年を迎えたことで満足した。
新聞の切り抜き
ジュンジャイ睦会 長山豊恵(九四歳)
日本にいるたった一人の姪の手紙が来なくなった。
いつも溌剌(はつらつ)と「おばさんは元気でいいね」うらやましい、と書いてくる。こちらもまた、元気でよい所ばかりを見せたくて「ブラジルでも出来る桃の出盛り、イチゴの旬など美味しい果物の話など、目につき次第書いて送る。するとまた、返事が来る。「寒くなりました」「暑くなりました」「桜が満開となりました」そんな季節の手紙を月に一回は必ず送ってくれる。楽しみでした。
そんな手紙が来なくなってしまったのだ。聞けば、先立ってしまったとか。悲しい。長い間、楽しみにしていた便りが無くなってしまった。
まだ元気で便りが定期的に届いていた頃、どっしりと膨らんだ手紙が届いた。中身は新聞の切り抜きだった。良い記事ばかりが切り抜かれてあった。老人介護の仕方、何十年も経った古木の写真など私の興味がありそうなものがいっぱい入っていた。その中で特に私の目に留まったのは、「老人になっても目的が必要。月日は矢よりも早く過ぎ去っていくから、天を恨(うら)まず、人を咎(とが)めず、不運にあっても人のせいにしないこと。自分の幸せを願うなら、この事に従っていれば、きっと幸せに恵まれるでしょう」と書かれていた。
他にも面白いと思ったのは「たとえば一言、世の中で分からないことが二つある」「それは何か?」と聞いたら「人の心とコンニャクの裏と表」とか。その次に「世の中で分かったことが二つある」「それはまた何か?」と聞いたら「雨の降る日は天気が悪い。兄貴はわしより年が上」だとか。こんなことを面白おかしく言えたなら、部屋まで揺れるような大拍手が起こるとか。八十三歳の主婦が書いたものであった。
折りたたんである紙のしわを一枚一枚伸ばしながら読んでいく面白さ。いつも送ってくれて「ありがとう」と感謝をしながら、読み並べていく楽しさ。これも無くなってしまった。
懐かしい姪のちょっとした新聞の切り抜きがなぐさめ、楽しませてくれた。老若いわず、流れゆく年と共に去って行く人がいるのは仕方のないもの。人間、生きている限り何かしなければならないのなら、出来るだけ動こう。そうすれば体も軽くなる。
姪が新聞の切り抜きで教えてくれたように、私も目的をもって我が人生を進もうと、一時間をかけてサンパウロまで老人会のお手伝いや毎週月曜日には踊りの練習に行くなど動き回っています。
如空の百人一首の恋歌
書道愛好会名誉会長 若松如空
わびぬれば 今はた同じ
難波(なには)なる みをつくしても
逢はむとぞ思ふ
【元良親王】
美しい女性を見ると、必ず手紙や和歌を書いてやるという男。
実は陽成天皇の第一皇子で、本来なら天皇の位に上るべき人だったそうです。
ところが、宇多天皇の女御(皇后の次に位置する女性)と密通し、これが噂になってしまいました。
「こうなったら、もうどうなろうと、この身を捨ててもいいから、あなたに逢いたいと思います」と言っています。
不倫が露見すると打ち首、島流しなどの罪を受け得る世の中のこと。天皇に慣れなくとも、命を救われる方が良かったのかも知れません。「源氏物語」みおつくしの巻はこの人の話をモデルに書かれたと伝えられています。
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