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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2018年7月号

2018年7月号 (2018/07/14) 歴史の風景に同席

インダイアツーバ親和会 早川正満
 八十路をこして過去を振り返って見ると、後から知った歴史上の場所に自分もかかわりを持った時間があったことを思い出す。ここに四つほど紹介してみたいと思います。
 かつて日本に戦艦大和と言う当時世界一を誇る軍艦が有りました。その大和を建造するにあたり、その強硬な鉄を日本国内では全て調達出来ず、多くを事実上、日本のものであった満州国の本渓湖製鉄所から調達し、完成することが出来たと、何かのドラマで知りました。
 実はその本渓湖市で私は終戦の年まで少年時代を過ごし、そこの小学校(当時は国民学校)に通っていたのです。いつも製鉄所の横を通り、満人街を道草しながら…。
 今思い出しても大掛かりな製鉄所でした。鉄車が縦横に走り、溶鉱炉が唸りを上げ、昼夜火の色で明るかった思い出があります。
 ドラマを見て本渓湖といっても多くの人は無関心でしょうが、私はいっぺんにあの時の満州少年に駆け戻っていました。戦艦大和の歴史を語るその鉄の一部の故郷に私は立ったことがあるのです。
 二つ目は、一九五八年チサダネ号で移民としてサントスに上陸し、入植先はサンパウロ州の奥プロミッソンのカフェーコロノで、パトロンは日系二世の人でした。
 カフェーの仕事(草取りが主体)にだいぶ要領を得た頃、私たちを含めた三家族をパトロンがペスカー(魚釣り)に初めて連れて行ってくれた時の出来事です。
 場所はパラナ大河の支流ドラウド川でした。ちょうどピラセマと云って、魚の産卵期で、六メートル幅の川を水しぶきを上げて遡(さかのぼ)ってくる様は壮観でした。
 昼過ぎになり、釣れた魚を外すのが、じれったいほどに釣れ出した頃、パトロンに「帰るから急いで車(トラック)に乗るよう」と云われ、皆が乗ると、待ちかねるようにすぐに発進したのです。川辺の雑木林を抜け、原っぱに出て後を見ると、真っ黒な雲のような集団が追いかけてくるのが見えます。丘の上に車が駆け上がると、やっと川の方に散って行きました。なんと、蚊の大群だったのです。
 マラリアで大被害を受けた日系の植民地はこの近くだったそうです。あの黒い雲の下に入植する日本人たちを見た現地の人らはどんな風に見ていたのでしょうか。
今は発電所用のダムで、その湖の下に眠っているそうです。
 三つ目は、自分がこれから結婚して子供の将来を考える時、奥地では不安があり、知人のアドバイスでまず一人で辞書を片手にカンピーナスに出て、家族で出来る仕事を探しました。二十四才でした。
 行きは汽車だったのが、一年も過ぎると電気機関車に変わっていましたが、カンピーナスの駅を降りて駅前に出ると、確か六階建てのビルが一つあるだけで、横からいつでも飛び乗れるような路面電車が縦横に走っていて、中央に大きな中央市場があり、日常必要な物は全てそこで間に合うという、だだ広い田舎町という感じでした。それでも移民国らしく、色々な人がまざり合う肌合は温かく感じました。
 後で知ったことですが、当時、野口英世が一時、このカンピーナスで研究生活を送っていたそうです。野口英世が中央市場でブラジル国のサントイッチと果実を紙袋に入れ、路面電車で研究所に通っていたそうで、その当時の風景がまだ残っていました。
 それから十年ほどでカンピーナスは近代都市に向け動き出しました。私はカンピーナスの周辺で歩合と借地をし、その後、独立農として資金を作り、隣町のインダイアツーバに農地を持ちました。
 それは渡伯して十年目でした。シチオ(農園)は町から十キロメートル離れた所にあり、ジュンジアイ河を鉄道で渡って町に行くのですが、当時は雨が降れば泥道となりました。
 今回の話はその鉄道に関した話です。第一回笠戸丸の移民の一部がイタリア移民に混じってピメンタ駅に降り、サルト・イツー方面に入植しました。現在はジュンジアイを発する支線は全て廃線になっていますが、当時を懐かしむ形で、それも笠戸丸移民を乗せた客車を引っ張ったと思われる機関車が駅の一部とともに道路際に展示されています。
 煙突がちょっと細くて高く、小型ながら小生意気な力持ちっぽい姿を初めて見た時、どこかで見たように思ったのですが、それは日本のテレビドラマで見たのです。横浜と新橋間を走った日本初の機関車だったのです。同じ英国製であり、年代も近いから、そう思ったのです。ブラジルでは移民を奥地に連れて行くため、それも支線に走らせていたのですね。
 私は戦後移民ですが、バウルーからプロミッソンに向う機関車は薪で走るものだったので珍しく感じたものでした。笠戸丸移民は、すでに日本で機関車を見ていたので、珍しくはなかったでしょう。
 皆さんも当地にお立ち寄りの際は、ぜひこの機関車を見て下さい。現在はこの近郊だけでも多くの日系人が、他民族とうまく身を寄せ合って地域の発展に貢献しています。過去を楽しく思い出話として語れることは、幸いと云わずして何と云いましょうか。
 移民の日に祭り騒ぎも良いでしょうが、過去から良きも悪きも検証して、我々の子孫がこの移住地に安住する道標を示すことが今のコロニア指導者達の最大の仕事だと思います。年を取ればきつい日本での仕事。デカセギの人たちが年を経て、きつくなった日本の仕事を辞めて大量に帰国する前にぜひ、模索してほしいと思います。


