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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2018年12月号

2018年12月号 (2018/12/14) Grande Aventura 大冒険

JICAシニア・ボランティア 岡田みどり
 JICAの同期のボランティアには職種が野球の青年が七人います。その中の、コーペルコチアスポーツクラブに配属になっているボランティアから「ソフトボール大会があるのでJICAチームを作って出ることになりました。是非参加してください。」とのお誘いがあり、シニアボランティアも応援に行くことになりました。土日の二日間あり、土曜日にはシニアが三人一緒に行ったのですが、私は「熟年まつり」があったため、日曜に一人で現地まで行くことになりました。場所は、「ブタンタンからタクシーに乗れば行ける」と聞き、メトロに乗るのは大分慣れてきたので、乗り換えさえ間違わなければ行けるだろうと思いました。
 八時頃アパートを出て、メトロ・アズー(青線)のサンジョアキン駅から乗り、一度の乗り換えで行けるように、ルス駅で下りました。アマレーロ(黄色線)の入り口に行くと、ゲートが閉まっていて入れません。さぁ、困りました。
 ゲートに係の人は立っていたのですが、なにせポルトガル語が聞き取れない。周りの人の動きを見ていると、ほとんどの人が戻ってメトロに乗っていきます。私は、思い出しました。二つ手前のセ駅からベルメーリョ(赤線)に乗り、ヘプブリカ駅でアマレーロに乗り換えができることを…。
 私も人の流れに乗り戻りました。その後、順調に乗り換えができ、アマレーロの入り口に行くと、ここでもまたゲートが閉まっていました。
 ここで初めてアマレーロ線自体が動いてない事に気が付きました。今日はあきらめて帰ろうかとも思いましたが、せっかくここまで来たのに残念。みんなの頑張っている姿も見たいし。と考えているうちに、冒険心がむくむくと湧いてきて、行ける所まで行ってみよう。と決めました。
 しばらく人の流れを見ていると、制服を着た女の人に切符のようなものをもらっている人が多かったので、振替輸送なのだと思い、私ももらいに行きました。ブタンタンまで行きたいのだと言うと、切符はもらえませんでしたが、説明してくれました。しかし聞き取れた単語は、『階段』、『左』、『バス』でした。
 これを並べると、『そこに見えている階段を上って左に行くとバスがあります。それに乗って行くとブタンタンまで行けます。』想像力を働かせ祈るような気持ちで階段を上りました。登り切って左を見ると五十メートル程先にバスがいました。でも本当にブタンタンまで行くのか不安で、乗り込むときにも聞いて確認してから乗りました。しかし、まだ乗っても落ち着かず外を眺めていると、メトロの駅の近くで必ず止まっていたので、だんだん安心してきました。
 やっとブタンタンに着き、今度はタクシーです。乗るのは初めて。それも一人。緊張しながら来たタクシーに乗り込み行先の住所を見せ、走ること十分。グランドが見えたのでタクシーを降りました。入り口を探しましたがわからなかったので、野球隊員に「着きました」と電話をすると迎えに来てくれるというので待っていました。しばらくすると電話が鳴り、「どこにいるのかわからない。」と言われ、まわりの様子を知らせたり写真を送ると、場所が違うことが判明しました。
 もう一度タクシーをつかまえて乗ってきて欲しいと言われ、車も通らないようなここで、どうやってタクシーをつかまえようかと思案しました。運よく警察関係の建物が目の前にあり、私の様子を見ていた婦警さんが近づいて来ました。住所を見せると、「私は、今一人だから送っていけない。下の通りまで出てタクシーに乗ったら、五分くらいで行ける。」と言っている様子。「歩いていけますか?」と聞くと、「二十五分くらいかかる。」と言われ、行き方を教えてもらいました。「前の道を下り、つきあたったら一度曲がるだけ。」と言われた(?)ので、歩いて行くことにしました。どんどん下り、つきあたりを左に曲がりしばらく行くと、なんとなく心配な住宅街になり、携帯の地図で確認。(もっと早く調べればよかった。いろんな便利なものを使いこなせないんです。)つきあたりを、右でした。十分くらい歩くと、やっと看板が見えてきました。今度こそ間違いない。ほっとしましたが、敷地がとても広くまだ皆には会えません。近くにいた女性に野球のグランドの場所を聞きました。今度は、聞き取りを間違えないように何度も聞きました。何度も聞くので、連れて行ってくれました。しかし、探しても誰の姿もありません。「着きました」と、もう一度電話をすると、「他にもグランドがあり、そこではない。」と言われ、今度は迎えに来てもらいました。やっと皆の顔を見られたのは、十二時。アパートを出てから四時間もかかってしまいました。私にとっては大冒険でした。無事に着くことができて本当に良かったです。
 その日の試合は一勝一敗でした。


