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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2018年10月号

2018年10月号 (2018/10/20) 日々雑感

サンパウロ中央老壮会 二宮春男
 私は少年時代からリベルダーデで育ったと言ってもいい、戦後移民の子で一九三五年に四歳で、ブラジルの土を踏んだ。物心ついてから何度も、「どうしてこんなところへ連れて来たのか?」と恨んだことが再三あった。ブラジルへ着いてからは誰もが経験したように奥地に配耕になったようだが、その頃の事はおぼえていない。農業が嫌で嫌で仕方なく、近郊に住んでいたので、仕事を終えるとすぐにリベルダーデで下宿して、勉学に励んでいた友人達に会いに行き、話し合うのが楽しみであった。また、トーマス・デ・リマ街にあった小川武道館で二十歳頃まで柔道に励んだ。
 その頃はまだ電車が走っていて、地下鉄が出来るなどとは思ってもみなかった。サンパウロの地下鉄駅名に「日本」という名前が使われることを巡り、議論になっているようだ。サンパウロ地下鉄公社はブラジルメディアに市内の地下鉄リベルダーデの駅名を「日本リベルダーデ」に変えたと七月二十四日に発表した。
 これは今年、日本人がブラジルに移民して百十周年を迎え、それを記念するためである。これに先立ち七月十八日からはサンパウロ市長の決定で地下鉄の駅周辺広場の名前が「リベルダーデ広場」から「リベルダーデ日本広場」に変わった。
 リベルダーデは草創期、日本人移民が集まって住んだ場所である。日本風の街灯が立てられており、リベルダーデの入口に大鳥居がある。「日本通り」と呼ばれ、日本人移民団体と文化施設、飲食店、商店街などがたくさん入っていた。ガルボン・ブエノ街にある日本庭園の場所には、かつて榎本食堂があったように思う。しかし、韓国や中国などアジアの他の国の移民が増えて、リベルダーデの姿は大きく変わった。特に中国人、主に台湾系が経営する飲食店や商店街が急速に増えて、店名は日本名を付けているので、ブラジル人には見分けられないだろうが…。
 日本人商圏は殆ど消滅し、今は「アジア人地域」と呼ばれるようになった。このような状況を考慮して、地下鉄の駅名変更に否定的な反応も出ている。韓国人が経営するインターネットのメディアには、サンパウロ市内の韓国人タウンであるボンレチーロ地域の地下鉄駅名にも「韓国」を表記するよう努力しようという主張が提起されているようだ。ボンレチーロに近いチラデンテス駅を「韓国チラデンテス駅〔Coreia-Tiradentes〕に変えようという意見だ。(余談だが、ボンヘチーロには昔、色町が存在していたが、アデマルデ・バーロス知事が閉鎖。戦後移民には余り知られていない事実である。)
 しかし、日本移民がブラジル社会で占める比重と役割を認めなければならないという意見もある。
 地下鉄駅名と広場の名称変更のため、長い間、運動したある日本移民団体関係者は今回の改称は「日本人移民の歴史が百十年にも達し、ブラジル発展の為に寄与した点が認められたものだ」と説明した。
 その一つにブラジルの「不毛の大地」と言われたセラード開発の奇跡。日系人が開拓・開墾して一望千里の大豆畑に変貌した。
 ブラジルは日本列島を除いて日本人が最も多く居住する国だ。ブラジル内の日本人移民は百九十万人を超えるとされ、そのうち相当数がサンパウロ州に居住している。高々二十年程の歴史しかない他国民が何をかいわんやである。