如空の百人一首の恋歌

書道愛好会名誉会長 若松如空
ながからむ
心も知らず黒髪の
乱れて今朝は
ものをこそ思へ
【待賢門院堀河】

この恋はいつまでも続くのでしょうか。あなたの恋心にも少し不安があります。お別れした今朝は、私の黒髪が乱れているように、私の心もあなたへの想いで乱れているのです。
夜、男は何度も愛をささやくが、女は不安もあります。次、いつ来てくれるのだろうかと。心は乱れます。
与謝野晶子の歌集「みだれ髪」のタイトルはこの歌から取られたとか。
作者は藤原公家の娘で崇徳・後白河天皇の母・堀河に仕えた人。


今までで一番辛かった事

コチア青年連絡協議会 広瀬哲洋
 昨年、二〇一七年九月、とうとう妻を説得して肉用のオヴェーリャ(メス羊)二頭を買って来た。目的は果樹園の除草である。
 八年前からイビウナのシチオに移り住んで老後の楽しみを目指し、庭を造成し、新居も建て、犬を二匹飼い育て、妻は満足していた。使用人は置かない事と決め、私は果樹園の除草、妻は庭園の除草と一応分担しているが、昨年から妻はロッサデイラを長期間掛ける事がきつくなって来た様だ。そこで、私は良い機会だと捉え、地鶏を飼い、羊を飼うべく彼女を説得した。お互い、趣味が全然違うのである。彼女は新居の内装に務め、さらにガラージェン(駐車場)を集会場に改装し、新しくガラージェンを建て増しする計画を交換条件として、地鶏と羊を飼う許可を得た。お互い、老後の夢を壊わさないことで合意が出来た。
 地鶏の放し飼いは一応成功するかのように見えたが、今年に入って一羽を残して全滅した。近所の引っ越しの時、取り残されたらしいメス犬とその二匹の子犬がフランゴ、成鶏、友達から頂いた大事なアンゴラ(ホロホロ鳥)まで、毎日のように襲い、殺し、姿を消していったのである。我が愛犬ボビとビンゴの二匹は、野良犬を追い立てるどころか、一緒に寝たりして、全くどうしようもない。ボンビーニャ(爆竹)も効果無し。地鶏は鶏小屋に入らず、高い梢で夜を過ごすようになっており、保護を求めて帰ってきたのはたった一羽のメンドリだけだった。
 四十年来の隣人で、野菜作りのジャイールが放し飼いしている三匹の犬はどう猛で、以前からその悪行は近所で知られていたが、本人は責任を奥さんに押しつけていた。うちのボビとビンゴはもう数年間、生傷が絶えず、妻は今年に入って大けがをしたビンゴを車に載せて動物病院に連れて行く時、ジャイールを呼んで付き添わせた。恐縮はしていたらしいが、「治療費を払う」とは言わなかった。
 近頃、カミニョエイロ(トラック運転手)のストが始まった頃、妻はボビが噛まれたところを見せる為に、通りかかったジャイールの奥さんを呼び止め、うちの庭で何やら話をしていた。そして彼女が帰って間もなく、妻が大声でわめき始めた。
 何と、ジャイールの三匹が、うちの羊に襲いかかっていたのである。私は三十m程走って、一頭の羊のももを噛み裂いている犬を追い払ったところで、すぐさまジャイールの奥さんの後を追ってその事を告げた。一体何が起きたのかはすぐには理解できなかったようだった。
 そこに彼女の娘達二人が私の剣幕に驚いてやって来た。そこにくだんの犬が戻って来たのである。犬の口が血で汚れていた事で、すべて理解した。三人を伴って現場に戻ってみると、「カアサン」は尻の肉をそがれ、「ミミ」は口から舌のようなものを詰まらせて眼をむき出していた。首の骨を折ったことは後から分かった。二頭とも四mの綱で杭につないでいたのが仇となった。午後五時過ぎの事である。
 ジャイールの奥さんは声も無く、顔は固張り、独身の娘は「この被害は弁償をせねばならない。ロープでつながれていたのだし…」と。今までなぜこのどう猛な犬を放っておいたのかと嘆いた。そしてジャイールに携帯電話で連絡していた。私は不可抗力と考え、諦めが肝心と思う事にして、二次被害を防ぐ事を考えた。それはこの事からジャイールの家族たちと敵対関係にならないようにする事だ。しかし、損害賠償はキチンとしてもらおう。二頭とも妊娠三ヶ月になるはずだ。