出逢い ~一枚の作業衣~

サンベルナルド松寿会 片田甲子巳
 先日、静岡県人会会館で行われた熟連カラオケ大会の日のことです。二階会場はバザーで賑わっていました。そこで中古衣類コーナーにあった男物の作業服を見つけてびっくりするやら、一体どうしてここに…と笑えてくるやら!」。その作業服の胸には『中央物産(株)』という金色の刺繍が光っていました。この会社のロゴが懐かしさと共に、我々夫婦の歴史が始まった二十五年前に連れて行ってくれたのです。
 岐阜の田舎の山の中にこの会社がありました。今では、かなり大きな会社に成長したようですが。実は我々が出逢ったのが、この会社だったのです。
 一九九一年ブラジルから出稼ぎとして、三十二名のブラジル人がこの会社に入社しました。当時は右も左も解らない、ましてや言葉の壁もある異国の地に降り立った若者達は、期待と不安で一杯だったと思います。
 私が入社したのは、翌一九九二年でした。その三十二名のブラジル人は、励まし合い、助け合いながら、一つ一つ問題を解決し、毎日を楽しく頑張っていました。その姿を見て、とても素直で優しい国民性なのだなぁと感じていました。そんなブラジル人に惹かれて、いつしか行動を共にするようになり、ブラジルのタレント「マヌエル」にどこか似ているというので、みんなが私の事を「マネェ」と呼ぶようになりました。
 全員が開けっぴろげで、フェスタ好き。仕事はきつかったけど、毎日が楽しくいつも笑ってました。でも、その頃も日本では外国人との格差があり色々な面でお互いなかなか馴染めなかったこともあったようです。
 そんな時、会社のブラジル人寮の管理人に抜擢され、二十四時間生活を共にするようになりました。休みになると、花見やお祭り、スキーにサイクリング等いつも一緒で、その頃はもうブラジル人化してました(笑)。
 そのうち他の町に派遣されたブラジル人とも仲良くなり、困りごと相談やらアルバイト紹介やら、世話好きマネェの名が売れていきます。
 そんな時、その中の一人の彼女と付き合う事になりました。それから二人で、依頼された問題を解決するために奔走する毎日です。警察へ身元引受けに行ったり、盗難品探し、アルバイト探し、とにかく目的は全員お金を貯める事でしたから、会社から許可をもらい、休日には他の会社でアルバイトの部品作り、遊園地の清掃係り、夜になればパチンコ店の清掃等々、ありとあらゆる方法を使って、行動しました。今考えてもよくやったと思います。
 そしてその頃、日本人からも「マネさん」と呼ばれるようになってました。一九九三年九月二十五日、二人の結婚式にはなんと百八十名の人が出席してくれました。半数以上がブラジル人でした。
 友達が全員で作ってくれた結婚式のエピソードは、数え切れないくらいあり、懐かしい思い出です。会社の社長ご夫婦に仲人を依頼し、当時国際結婚が田舎では珍しかったのか、新聞記事にも載ってしまいました。
 時が流れ四年の月日が経過した頃、日本全体に不況風が流れるようになり、ブラジル人が全員解雇になるという現実が押し寄せてきました。日本人は現状維持、派遣社員は解雇という、どうしようもない状況の中、私たちは皆に声をかける術も見つかりません。嫁が一人だけ残されました。
 賑やかで楽しかったブラジル寮は、中国人とベトナム人に変わってしまい、祭りの後の寂しさが、いつも我々夫婦の心の中にありました。すぐ後に縁あって愛知県の会社にスカウトされ、後押しされたので、迷いなく退職願を出しました。
 この中央物産での四年半は、自分にとっても随分と成長させてもらった年月でした。三十六歳まで作り上げた自分の会社を倒産させ、借金だけが残った私をこの会社に拾って頂き、ましてや人生の伴侶と巡り合い、色々な経験と共にただならぬお世話になった会社です。
 この御恩は、今、地球の反対側で生きている自分としては、自分が出来る事を精一杯やって、お返しするしかないと思っています。どんな流れであの作業服があそこで販売されていたかは解りませんが、我々が縁あって夫婦になり、こうしてブラジルに住んで八年が経ちます。
 今でも当時の友達とブラジルで交流させてもらってます。日本に残った友達とも、今年三月の帰省時に会ってきました。
そしてあの頃の自分と今の自分は、間違いなく変わっていない事を確認できました。一枚の作業衣から瞬時に色々な懐かしい思いをめぐらしたい一時でした。


