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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2018年3月号

2018年3月号 (2018/03/13) 早世の黒人天才画家「ジャン=ミシェル・バスキア」

名画友の会 安田功
▽路上から世界ヘ
 ブラジル銀行の絵画展示場(セー区アルヴァレス・ペンチャード街一一二番)で、バスキア展が開催(二〇〇一八年一月二十五日から四月七日まで)されている。
 個人的には最近知ったことではあるが、バスキアは、一九六〇年から一九八八年を生きた早世の天才画家で、ニューヨークを拠点として活動しており、新表現主義と形容されるアメリカ・アート界に大きな影響を与えたとされる人物。二〇一六年には競売大手のクリスティーズで、バスキアの絵画(一九八二年)が五七二八万五千ドル(約六十三億円)で落札されたと発表。翌年にはザザビーズに出展された肖像画が一億一〇五〇万ドル(約一二三億円)で落札され話題になった。
バスキアの芸術は富と貧困、分離と統合のように、本質的に対局にある事柄に焦点を当てることが多い。また、人種差別や歴史的な事象に対する批判や不安などの感情表現を、荒々しいタッチと象徴的な作画で表現している。マネー(印象派)やピカソ(キュビズム派)やダリ(シュルレアリスム派)等から着想を得る方法のバスキアは、「新表現主義」と呼ばれている。
▽生い立ち
 バスキアは、ハイチ系アメリカ人で、父親(黒人)とプエルトリコ系の母親の間にニューヨークで生まれた。母親が絵画には素人であったにも拘わらず、子供用絵画プログラムにバスキアを参加させる等、彼が芸術の道を志すことを応援し続けたという。バスキアは、芸術に関しては、教育を受けていないものの、幼少年期に読んだ書籍などが、彼の芸術に多大な影響を与えていると言われている。
 その後、両親が離婚。引越しを経験したバスキアは、十七才の時に故郷ニューヨークに戻る。しばらくして、ニューヨークの街中にスプレーを使用したグラフィティーを始める。こう言えば格好がいいが、何のことはない、サンパウロ市長ドーリアが最も嫌悪している、ピッシャドール(野外ラクガギ野郎)となったのである。
 その頃から友人のアイ・ジアスと共にSAMOを名乗り、作品の中にも頻繁にSAMOという文字が出て来る。日本語では「古き良き」や「いつもと同じ」と言った意味合い。二人のグラフィティーは絵画では無く、機転のきいた短い詩の様なものを「SAMO」というフレーズを絡めてスプレーする手法を採用した。そのネームでカルトン等を販売し、生計を立てていた時期もあった。二十才はバスキアにとって転機の年となる。同年初めてニューヨークの展示会にSAMO名義で作品を展示。ここでその名が知れるようになった。新世代と呼ばれ、五万ドルの名札が付けられた。以後、バスキア名儀のみで作品を発表することとなる。
 黒人女性を多色に彩られた絵画の真ん中に配置し、まわりを木製の枠で囲った作品。祖先をアフリカンに持つバスキアにとって、その作品は、アフリカの過去の歴史を反芻したものの様に見えるが、そこに描かれている「FEET,100/49,27」と文字と数字がどの様な意味を持つのか、解釈はされていない。
 二十才での独立以降、徐々にその知名度を高めていったバスキア。日本、ドイツやアフリカでの展示会を成功させたが、彼の知名度が上がるにつれ、アート界における自身の居場所や、その毎日の生活に偏執や強い不安を抱くようになり、ドラッグの世界にのめり込んで行く。
 自身の作品が注目されなくなる不安や、誰かに盗まれてしまうかもしれない恐怖感を払拭することが出来ず、その結果、一九八八年、バスキアは薬物の過剰摂取により、二十七才という若さでこの世を去ってしまった。自室から出てこないので友人がドアを開けてみたら、頓死していたとのこと。
 アーチストの死後、その作品が大きく評価され、価格が高騰することは多々ある。二〇一七年にその肖像画が一億一〇五〇万ドル(約一二三億円)で落札されたことで、一九八〇年代以降のアメリカ人による作品の最高値を更新したと同時に、黒人アーチストとして、元ピッシャドールとして、最高額をも記録した。
 生前、千二百以上のドローイング(素描画)と、九百点以上の絵画を発表したバスキア。
 多くのメッセージを放ち続ける彼の作品は、今もなお世界中の人を魅了して止まない。と言っても、こちらにはサッパリ解らない。どう贔屓目に見ても「幼稚園」の子供が描いたとしか思えないし、サン・パウロのピッシャドールと寸部違わないのだから、ただの「ラクガキ」にしか見えない。
 ウサギかネコか判らない絵、犬かブタか判らない絵。実際、バスキアの描いた犬の鼻は、まさしくブタそのもの。何となく似たような素朴な絵は熟連の掲示板にも展示されている。ここにも隠れた天才がいるかも。早世の天災画家の絵、皆様も鑑賞してみては……。