思い出すままに

サンパウロ鶴亀会 玉井須美子
 先日、熟連で会員のご主人の電話対応のそっけなさが話題になった。
-もしもし、Aさんのお宅ですか?
-そう。
-私、Bですけれど、Aさんいらっしゃいますか?
-おらんね。
-どこに行かれましたか?
-知らんね。
-何時頃お帰りになりますか?
-わからんね。
 と、「まぁ、こんな調子で、伝言も頼めなかったのよ」ということだ。
 しかし、一昔前の男性は皆、こんな具合だった。私の主人も口数の少ない人で、電話があってもふつうは電話のことなど言わないが、たまに気の向いた時は「今日は電話があったぞ」とひとこと言ってくれる。ところが「誰から?」と聞くと「知らん」。それだけならいいが「下らん話は覚えとらん」とくる。食事をしていても、うんともすんとも言わないで食べている。ある時、私がたまりかねて「どう? おいしい?」と、こちらから聞いてみた。すると「食べよるが」という返事がたった一言。これは美味しいから食べているではないか、という主人なりの言い草である。
 また、ある時は私たち夫婦は店をやっていたのだが、真っ白な毛糸のチョッキを着込んで帰って来た。「どうしたの?それ。きれいなの着ているじゃない?」と私が尋ねたら、「もらった」と一言。「誰から?」と重ねて聞いたら「CAIXA(会計係り)のC子」とそれだけ。「じゃあ、私も欲しいから『編んで』と言っといて」と言っておいた。翌日、「頼んでくれた?」と尋ねると、聞いたのか聞かなかったのか、面倒くさそうに「忙しくて編めんと」という返事。無愛想な主人だったが、従業員や客には妙に好かれていたらしい。
 主人と私は同じ植民地の幼なじみである。主人は若い頃はアシスの野球チーム「カラムル」でピッチャーとしてならしていた。ある時、サンパウロの大会に代表で出ることになった。綿の収穫時期になっており、畑一面が真っ白になっていた。猫の手も借りたい程の農繁期で三十人も四十人もパンヤドール(日雇い綿摘人)を頼んでいるというのに「行く」という。お爺さんはカンカンに怒って「この忙しいのに何が野球か」と大カミナリ。
 私は次男を生んでまだ二か月。主人は私に「頼むよ、たのむよ」とふし拝んで出かけて行った。人に頼りにされたら断れない性格であったのである。
 そんな夫も脳溢血で倒れ、十三年の闘病の末、あの世に旅立った。最初の半年間は立つこともできず、かついでトイレにも連れて行った。その後も子供のようになり、私に頼り切っていた。亡くなって間もなく、枕辺に気配を感じ見るとぼんやりと立っていたことがある。「元気にやっているから心配せんで、出て来んでいいよ」と言ったら、それっきり夢にも出てこない。主人の最後は入院中に急に血圧が下がりあっという間に逝ってしまった為、死に目にも会えなかったから、たぶん、お礼の一言でも言いに来たんだろうと、勝手に解釈している。
 ところが先日、もう一度、夢に出てきた。主人や兄や従兄や構成家族で来ていた青年まで、亡くなった人たちが皆、一緒にワイワイやっていて、何やらにぎやかに笑い合っている。そこにバスが来て、皆、一斉に乗り込んでしまった。私が乗ろうとすると、バスの戸は閉まり、発車してしまい、私だけ取り残されてしまった。「何だろうね。私を置いていっちゃうなんて」と怒りながらタクシーで待ち合わせ場所らしい所に急いで行ったのだが、誰もいない。そんなところで目が覚めた。結局、私はまだ、逝かなくていいということらしい。
 でも、あんなに無口でそっけなかった夫も皆と楽しくやっているので、あの世は良い所らしくて、安心している。そう言えば、主人は青年団の女子の間でも大変人気があった。焼もちを焼いている訳ではないが、まったくやぁね~。男は無口で七難隠す?そんなところかも。


国境の町ポンタポラン(2)