我が身の周りを

熟連第三副会長 中川浩巳
 いよいよ年の瀬も来るという時に、ピニェイロスを拠点に長い間コロニア内で日本語を指導してこられた大友五子先生が突然、逝去されました。皆様、大変驚かれています。
 なぜなら、去る十月二十八日にピニェイロス文化親睦会の創立五十五周年記念式典を行った際には元気なお姿で参加しておられたからです。
 私たち、お互いに八十歳を超えていると、いつ、どこで、どんなことになるか“分らないから!”です。
 私の場合、過去、三回も大手術を受けたことがあるのですから、まして「いつ」「どこに」危険があるかも知れません。
 その時が来たならば、思い残すことなく、向こう側に行けるように自分の身の回りをちゃんと整理しておかなくては…と思うようになりました。大きな財産があるわけではないけれど…。
 自分の部屋の片隅の段ボールの中に編みかけの毛糸やレース編みの糸など、昔は暇な時に編んだものが出来上がらず、途中で止めて、箱の中にたくさん残っています。
 私も近年、生活環境が変わり、熟年クラブの理事やピニェイロス親睦会の役を務めておりますので、編み物など止めてしまい、書類なども漠然と直しておりますけれども、元気なうちに整理しなければ…と、思うようになりました。昔は糸を触ると、不思議に気持ちが落ち着くときがありました。人様に聞けば、糸なんて触るとかえってネルボーザ(神経質)になるという人が大勢おられます。最近は機械で編んだレース編みなど安くて美しいのが多く出回っており、手編みなど手間暇かかることをしなくなりましたが、私はまだまだ身の回りのものが整理ができていないので、お迎えはまだ先かなと、自分では思っておりますが明日の事は誰にも分りません。
 大友先生が先立たれて、急にそんなことを思う今日この頃です。まぁ、慌てずにボツボツと、と言っている間に今年も残すとこと少なくなってきました。
 どうか皆さま、くれぐれもご自愛のほど。新しい年に向かってがんばって行きましょう。そして楽しいナタール(クリスマス)を!心も新たに良いお年をお迎え下さい。