同姓で迷惑した話

サンパウロ中央老壮会 今井はるみ
 父・今井政市が同姓の今井栄二郎と間違えられた話の前に、ブラジルに母は十五年、父は二十五年住んでいました。この十年の差の話から始めましょう。そうすれば、父が今井エイジロウではないことが分かるからです。
 父は十六歳で代用教員に選ばれたほど頭がよかったそうです。また、「外国を見てみたい」と作文に書いた女学校出の母と父は十八歳同士で結婚し、その三カ月後、神戸港よりブラジルへ旅立つのです。ブラジル行きのために革靴をあつらえた母と、立派な背広姿で体格の良い父が見えるようです。この船だけが自腹だったそうです。
 七十五日の船旅後、セッテバーラスの野村丈吾氏(当時三歳)のお父さんの世話で、四十五アルケールの土地を買い、米、サトウキビを植え、父母二人で建てた家に、三年後には父の一家を呼び寄せました。しかし、父のお父さんが胃がんでレジストロの病院で死亡。現在、レジストロの移民資料館のある場所は、父とその弟が四十五アルケールの土地内の木で「移民の家」を建てたのは、有名な話です。
 その後、セッテバーラスのリベイラ川で三度の洪水があったため、プレジデンテ・ベンセスラウに移り、フィゲーラ植民地を切り拓いたのです。
 コーヒー栽培、豚飼育などで日本から入植者をいれるが、その中に、有名な作家の谷崎潤一郎氏の学費を援助した東京都小岩町の米問屋の谷崎氏(叔父にあたる人)が乳母まで連れて一家総出で入植した。この人の次女が、父のすぐ弟・今井繁義と結婚。ハツタ工業、東京貿易を始めました。
 ここでは湧水が豊富であったため、ピンガ製造もしました。
 父母の生活は楽になるばかりでしたが、父母の望みは子ども五人(男二人、女三人)の教育にあり、母が先に五人の子どもを連れて帰り、その後、財産整理をした父が一年遅れて帰国する予定でした。
 しかし、結局父は戦争のため、十年後の昭和二十五年に帰国し、東京都新宿で今も続く貿易会社を始めます。プレジデンテ・ベンセスラウからサンパウロに出た父は、父のお母さん(ブラジルで九十二歳で死亡)とイタケーラに十年間暮らしましたが、その時、イタケーラの日本人の密告で、警察に家を包囲され、「今井エイジロウ、御用!」となりました。父の名は「今井政市」で所持していたパスポートで疑いが晴れましたが、イタケーラの日本人たちは「売国奴」と家の門に書いたりしていたそうです。
 また、近年、ポルトガル語で出版された本の中にIMAI EIGIROが悪人として登場しており、歯科大学にいた次男は友だちから「あんたのおじいさんだろう」と言われ続けた悔しい話もありました。この私まで今井エイジロウの親族と思われたことがあるのですよ!それも日本の某所で……。
 悲しいことですね。この話に終わりはあるのでしょうか。
 いつの日にか、父母の青春話として、「トヨとマサイチ」という本を書いてみたいと夢見ております。父母への感謝の気持ちを一杯詰め込みましょう。


如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
君がため
惜しからざりし命さへ
ながくもがなと
思ひけるかな
【藤原義孝】

 あなたのためなら、たとえこの命でも惜しくはないと思っていたが、一夜の契りを交わしたら、長生きしたいと思うようになってしまった。
 宮廷で多くの女性に愛され性格も良かったとされる青年。しかも美男であった。藤原家の出身で謙徳公伊尹(けんとくこうこれただ)の三男。十八歳で正五位下・右少将になった。
 一目惚れの女性に夢中になって、あの子に逢えたら死んでもいいと云っていたのだが、本当に逢ってしまったら、死んでもいいどころか、こんなに良い女性なら、彼女のために長生きをするんだと意気込んだという。しかし、運命はいたずらで、義孝は天然痘にかかり、二十一歳で死亡したと記されている。悲しい巡りあわせとなった。