 そして、二頭の解体を車で十分ほどのジャイールの知り合いの元肉屋さんに頼み運んだ。
 もう息絶えていた「ミミ」をガラージェンの梁に下肢から吊るして手際よく皮を剥ぐ。その技量に無駄は無く、私とジャイールは二頭目の「カアサン」を連れに戻った。「カアサン」はまだ生きていたが、傷は骨にも内蔵にも達している。これ以上苦しませるのは酷だった。「カアサン」を連れ、再び解体場に着いた時には「ミミ」は死体から骨付きの食肉に変貌していた。
 梁に吊るされた「カアサン」は眼を開けて観念をしていた。頸動脈にファッカを入れ、血が流れたがなかなか息が絶えない。「胎児が生きているうちはまだ親は死なない」と元肉屋さんが言う。私は冥福を祈って唱題を唱えた。二頭ともそれぞれ胎児が二つずつ入っていたのが忌まわしかった。悔しかった。惜しかった。あと一ヶ月もすれば新しい命が四つ生まれていたはずだった。杭にロープで縛る必要があっただろうか。アザレアやマナカ、フェニックスヤシの葉を食べられたくらいで、縛るべきだったのだろうか、と後悔するばかりだ。
 ジャイールは元肉屋さんに仕事代を訪ねた。「要らない」と言う。「では肉を取ってくれ」とジャイール。「肉も要らない」と。「ただ、解体がすきなんだ」と言った。ジャイールは「あとからお礼をするから」と言って、内臓や皮など、生ゴミを片付け、砂利の床を水で洗った。どこに捨てればよいか相談していた。場所は秘密である。
 なめし方さえ知っていれば捨てるには惜しい皮だったが、それをすれば、おそらく離婚だろう。家に戻って骨付きの食肉を一応全部、箱に入れ、目立たないない所に置いたのだが、すぐ気付いた妻が大声でジャイールに全部持って行くように言った。「見るだけで気持が悪くなる」と言う。
 次の日の朝早く、骨付き肉を取りにジャイールの所に行ったら、「冷蔵庫に場所は無いし、もっと持って行かないか」という。妻に隠れて、住居から離れた場所で肉の塊を骨から外して、小さめの袋に入れたら五袋半になった。
 僕用の冷蔵庫のフリーザには場所がある。そこでまたジャイールの家に取りに行ったら、彼は居らず、娘が言うには肉を売りに行ったという。家に戻り骨を埋めたのだが、後日ボビが骨をかじっている所を妻に見られ、あやぶまれた。しらを切ってお隣のせいにしておいた。炭火で、薄く切った肉片をあぶり、醤油とレモン汁それにピメンタ(唐辛子)を少々混ぜ、浸して食べたらとてもおいしかった。
 医者からは、私に不足している「ビタミンB は赤い肉に多く含まれている」と言われている。大切な命を我が命に戴いて、有難いと感謝をしながら、イタダキマス。妻には先週買った豚肉をたべていると思わせている。
 ジャイールから賠償金をもらったらまた羊を買って育てよう。増やして果樹園の除草をさせよう、とへこたれないでいる。妻は「羊が最後に草を食べていた梨園を見るだけで、気分が悪くなる」と言い、そこを全部「除草機で刈るように」と言う。もし、まだ隠してある五袋の赤い肉のかたまりを見つけられたら、その時は対決のとき。勝算はある。妻も使うフリーザの中には私しか食べない地鶏が彼女の周知の上で蓄えられているからである。でも、出来るだけ彼女を刺激しないよう、彼女の留守に少しずつ全部食べちゃおう。半年はかからないだろう。
 今年七十歳となった。今までにこんなショックな出来事は覚えがない。つまり、自分は何と幸せな生活を送って来たのだろう。戦争や大地震の被害者、また近くはカミニョエイロのストで野菜を積んだフルゴン車を焼かれた友人の息子さん、不可抗力と言えなくもない。怒りをぶつける相手が分からない、腹立たしさを、いつまでも引きずっていては、二次被害で健康を害したり、他人と喧嘩をしたりして、益々不幸になってしまう。
 幸いなことに、先日ジャイールに会ったら「あの三匹の犬は他所にあげたので、もう心配は要らない」とのこと。奥さんも「必ず支払うからもう少し待って欲しい」と妻に言った。
 少しずつ解決しているようだ。価値的な人生をこれからも生きたいと思う。大好きな妻を大切にして。