舞踏会の復活

書道教室講師 若松如空
 孫の女の子の十五歳の誕生日が来た。そして「舞踏会をすることになって、お爺ちゃんもダンスをしなければならない」という長男の話だ。
 「俺はダメだ。ダンスは踊れないよ」と断ったのだが、式順が決まっていて止めるわけにはいかないとの事。母方の爺さんは最近他界して、おじいは私のみだ。
 私の大学時代は戦後五年を過ぎたころで、欧州の映画がどっと輸入された時だ。イタリアの「自転車泥棒」やフランスの「舞踏会の手帳」など評判の良い映画が上映された。後者は少女時代に十五歳の舞踏会をしてもらって、相手として踊ってくれた男の同級生を中年になってから一人一人訪問するという話だ。
 立派な男性も落ちぶれた男も登場するが、理髪店主が自分の子どもを彼女に紹介した時、彼女の名前と同じ名前だった場面にひどく感激した記憶がある。だから、十五歳の誕生日の舞踏会にはあこがれに近い想いを持ってきた。
 ダンスは学生時代、同級生の砂古君(サンパウロでは有名な画家)が教室でいちに、いちにと教えてくれたが、まともなダンスは踊ったことがない。ブラジルに来てからも娘の卒業式や結婚式では左右に体を揺らすだけのワルツだけだ。
 服装は黒の蝶ネクタイ、黒のタキシード、黒の靴?が決まりとかで、長男に洋服を借りに専門店へ連れて行かれた。
 そこでたまたま店員から「ワイシャツはいらないか?」と聞かれ、息子が買ってくれることになった。靴の話になったが、それまで頼んだら厚かましいことになるので、「それは古いのがあるから修繕してみる」と言った。
 家に帰ってから古い靴を取りだして何とかいけそうなので、近くの修繕屋へ持っていった所、「お客さん、いい靴ですね。ドイツ製の皮ですよ。こんなのは今では見つかりませんよ」と上機嫌だったので、私も嬉しくなって修繕をすぐに頼むことになった。
 さて、ダンスの方はどうすればよいのか。映画の舞踏会のように踊るには、よほど訓練しなければならない。熟連の職員にカラオケダンス会で先生はいるのですか?と聞いてみたら「居るわよ」と、秋吉先生を紹介してくれた。やれやれ、これで何とかなるだろうと。十日ほど余裕があるので、一日おきにワルツを教えて頂くことになった。
 二、三度の授業を受けてから、靴を修繕屋から取り寄せて、自分の家で履いてみた。ところがひどく重い。厚い底でがっちりしているが、果たしてこれで踊れるかどうか?
 踊るどころかズルズルに引きづるのがいい所だと解った。近年は軽い運動靴を履いているから、足の筋肉は衰えている。仕方ないから新しい靴を買おう。翌日、早速、最近流行の先のとがった靴を二百八十レアルで買い入れた。
 その後、息子から電話が来て、夕方、式典の練習会があるから来てくれ、との話。黒い靴を履いてね、と念を押された。「新しい靴を買った」と言ったら気を遣うので、「手入れをしてきれいにした靴だ」と言う他はない。息子は納得した様子ではあったが、どうだったのだろうか。
 息子の家のサロンには、家族だけでなく、孫の同級生が十人程いて賑わっていた。「ダンスは社交ダンスのワルツだろうね」と、聞いてみたところ「いや、そうじゃない」という返事に驚いた。
 お手本を見せる若い男が同伴の女性を相手に踊りを見せたが、それは私が考えた踊りとは全然違うものだった。はじめに抱き合ってから踊り出す。ステップはワルツと少し違うようだが、アルゼンチンタンゴで女性を抱き、彼女を仰向けに反らせるような型だとか、バイレに似た足取りなど、びっくりして声が出なかった。モダンダンスなのであろう。そして、十五歳の舞踏会はブラジルで見られなくなったが、最近復活して来て、今はこれが正式になったと証明された。パリの老人が見たら何と言うだろうか。
 仕方なく私は教えられるように習得するしかない。母方のお母さんと共に勉強して、何とか参加することができた。多くの方が相手をしてくれたのは、果たして「同情」だったのではなかろうか。終わりに学校の同級生が揃って近代のダンスを披露したのを見てから、やっぱり小生は八十七歳なんだ、という実感を得ることができたのである。


急がば回れ

 先月の事、熟連の書道教室に通って来られている生徒さんの一人、I・Oさんが手首に包帯をして来ていた。
 「どうしたの、それ?」と聞いたら「ちょっと車にぶつかって、転んだのよ」という返事である。「ちょっとぶつかったって、どういうこと?」と重ねて聞くと、彼女の家の近くに教会があり、そこを曲がる時にぶつかったのだと言う。
 少し先に行けば信号があるのだが、その信号がなかなか変わらない信号で、つい、信号のない所をいつも走って渡っていると言う。その日も角を曲がってサッと渡ろうとしたら前から車が来て、思わず車を両手で押し戻す型になったんだけれど、止められるわけもなく、車の下にスッポリと入ってしまったのだそうだ。運転していた女性もびっくりして飛び出して来て、野次馬も寄って来て「あー、死んだ」「死んだー」と騒ぎ出したので、車の下から「死んでませ~ん」と叫んで、何とか引っ張り出してもらったのだと言う。
 車の女性も「大丈夫か?」「だいじょうぶか」と何度も聞くし、野次馬もワイワイ。そのうち警察も来て大騒ぎ。とにかく「大丈夫だから皆さん散ってくれ」と言ったのだが、車の女性は「医者に行こう」と言うし、警察は「どうしたのか」としつこく聞く。みんな親切なんだろうが「とにかく大丈夫」と下手なポルトガル語で宣言して彼女の車で家まで送ってくれると言うので、それだけお願いした。ところが後ろを見たら、パトカーも付いて来ていて、近所の人たちにも何かあったのかと思われるし、大変だったとの事。
 そして次の日も私が一人住まいだという事を言っていたので、車の彼女が心配してお見舞いに来てくれたみたいだが、OさんはOさんで忙しい人なので、出かけていて、車の彼女は呼んでも出てこないから、事故のせいで、家の中でどうにかなっているのではないかと心配して近所の人に聞いて回ったりして、いっぺんに知れ渡ったのだとか。
 とにかくこれは、信号機のある横断歩道を渡らずに道を横切ったから起きた事故で、心底こりごりしたという。
 皆さんも師走ですし、何かと忙しい毎日を送っていらっしゃるでしょうが、どうかくれぐれもご注意下さい。


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