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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2018年5月号

2018年5月号 (2018/05/07) 鳴呼、社長

名画友の会 安田功
 一九八〇年後半からブラジル移民の逆流現象として、日本への「出稼ぎ」が顕著になった。「出稼ぎ」に行くには、先ず斡旋業者を通じる必要が有り、日系三世までとその配偶者に対し、就労ビザが承認される。
 斡旋業者と言っても、日本では脛(すね)と顔に傷の有る怖いオニーサンが牛耳っている場合も少なからずあるが、ブラジルのそれは、普通の人がその業務に当たっている。
 外国へ仕事を斡旋することは、ブラジル国法令では、一応ご法度となっているが、現在は笊法(ざるほう)と言われるぐらい黙認されており、領事館でも日系であるということを立証する為、戸籍謄本を取り寄せ、その他の必要書類を提出し、適切な人材であれば就労ビザが承認される。
 一時、特に女性の出稼ぎは、厳しく規制されていた。何故なら、日本で怖いオニーサンが仲介し、工場就労ならず「水商売」に放り込まれる恐れがあったし、「水商売」ならまだ救われるが、その内「お湯商売」になる可能性も秘めていたからである。
 ある日、ガルボン・ブエノ街の斡旋会社に、父娘がやって来た。モジ方面でアルファッセを栽培していたが雹で全滅したので、日本へ出稼ぎに行きたいとのこと。
 まず、小手調べに娘を先に行かせ、生活が安定した頃を見計らい、家族全員が、後から行くことにしたとのことであった。その父親が心配そうに「ヤクザが、うちの娘に手を出さんじゃろうか」。くだんの社長曰く「心配せんでよか。あんたの娘は絶対大丈夫、ワシが太鼓判を押す。ヤクザは綺麗な娘しか手をつけんのじゃ」。
 日本の派遣会社は、日本国法令に基づいたもので税金等を払い、合法的に機能している。しかし、ブラジルのそれは、未だ法的解決を要する部分があるので、「XX企画」とか「〇〇斡旋会社」とか、適当な社名を付けて「社長」となる。
中小規模は、二十人以上を雇っている業者もある。旅行社として法的手続きを踏んでいる会社もあるが、裏で「出稼ぎ斡旋」をしている場合もある。もちろん、幽霊会社も若干ある。そのような会社は日本から斡旋料を正規送金して貰うことは出来ない。
 しかし「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」。幽霊会社があれば、「幽霊と言う名の銀行」が存在し、世の中うまく出来ていてウレシクなる。幽霊銀行はその名の如く、いつドロンと消えるか判らないので、業者は薄氷を踏む思いをしても、それを利用している。
 実際、大手の斡旋業者で、ドロンされ、倒産の憂き目にあった社長もいる。
 「そう言えば、昨日まで訳の判らない銀行業務のようなのがあったが、どこさ行ったのかのう」と言うことにならないように……。
 以前、日本円にして「億」という金を、掌中に納めた斡旋業者が、リベルダーデ界隈にいた。今では、揶揄(やゆ)と尊敬?(そんけい)の念を込めて、その道では「生きている伝説的な斡旋会社社長」と呼ばれている。その社長は変な色気を出し、九州地方へ華々しく凱旋(がいせん)し、キャバレー(ボアッテ)を購入した。
その内そこのパート・ギャルと懇(ねんごろ)になったまでは、何とかスムーズに行っていたが、「好事魔多し」、何とそのパート・ギャルが、ヤーサン(ヤクザ)の紐であったらしく、「おどりゃ、ワイのイロに手出しやがったな。どないしてくれるんや。チャカ(ピストル)で、どてっばらに風穴開けちゃうか!」と脅され、血と汗と涙の結晶であるそのキャバレーを、乗っ取られてしまった。巷(ちまた)の噂では、どうやら、美人局(つつもたせ)であったらしいとのことだが、後の祭り。
 その後、泣く泣く糊口(ここう)を凌(しの)ぐ為、ご老体に鞭打って食品工場でロボットと一緒に働いていたが、そのロボットにもバカにされ、スピードに付いて行けず、脳溢血(のういっけつ)でぶっ倒れてしまいUTI(集中治療室)に担ぎ込まれ、生死の間を彷復(さまよ)いながらも、数週間後に退院した。
 どうにか死を免れることは出来たが、右半身不随となり、現在は毎月十二万円の「生活保護」を受けながら、細々と生活している。
 日本円の「億」相当か!それだけの金が有ればポウパンサに入れ、そのまま放置していても、毎月使い切れない程の金額を得て、騰(へそ)を天井に向けて、一生寝て暮らせたものを……。鳴呼、社長。