帆立貝

サンジョゼ・ドス・カンポス市 今井はるみ
 ブラジルから毎年五月から十一月にかけて住みにゆく我が家のある平内(ひらない)町小湊(こみなと)はホタテで有名なのです。
 つまり養殖のホタテですよね。この地に住む親類から頂くホタテは、売り物にならない小さなホタテですが、すごくおいしいのでビックリします。
 このホタテの養殖場に集まってくる鯛(たい)も頂くのですが、ホタテの刺身はマグロよりも鯛、ブリ、イカ、アワビよりも美味しいのです。それも飛びぬけた美味しさですね。
 ホタテの刺身に白いご飯と漬物の食事は夢のようでその一瞬を忘れたくないと思うぐらいです。まだ、言い足りないように思うほど、ホタテの刺身は美味しいのですが、それが帆立ご飯にしたり、大根と煮つけたりすると、ごく一般の普通の美味しさに格下げになります。
 青森の夏の暑さは一週間から十日ぐらい、体がまいるような暑さなのですが、東京や千葉の暑さに慣れている人にはそんなでもないのでしょうが、青森の涼しさに慣れていると、本当に身の置き所がないぐらいの暑さを感じてしまいます。
 不思議ですよね。ブラジルの暑さに慣れていても、全く違う暑さなのですから。
 この暑さが過ぎて、朝夕の冷たい風が吹き始める頃に、帆立祭りがあり、近隣から人々が押しかけ、静かな町も車であふれかえります。
 毎年、この帆立祭りのある場所は大昔の弥生時代の土器が出土した所でもありますが、その時代はこの辺りまで海が迫っていたのではないかという事です。
 何しろ、帆立の町なのですから、普段の日も県道の両側には「帆立あります」と看板の目立つ店が並んでいますが、私たちは帆立は頂いて食べるものという、誠に贅沢(ぜいたく)な気分でいますので、買って食べたことはありません。しかし、干した帆立を買い、ブラジルで帆立ご飯にしてみても、全く美味しいとは思いませんし、何しろ、帆立の貝柱二十個ぐらいで五千円もします。しかしその値段のようには美味しくないのです。
 帆立は刺身に限りますから、青森へ行く一つの大きな楽しみになっています。
 それから帆立の話ではありませんが、小湊は白鳥の飛来地でも有名なんです。車で八戸(はちのへ)方面にドライブしたり、また、すぐ近くの海岸に白い石を拾いに行く時に目にするのが、大昔から植えられている防風林の立派さです。
 自然の厳しさの中にひっそりと生き続けるもの静かな人々に混じって、半年を過ごしてくる価値は、きっとこの中にあると思うのです。
 今では老後の楽しみになっていても何しろ毎年行くたびに思う事は「何と日本は遠いのでしょう」ということです。


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