ビラ・ソニア老壮クラブ 滝ケ平功
 カンポ・グランデからポンタポランまで当時、鉄道が敷かれていたということは、パラグアイに通ずる物資の輸送路だったと思われます。その鉄道たるやお粗末そのもの。サンパウロからボリビアに通じるノロエステ線もバウルーを過ぎたとたんに日本で言うトロッコ鉄道みたいで、振動が激しく、寝台車でさえ眠れなかった位です。ましてやカンポ・グランデ駅からの支線ともなれば、もっと質が落ちるのも当然です。普通鉄道は砂利を敷いて、その上に枕木を置き、その上にレールが敷かれますが、この支線はテーラ・ロッシャ(赤土)の上に枕木が置いてあるだけなので、駅に停車するたびに、赤い土ぼこりが列車の中まで入り込み、大変でした。それでもポンタポランのひとつ手前の駅には検問所があり、軍隊が検問に来て、荷物は全部調べていました。
 ポンタポランからいよいよパラグアイ国へと国道が通じるわけですが、当時のパラグアイ国は貧乏国で、舗装ではなく、雨が降れば二十四時間通行止めで、道路が乾くまで車は走れない時代です。
 もちろん、ブラジルもマットグロッソ州に入れば、ほとんど舗装はなく、砂利道でこれもほこりで大変な時代でした。ポンタポランといえば、地形的には山などはどこにも見あたらず、太陽は東の地平線から昇り、西の地平線に落ちて行くのですから、壮大なものでした。
 大草原で秋になると、グワビローバという果物があり、それを採りに行って食べたのもいい思い出のひとつです。果物の木の高さはせいぜい一メートル位しかありませんので楽に採ることができました。あの一帯にはまだインジオが結構住んでおり、グヮラニー語だったので、全然、言葉は通じません。ここでの仕事にはパラグアイ人を使っていましたが、彼たちはスペイン語。ブラジル人を何人か使って、何とか意思疎通は図れました。彼らは靴などはなく裸足で生活していたので、足の裏は硬く、よほどのトゲでもない限り刺さりません。トゲが刺さったとしても、彼らは必ずファッカ(ナイフ)を腰から吊るしていたので、上手に抜き取って、血など少しも出ず平気でした。キャンプ移動の時には、インジオを使ってテントなど重い物を運ばせていましたが、彼らは山道(ピッカーダ)を歩くのも早いです。狩猟生活なので、山の落ち葉の上を歩いても、ほとんど音を出しません。オンサなどの獣が音を立てないのと同じだそうです。
 山間地に住むパラグアイ人の住まいは全部、その場にある物で作り、屋根はコッケイロの葉をきれいに編んで葺き、それは見事なものでした。半世紀過ぎた今、あのアスンシオンに通じる国道はもう舗装されているのだろうか?  当時、あの町でただ一家族ホテルを経営されていた日本人家族はどうなっているのか? あの鉄道は改善されただろうか? 私たちがサンパウロから入って行ったあの道もきっと今頃は舗装されているのだろうなぁ。 パラグアイの街角に立っていた少年兵たちは当時、裸足だったけれど、今はもう、靴を履いているのだろうなぁ。できるものなら、生きている間にもう一度、行ってみたいものです。


スマホで通訳

ブラジル書道愛好会名誉会長 若松如空
 第四次安部内閣が誕生して、新しい政策が語られ始めた。総理は日本の人口減少を大いに憂慮して外国人の導入を検討したいと述べている。日本がこの問題を解決できなければ、今後、成長は見込めない。
 最近、ある県で若人の交流を促進したいとして、日本からブラジルへ二名派遣する計画を立て、県人会へその旨通告してきた。
 ブラジルへの興味を持つ人材をまず選考し、日本で数週間ポルトガル語を勉強させてから選び出すとの話である。交流を深めるためには言葉の障害をまず解決せねばならないことは誰でも知っている。四世の入国についても、日本語が話せることが条件とされており、ブラジル側としてはこの問題で苦慮している。四世の場合、多くが日本語を語らないからだ。四世の移住は、なお足踏み状態というほかない。
 日本語は世界でも難しい言葉である。ブラジル語も欧州諸国の言葉と比べると、文法上の例外が多いなど整理が進んでいない面倒な言語である。日伯両国が覚えにくい言葉の国であることは不幸なことだ。前述の県の話でも、青年に数週間勉強させても「こんにちは、さようなら、どうもありがとう」を超える言葉を使う事は困難だそうだ。
 最近、英語については相当程度の会話がスマホの通訳で話せるようだ。二〇二〇年のオリンピックまでには、この方法が完成する可能性は高くなると予想されるが、日伯両語の通訳についてはどうなのだろう? ブラジルには素晴らしい通訳者が何人もいる。日本にもブラジル語の通訳者は多いだろう。出稼ぎ子弟の中にも優秀な人材が出ている現状からしても、スマホによる会話方式を高める可能性は大きいと考える。
 総理が外国人の導入を促進したいのなら、政策の重要事項として、この件を取り上げるべきであろう。両国の優れた通訳を選んで、担当グループを結成し、十分な予算を与えて、早期に完成すべきであろう。
 難しい言葉の習得に多くの時間を費やす方式に固執せずに、これは長期戦とし、短期戦としては、人工知能による機械による解釈を進めるのが急務であろうと考える。