鯖(さば)ずし

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 昭和一桁生まれの私たち三人姉妹は、夏休みになると祖母の家の竹やぶに行き、その年の新しい竹の皮をはいで来るのがお役目であった。
 姉は辰(たつ)、私は未(ひつじ)、妹は酉(とり)の年である。
 母はそれをきれいに洗い、天日に乾かして、秋祭りまでしまっておく。鯖ずしを一本ずつ包む大切な竹の皮である。小ぶりの塩鯖五十本ほどを買い、塩抜きをして、甘酢につけて置き、良い加減になると、それに鮨めしを詰め、一つひとつ竹の皮に包み、しばって、特別にあつらえた木箱に並べ、押しぶたをして一週間がちょうど食べ頃である。
 母のまたその母から教えられた料理の永年の勘である。
 祭りの日、晴れ着姿の私たちはいそいそと包みをほどく母の手元をつばを飲み込みながら見つめていた。
 青く光る鯖の肌、きざみ生姜も入っているご飯のしまり具合も上々である。
 空も山も水も澄み渡る秋、食べ盛りの私たち姉妹は、一本はすぐに平らげてしまう。今でも目を閉じれば、ひんやりと、もっちりとした舌ざわり、生姜の風味もよみがえる。鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)の祭ばやしも聞こえて来そう。母の自慢の鯖ずしは、重箱に詰められて、親戚、知人に配られる。懐かしい古里の味と風景である。
 話は変わって、親しい句友の方が鰆(さわら)をお味噌につけて頂かれたら、その美味しいこと。更にさらに、後に残ったお味噌で作ったおつゆも何とも言えぬコクがあり、頂かれた由(よし)。
 ここ熟連では皆さん方のお知恵拝借が出来る。
 いつか料理番組で、お味噌にオリーブ油を入れると美味しいとも聞いた。お茄子のしぎ焼に付けて食べると、ますます食が弾むことである。


如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
めぐり逢ひて見しや
それともわかぬ間に
雲がくれにし
夜半(よは)の月かな
紫式部
 
 源氏物語を書いた平安随一の女流作家といえば誰でも知っています。
 歌の内容は、何年か振りに会えたと思っていてから、その人かどうかもう一度確かめようと思っているうちに夜半の月の雲に隠れてたように姿が見えなくなってしまった。という昔の恋人に逢いそこなった淋しい女心を詠ったものです。
 「お前が男に生まれていたらなぁ」と学問ができた幼女時代、父親から惜しまれた才女。藤原宣孝と結婚。一女を産んだ後、すぐ夫に死なれ、源氏物語に手を染めた。


高橋竹山の話

サンジョゼ・ドス・カンポス市 今井はるみ
 津軽三味線の名手、高橋竹山(ちくざん)氏は、青森県平内(ひらない)町の出身です。
 青森駅から青い森鉄道で四十分ほど走る小湊(こみなと)駅の駅近くには、竹山氏の記念館があり、竹山氏の津軽三味線を聞くことができ、写真を眺めて、静かなひと時を過ごすことができます。
 津軽を旅する時には、訪ねて下さいね。
 実は竹山氏がお元気だった頃、まだ十代であった三人の子どもとブラジルから訪ねて行き、尺八を吹いて頂いたことがあり、ビデオカメラに収め、大切な思い出となっています。主人は東京から三歳の時、当地に疎開してきたので、学校の行き帰りに竹山氏が手を引かれて門付(かどつ)けをしている姿を覚えているというのです。
 この話を聞いてから、余計に竹山氏に思いを馳せるようになっていったのだと思うのです。目の見えない竹山氏は雨の音、雪の降る風景を津軽三味線に写し取って行ったのではないでしょうか。私にはそう思われて仕方がありません。目の見える人間には無い情緒があり、その中には怒りも混じっていますよね。
 津軽三味線は激しく弾くものと思い込んでいる人もいるでしょうが、昨年、「太宰治(だざい・おさむ)を訪ねて」というバスツアーにさんかしましたが、太宰治のすごく大きな生家の道ひとつ渡った所に津軽三味線会館があり、風格のある老人を真ん中にして、右側に青年一人、左側に女性一人が補佐をした曲を聞いてきました。まるでささやくような静かな弾き方で、私も一つ勉強をした心持ちで会場を後にしました。この一、二年の津軽三味線の全国大会で一等に入った青年の引き方には現代に通じるリズムがありました。
つまり人それぞれの個性の表現の仕方でこんなにも曲が別世界になるのに驚いています。
 私にとっての津軽三味線とは? と改めて問いかけてみますと、この青森地方の豪雪地帯に生きる人々の声と自然の中に人々を押し殺す、これでもか、これでもかと吹き荒れる世界。それも白一色の雪の世界の怖さでしょうか。津軽三味線はそこから生まれてきていると思うのです。
 それこそ、生きるか死ぬかの極限を乗り越えるか、乗り越えられるのかという雪の世界を唄い上げたのが津軽三味線ではないでしょうか。
 私は死ぬ時は、花に埋もれて、春に死にたいと思っていますが、雪が恐いほど積りゆく夜、津軽三味線の弾くリズムの中に埋もれて死にゆくのも良いナァ!と近頃思い始めています。
そうなのです。そろそろ、死に支度を始める歳になってしまいました。 いつのまにか……。


