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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2019年2月号

2019年2月号 (2019/02/15) Graças a Ozizousama お地蔵様のおかげです

JICAシニア・ボランティア 岡田みどり
 私には大切にしているお地蔵さまが三人います。
 お一人は、熟年クラブにいらっしゃる「百年地蔵様」そしてもうお二人は、愛知県岡崎市にある私の実家の「見守り地蔵様」と「身替り地蔵様」です。生まれた時から、いえ、生まれる何百年も前からずっといらっしゃいます。
 信仰している宗教は? と聞かれると、いつも、お地蔵様です。と答えます。
 物心ついたころから、大ケガをしてもおかしくない場面でも、不思議とかすり傷で済んだり、大病を患って余命を宣告された母も、未だ元気に暮らしています。交通量の多い道路に面していますが、お地蔵様の前では不思議と事故が起こらず、ひかれてしまった! と思ったら、車の下から子供が元気に出てきた。という事もありました。
 今回はそのお地蔵様の紹介をしたいと思います。
百年地蔵様
 言わずと知れた熟年クラブの入り口にいらっしゃいます。
 移民百年を記念して加盟クラブの物故先輩各位、移住されたご先祖方のご冥福、ならびに現世の者たちと、その子々孫々へのご加護を賜るために建立されました。
 いつも微笑んで見守り、導いてくれています。
 次に実家にいらっしゃるお地蔵様の紹介です。
見守り地蔵様
 むかしむかし鴨田村の子どもたちが、毎日毎日小さなおじぞうさまで遊んでいました。
 いろいろな所へ運んで行っても、夜中には決まって森の石の上に帰って来る不思議なおじぞうさまは、朝夕、美しい光を放っていました。
 その頃、鴨田村の村人たちが次々に疫病で亡くなり、ある村人の夢に「子どもたちが遊んでいるおじぞうさまを探して供養しなさい」とお告げがありました。
 早速村人は、おじぞうさまを探し、お告げの通りほこらを建ておまつりしました。
 すると、みるみるうちに疫病は治まりました。
 といういわれのある、いつも静かに見守ってくださっている、身長五十センチくらいのお地蔵様です。
 最後は見守り地蔵様の隣に座っていらっしゃるお地蔵様です。
身替り地蔵様
 むかしむかし鴨田村の村人が百々村へ向かい鴨田山をのぼっていました。日が暮れて心細くなった村人は「なむあみだぶつ」と念仏を唱えながら先を急いでいると、刀をふりかざした追いはぎが前から来るではありませんか。
 村人は、びっくりして引き返しましたが、ふもとのおじぞうさまの所で追いつかれてしまいました。追いはぎは刀を振り上げました。村人はもうだめだと目をつぶり「なむおじぞうさま」と唱えながらその場にうずくまりました。
「ピカッ、バリバリバリ」大きな音がして、なにかが光りました。
 あたりが静かになり、村人がおそるおそる目を開けると、折れた刀だけが落ちていました。村人には傷はなくおじぞうさまの左のわき腹に大きな傷がありました。
 という岡崎市の昔話にも取り上げていただいたお地蔵様。身長は座っているのではっきりとはわかりませんが、立ったら二メートル以上はあると思います。
 左の横腹には身替りになり切られた時にできた三十センチくらいの刀傷があります。
 まさかブラジルでお地蔵様に会えるとは思ってもいませんでした。知らない土地、わからない言葉。
 これからどんな二年が待っているのか、とても不安でしたが、熟年クラブに来て、ポルトン(門)を開けて入った時、お地蔵様に迎えていただき、なんとも表現できない、とても安心した穏やかな気持ちになったことを思い出します。