井本司都子様を偲ぶ

サンパウロ中央老壮会 大志田良子
 難聴の私は娘が家にいる限りはなるべく電話は受け取らないことにしています。さる、九月十三日朝、熟連事務局からの電話を娘が受け取り、昨日、井本さんが亡くなって、今日、お葬式との知らせでした。突然の訃報に驚き、ただ悲しみで胸がいっぱいになり、沈んでしまいました。葬儀場はツクルビーの方と聞き、とても遠方なので、お見送りすることが出来ませんでした。どうぞ、お許し下さい。
 井本さんとはもう二十年余りも良き師、良き親友として、お世話になりました。ジャバクアラ短歌会、エスペランサ短歌会、セントロ桜会といつも一緒に楽しく語り合いました。月一度のジャバクアラ短歌会には、歩行困難になってからもタクシーと車椅子で梅崎さん宅まで熱心に通って来られました。歩行ができなくなってから、私が「老壮の友」を受け取ることを依頼され、毎月アパートへ届けて、色々と世間話を聞くのが何よりの楽しみのようでした。
 一度、上手にピアノを弾いて下さったことも私にとっては大切な思い出の一つです。
 二、三か月前に事務員さんから「入院しているらしい」と聞き、先月アパートに伺いましたが、管理人の方は病院の場所も不明とのことで、お見舞いにも行けず、お会いすることができずに残念に思っております。
 もう一度、ゆっくりと話し合いたかったのですが、あなたの寿命だったのですね。井本さん、どうぞ、お安らかに冥土の旅を。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、四十九日は十一月四日(日)午前十一時より西本願寺で執り行われるという事です。
 井本司都子氏は大阪府出身。六歳で渡伯。享年九十八歳。


老移民一世の繰言

インダイアツーバ 早川正満
 ここで言う「移民」というのは、子ども移民も含めた戦後移民のことである。移民生活が定着すると、愚痴話がいつか笑い話になっていることが多くある。そう思って、もし、気に障っても愚か者の意見とお見過ごし下さい。
 大学まで出した自慢の息子を「ブラジル娘に引っ掛けられた」と愚痴ると、ブラジル人にそれは「その娘のパンティで漉したコーヒーでも飲まされたのだろう」と言われていた友がいた。ブラジルらしい諺もあるものだ。このような傾向にはコロニアの親たちとブラジル人の親たちのあり方が大きく違うからだろうと思う。ブラジル人は、娘の惚れた彼氏は家族中で歓待し、取り囲むようにする。しかし、日系人の親は、娘の自慢はひ、相手の男性のことは徹底的に詮索する人が多いと、息子たち若い人たちの評価である。これではブラジル人に勝てやしないだろう。
 核家族で自由で、自己中心的、金銭至上主義で、人間的に心に添う必要がなかったから、年老いて、子どもたちの情が必要になってきた時、外人の嫁さんとの心の交流が二世夫婦と違い、一世夫婦はたとえ言葉が使えても理解しあう方法に苦しむと想像される。今から先輩たちの意見をよく聞き、心の準備をすべきだろう。
 年寄りになったら、自分の体が自由に動けるうちに、兄弟や子どもの身内はもとより、近くの友人との交流は活発にしておくことだ。それも自分の方から出かけて行動すること。体が不自由になって、誰も寄り付かないと愚痴る者がいるが、自分が何も行わず、好意だけを求める間違いに早く気づくべきだ。孤立しての終活は異国では悲劇と知るべし。また、習慣でもとんでもない意味違いのこともある。例えば、日系人が日本から取り寄せてもお守りを大事にするように、ブラジルにもサント(神様)以外にもお守りとして、身につけている物がある。最初に見た時は、「え?」と思った。人差し指と中指の間に親指を入れ、親指の頭が間から見える物を胸にぶら下げていたからである。それが日本では決して人前では見せてはいけない形だったからである。
 もうひとつ、日本ではお金のことを人差し指と親指で丸を作って言うが、ブラジル人はびっくりする。それもここでは人前では絶対にしない仕草である。
 異国に定住することは、そこに溶け込む心構えがまず必要と思われる。そして、孫や姪たちに慕われる老移民になりたいものだ。何しろ、異国での巣作り一代目である。「年寄りの長話はいけない」。西郷どんの口真似で、今日はこれで終わりとする。


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