閑話二題

セントロ桜会 森川玲子
※その一「改めて老人会とは」
 どこの老人会でも会員の高齢化、その他で年々会員が減っています。我が桜会も風前の灯。来年は何人集まりますか。
 老人会の役割も邦字新聞しかり、NHK衛星放送が入ってから薄れたように思います。ブラジル語は難しい。故郷も日本語も決して忘れることはできません。ふるさとの言葉で話ができる老人会。嫁や亭主への不満、聞いて欲しい苦労話など、そんなことを話せる会であったと思います。それが、NHKテレビで家にいながら簡単に懐かしいふるさと今の日本のニュース、世界の動きが日本語で解かります。ドラマ、歌謡番組、紅白歌合戦、相撲などがすぐに見ることができます。わざわざ老人会へ行かなくても……。
 もう一つ、老人会へ来る人たちが変わりました。ここ生まれの二世、三世の方々が熟年に達し、ブラジル語も解るし、色々な体操やカラオケに興味を持ち、老人会ではなく、熟年を謳歌しています。これはこれでいいのですが、その一方では杖を使い、体操などもその動きやリズムについていけない方もたくさんいらっしゃいます。
 さらにブラジルでも時代が変わり、以前では少なかった独居老人も増えています。テレビを見ながら好きなものを作って、ひとりで食事。気楽でいいかも知れませんが、認知症予防にはなるべく人の輪に入っておしゃべりをすることが大事です。食事だって、独りより二人、三人で食べた方が美味しいです。
 持ち寄りのご馳走に軽い体操、ビンゴで一喜一憂。桜会の例会で楽しんでいる一例ですが、よかったら参加しませんか?最寄りの老人会でもいいんです。月ごとの誕生会だって、楽しいですよ。
※その二「水を飲んで長生き」
 何かで読んだ話ですが、もう死期の近い母親に娘さんが駆けつけて「何か欲しいものは?」と聞きますと「水が欲しい」と。コップ一杯飲ませたら、もう一杯、もう一杯と三杯、四杯のみ、その後はケロリと治り、その後、何年も長生きされたそうです。
 『水を一日一リットル以上飲め』と言われます。私などもなかなか飲めませんが、九十歳代前後の元気な方々は一般的によく水を飲まれるようです。私の友人は九十二歳ですが、毎朝起きてコップ一杯、夜寝る前にも一杯、水を枕もとに置いて夜中にも飲むとか。なぜ水を飲むと良いかと言いますと、ドロドロになりがちな血液を薄め、血栓などを流してしまうそうです。人間も植物も水を断ちますと寿命が縮みます。水をたくさん飲んで、健康に長寿を保ちたいものです。


ひな祭り

 ひな祭りは古くは「上巳の節句」「弥生の節句」などの呼び名があり、五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)の一つにあたります。もともとは唐の時代の中国から伝わってきたものです。 中国では、奇数は縁起の良い日、偶数はその逆で縁起が悪い日と考えられていました。 奇数の月と奇数の日は、奇数(陽)が重なって偶数(陰)になるということで、それを避けるために季節ごとの旬の食べ物を食べ、生命力をもらい、その力で邪気を祓う目的で避邪(ひじゃ・魔除けという意味)が行われていました。
 ひな祭りもその一つで、平安時代には「上巳の祓(はら)い」といって、日本でも行われるようになりました。
 さて、この度、会員の中西恵美子さんから五段飾りの立派なひな飾りを頂きました。
 一般的にひな飾りは二月中旬までに飾り、三月二日「宵節句」三日「本節句」四日「送り節句」と言って、五日を過ぎると片付けないと、「嫁に行き遅れる」などと言われておりますが、熟連では何の問題もない訳で、三月いっぱいは、飾っておきます。
 どうぞ、ご覧になりたい方はご来館を!
 ちなみに女雛を「お雛様」、男雛を「内裏様」というのは、サトウハチローの動揺が元となった誤りで、一対で内裏様というのだそうです。


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