いのししの年の始めに

サンパウロ中央老壮会 寺田雪ゑ
 十二月始め日本からの荷物が税関ではなく郵便局で留まっていると、局から通知が来た。税金が二百レアルで期限が過ぎれば毎日十レアル預り金を取るという。私は息子に「それでは日本へ送り返してもいいよ。」と言ったが、息子は、すこし考えて「老人でサラリー生活、しかも膝が痛い。」と写真入りの身分証明書を添付してメールを送ってくれた。十日ほどして「荷物を家まで届けます。税金も十五レアルでいいです。」と返事がきた。私はとてもうれしかった。すぐ日本へ「荷物の受け取りがとてもややこしくて、あきらめていたけれども、届くことになったよ。」と知らせた。
 かくして、正月用の昆布と海苔は手に届いたが、今までこんなことは一度もなく、家まで税金なしで届いたのは不思議な気がした。しかし、その種明かしは、すぐにわかった。局の責任者の横領があり、職員の中には、給料や十三か月ボーナスが、お預けになっているという、かわいそうな人たちがいたのだ。ああ、お前もかと言いたくなった。横領をして犠牲者(国民)を苦しめて平気でいるなんて人間として許せない。つつましく暮らす習慣は日本の戦争でいやというほど身に染みている一世移民の真面目な精神を持つものにしてみれば、遺憾なること大である。弁護士に知恵をつけられて嘘ばかり言っている大臣や大統領など、人間というには、あまりにもお粗末だ。大臣様やお偉方の、そのエゴの限りないこと、国民を奴隷扱いするのをやめてほしい。どうして人間はこんなにも鬼になれるのだろうか。未来に生まれてくる子や孫の事は考えないで、その場限りの楽しみ、欲得に走るのだから人間ほど恐ろしいものはない。
 その不幸な心を救うのは宗教しかない。と識者は言うし、社会心理学者著の本の中でもいろいろ論議されている。コンピューターや面白いゲームで遊ぶばかりではなく、静かに物事を反省する時間はできないのだろうか?
 この度の荷物のことで、いろいろと考えることがあったが、私だけでなく商品を扱っている人も多額の税金が掛けられたと想像する。しかし税金を支払えば、それだけ消費者は高い金額を支払わねばならぬことになるのだ。正しい税金の使い方のできる人が政治をしてくれると、病院でもほかの事でもスムーズにいくと思うが、世の中それほど単純ではないらしい。ボウソナロ新政権で少しはましな社会にならないかと期待しているもののひとりである。


『私は今』

熟連第三副会長 中川浩巳
 私は以前、息子とブラジル人の使用人を使って「食事処旭」という小さなレストランテを経営していました。その頃、三度も命にかかわるような大病をしました。
 まず最初は、車を運転していたところ、急にハンドルを切りそこない、車をぶつけてしまいました。ハンドルで胸を打ち、痛みを感じ病院にレントゲンを撮りに行きました。ところが医者は慌てた様子で、「打ったところは何ともありませんが、他に大事な事が見つかりました。すぐに入院して、手術をします。」と一方的に言われました。その上、「あなたは、ビジクラ(胆のう)に石がいっぱい入っているので、早く手術をしないと死んでしまいますよ」と言われ、「痛みもないのに…どうして?」と思って聞くと、「ビジクラに一杯に石が入っていて、石が動いていないから痛まないのですよ。でも、急いで手術をしないと…」と医師が慌てているので、私もそれは大変だと思い、すぐに手術を行いました。手術の前に「どんな石が入っているのか見たいので、捨てないでください。」と話しておきました。
 手術は簡単に終わました。取り出した石は私の枕元に置いありました。真っ黒い小指の爪の先程の石が十六個、ビジクラの皮はパンパンで、破裂寸前だったわけです。自動車をぶつけてレントゲンを撮りに行ったのに、このような大変なことが分かり、息子は心配して「車の運転はやめた方がいいよ」と言い、私も車をぶつけたのは神様の知らせだったと思い、それ以来、運転は止めました。
 それから三、四年過ぎた頃、新聞広告に援協で健康診断を格安で行う事が書かれており、早速、申し込みました。しかし、すでに定員に達していて「次の機会になります」と断られました。しかし電話番号をお知らせください。と言われ、番号を渡しておきました。それから三か月ぐらい過ぎた頃、「今日の予約をした人が来られなくなりました。よろしかったら、来てください。」と知らせを受け、健康診断を受けました。
 一週間後に結果を取りに行きました。担当の医者は私の顔を見ると「あなた、中川浩巳さんですか?」と尋られ、「はい、中川浩巳です。」と言うと、「胃に六センチか七センチの大きなポリープがあります。今すぐに手術してください。病院は援協で手配してあげます。」と言われましたが、少し待っていただき、胆のうを取つて下さった医師に相談してみたら、この時も、「時間の問題ですよ。」と言われ、同じ医師に胃のポリープを切除してもらいました。
 医者の話によると「ポリープは大変大きなもので、胃の半分を取りましたが、幸いにも、まだ胃の壁には根を張っておらず、早期発見で良かったですね」という事でした。
 最初は車をぶつけて、破裂寸前だった胆のう結石がわかり命拾いをし、二度目も欠員があったため、受けられた健康診断で胃のポリープが見つかりました。欠員がなかったら、胃の調子が悪くなるまで知らずにいたでしょう。そして、命を落としていたかもしれない。と思うだけで、鳥肌が立ちました。二度も紙一重のところで、命拾いをしたのです。
 その後の胃の回復には時間がかかりました。いつまでも苦い黄色の唾が出てきて、食事も思うようにできずに、何年も過ぎました。私は二度も命拾いをしたのだから、もう、何もないだろう。と思い、ボツボツと仕事もできるようになっていた矢先のことです。
 三度目、今度は体に力が入らなくなくなり、色々と検査をした結果、心臓弁膜症でした。「この病気は心臓の中の弁が弱くなり、血液を送り出す力がないので、心臓を取り出し、その半分を切り開き、弁を取り換える手術が必要です。」と医師に言われ、私は怖くなりました。しかし、覚悟を決めて、手術を受けました。九時間半にもおよぶ大手術でした。
 「私は今」元気でいます。熱年クラブ連合会の前会長、五十嵐さんの時は援護理事、文化理事などを務め、現在は上野会長のもと、第三副会長を務めています。先般、私の地元ピニェィロス文化親睦会創立五十五周年記念式典と会員物故者の法要を行いました。
 西本顯寺の総長、総領事はじめ福祉協会、援護協会、熟年クラブ、聖西芸能連合会の役員の方々をお招きし、無事に式典を終え、安堵しています。
 三度も大変な手術をして、生きながらえているので、『私は今』できる限り自分を大切にして、世のため人のために頑張って生きていこうと思っています。