方言

JICAシニアボランティア 鈴木京子
 「ばっちのばーか」と、よく言われて「違うよね。」と母に泣きついた幼い頃を思い出します。末っ子の事を宮城県ではばっちといいます。テレビの普及と国語の授業で標準語を習っている現在の子供達は方言を使いません。ズーズー弁と言われ東北弁を馬鹿にされていた集団就職時代は、従姉弟達はさぞ言葉で苦労したことでしょう。彼女達が東京から帰省の途中に我が家に寄ってお土産を置いていってくれました。来る度に言葉が綺麗になって、服なども流行のモダンな服で、まるでお姫様みたいに見ていた私でした。
 話は元に戻りますが、末っ子の事をばっちと呼ぶ事は方言なのですね。岡山の方では、おとんぼと呼ぶ事を大人になってから知りました。
 今日、方言が取り上げられて郷里の言葉は温かい、心に残る等と脚光を浴びています。
 一時帰国の折、新聞を見ていましたら、方言が毎日一言載っているのを見つけて面白いと思い集めて見ました。
 ちぇすと!鹿児島県の方言で意味はそれっ!と、気合を入れるときや、何かの動作を始めるときのかけ声なのです。大河ドラマの西郷隆盛の最後に使っていますね。
 がまだすの意味は頑張るで、鹿児島県を除く九州全域で、とても使われています。
 大分県の方言かたるの意味は仲間に入るで、一緒に遊びたい友達がいたら、自分から積極的に声をかけてみましょう。
 長崎県の方言ちんちょかの意味は珍しいです。滅多にない物や変わった物に出会った時に使うみたいです。
 奈良県でいぬというと犬のことではなく、家に帰るという意味だそうです。
 島根県でおんぼらとというと穏やかまたは、ゆったりという意味で使われるそうです。石川県では、おんぼらーとと、言うそうです。
 栃木県で、あったらもんは、もったいないの意味です。関東地方をはじめ、東北地方の一部や新潟県、石川県などでも使われているそうです。
 えらいは、「偉いね。」のほめ言葉ではなく、疲れているという意味です。中部、近畿、中国、四国の各地方で使われているそうで、私と一緒に来ているJICA青年は、疲れると「えらい」と言ってしまい「何が偉い。」と言われ、今は「疲れた」と言葉を選びながら言っているそうです。彼の出身地は愛知県です。私も長女を身ごもったときに、「えらいね。」と義理姉に言われ、(ちなみに彼女は名古屋の人です)何が偉いのかなと、考えた事を思い出しました。
 秋田県ででかしたと言うと、出来たことだそうです。「でかす。」と言えば「完成した。」という意味です。
 岩手県で、たるひと言うとつららの意味で宮城県でも使うそうです。私は宮城県ですが宮城県の方言でも、仙南で仙北とは言葉が少し違います。たるひは使ったことがありません。
 幼い頃、私達は近くのいっせんこ屋(駄菓子屋)に買い物に行くと「もうし」と言い、仙北の従兄弟達は「かいす」と言って、お店の人に「返されたら困るよ。」と、からかわれ、福島県の従兄弟達は「おくれ」と言うので「タダでは駄目だよ。」と、又もやお店の人にからかわれました。
 福島県の従兄弟達は「京子ちゃん達は、ちゃ、ちゃ、うるさいね。」とよく言われました。そのとおり仙台では、そうだねんだちゃといい、だめだめだちゃというので最後にちゃを付けて言っていました。が、私達も反論し「福島はゲーゲーうるさいよ。」と言いました。そうだねそうげよ。など、最後にをつけるのです。
 このようにその土地の言葉があり今は懐かしく思い出されました。まだまだ沢山の方言がありますが、皆様で思い出しながら熟年クラブで楽しい会話をして下さい。


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