生きる甲斐がない

サンパウロ中央老壮会 安本担
 ある九十歳近い日系団体のS会長は、今は生きていく甲斐がなくなったと誰かにこぼしたそうだ。それは彼と同年輩の連中が次々と他界したので、いまや心から打ち解けて一緒に歓談したり飲み明かしたりする相手がいなくなったためだという。
 私も最近それと似たような経験をしたので、彼の気持ちが良く分かるような気がする。昨年十一月にコロニア・ピニャールで行われた同年最後のマレットゴルフ大会に参加したところ、いつも会う仲間の姿が見えないので、同じクラブの人に聞いたところ、彼は先週亡くなったと言われてびっくりした。数年前に手術したすい臓ガンが再発したためらしい。彼とは同じ職場で一年ほど一緒に仕事をしただけでなく、本籍が同じ山梨県で、生まれたのも同じ一九三八年六月だったので、親しみを感じていた。彼は力行会でブラジルに移住し、その百周年記念誌に簡単な自分史を書いた。それについて話をしたかったので残念だった。
 また四十年前に日本から来ていた我々の元チーフが久し振りに訪伯し、「昔の職員と会いたい」と言われた。ところが私も十五年前に定年退職し、古い連中とは連絡が途絶えてしまっていたので途方にくれた。幸いに仲間の一人が古い職員リストを保存していたので、それに基づいて連絡を取ろうとしたところ、二十人程度の仲間のうち既に半分は亡くなり、残りの十人のうち半分は電話番号が変わったりして消息が分からず、ようやく集ったのは五、六人だけだった。
 これでますますS会長の言葉を実感として体験できた。
 我々の年齢になれば、つい昨日までは元気でいた友人や知人の卦報に接するのは珍しくない。そのニュースに驚いたり、次はいよいよ自分の番かと覚悟を決めたりするのに、いつの間にか自分だけはいつまでも死なないという気分になるのが不思議である。これ以上長生きしたくないと思ったり、今後の世界がどのように変わるかを知りたくて、出来るだけ生き延びたいという、矛盾した気持ちになる。それでも病気や認知症になったり、人に迷惑をかけてまで生き永らえようという気分にはならない。
 死については多くの賢人が語っており、今更自分の考えを述べるつもりはない。心霊術者のシーコ・シャヴィエルは、死とは「単に新しい住居に移ることだ」と述べたのが印象的だった。これは仏教でいう往生と同じで、死ぬことは別の世界に生まれ変わることだと思えば悩む必要はないと考える。


「押し照るや難波の浦に焼く塩のからくも我れは老いにけるかな」

サンパウロ中央老壮会 松村滋樹
 老ク連の会館に初めて顔を出したのは二年前だった。鹿児島県庁から鹿児島県人会に送ってきたDVD「六月燈の三姉妹」を名画友の会の皆さんにもご観賞頂ければ…と、当時の熟年クラブ会長の五十嵐氏にお会いしてお渡しするつもりだった。
 生憎、五十嵐会長は不在で、事務局長の畠中さんとお会いした。会館は間口七メートル位のフツーの家だが、リベルダーデ区が始まった十九世紀中頃の歴史ある風情が残り、二階に上がる階段の黒光りする手摺りに貫禄がある。本やビデオ、うどん、ラーメン、みそ、瀬戸物などの販売品を並べた棚の合間の細い廊下の奥に大きなサロンがあった。大きな集会や講演会が楽に出来そうな広さ。通りに面した間口は狭いが奥行きが長く、フツーの家にしては部屋の数も多い。階下にはガレージや洗濯場や倉庫などがありそうだ。
 サンパウロ市のど真ん中で、最寄りのサンジョアキン駅から歩いて五分の便利な地にあり、ブラジル日系熟年クラブ連合会として立派な会館だ。会館の購入に奔走された先人の努力に感謝。
 局長との話が済み、事務局の脇でコーヒーを飲んでいると知人にあった。歳は私より若いが、ここの会員らしく皆と親しく談笑している。私に気付いた彼は近づいて来て、「あんたも歳だろう、この会に入れ」と誘ってくれた。ちょっと戸惑った私は黙って笑顔を返し、家路に戻るメトロの中で「私も歳」かと何回も問いかけ、おかげで、今日の用事の「六月燈の三姉妹」のことはすっかり忘れてしまっていた。
 とっくに七十歳を超えていたが、私は血圧が高い位で元気である。掛かりつけの心臓科のお医者さんから、「水を飲みなさい」、「毎日歩きなさい」、「適度な運動をしなさい」と勧められている。文協では「イキイキ体操」を習い、鹿児島県人会の有志と共に花柳流の踊りの先生から「かごしま小原節」と「かごしまハンヤ節」の踊りを指導して貰った。県人会の有志二十人位が九州ブロック運動会で踊ったところ、飛び入りが殺到して二重、三重の輪が出来た。「かごしま小原節」の軽快な音楽に思わず誘われてしまうのだ。長崎県大村の「のんのこ踊り」も好きな踊りなので、川添先生の指導を受け健康表現体操の皆さんと稽古した。両腕をぐるぐる回したり、足を交互に蹴るなど難しい踊り方があって苦労した。
思えば、この頃が私の健康の絶頂期であったのだ。
昨年九月初めに足指関節のピリピリ痛から始まった股間節や肩甲骨、手の関節などの非常に耐えがたい痛みを伴う「リウマチ性多発筋痛症』という難しい名前の病気に罹つた。死ぬほど痛く お便所に行くのも苦痛で、シャワーに入るのも大変、寝ていても痛い。口周りだけは普通で、食べるのだけは問題なかったのは有り難かった。「天から与えられる恵み」という意味の来馬(くるま)先生という女医さんが処方したコルチコイドの錠剤を飲みだして二十日目位から痛みが和らぎだした。これも有り難いことだった。痛くても、必ず毎日朝タ四十分は歩きなさいとお医者さんから命令され、即、実行。幸い、家の前に大きな広場があり、四周すれば四十分になった。右回りに歩くと、少し登り坂になっていて、踏ん張って歩かないときつい。歯を食いしばって「六根清浄」「どっこいしょ」と歩く。
守れ権現
夜明けよ霧よ
山は命のみそぎ場所
六根清浄
お山は晴天

風よ吹け吹け 
笠吹き飛ばせ
笠の紅緒は荒結び
六根清浄 
お山は晴天

雨よ降れ降れ 
ざんざとかかれ
肩の着ござは
伊達じゃない
六根清浄
お山は晴天

さっさ火を炊け
ゴロリとままよ
酒の肴は山鯨
六根清浄 
お山は晴天
 医者の命令通りに養生したので、体も大分回復した。更に、気晴らしにもっと何かやりなさいと勧められていたので、熟年クラブの教室の中から、練功とコーラスと習字を選んだ。練功は体力維持に、コーラスは呼吸を鍛える為、習字は心を鎮める為との思いでやっている。寺田先生も足立先生も若松先生も上手に教えられるので、我ながら上達して来ていると自負している。もちろん、同じ教室の生徒さんたちからも注意されたり、手ほどきして貰ったり、お互い切磋琢磨している。昔はおじいさんやおばあさん達が暇つぶしに通っている位しか思っていなかったから、はつらつと習い事に集中されている(心の若い)高齢者の皆さんには感動してしまう。そして、私の今の高齢者に対する印象の変わりようは、自分でもおかしくなるほどだ。
 もう一つは、二〇一六年六月に来伯されて、熟年クラブと援護協会で講演された「高齢者福祉の第一人者」小川全夫(たけお)先生の話に啓蒙されたのかもしれない。小川先生は「今、多くの人が健康で長生きできるようになった時、人々は生きがいを持てるのです」と「アクチブ・エイジング」(イキイキで生涯現役)を日本やアジア各国で広めている人です。
 義母の尾崎都貴子さんは二〇一九年に九八歳になるが、悠々と生きている。里の田辺家は長生きの家系で、「ねえちゃん」と呼ばれた叔母の山岡樹代子さんは九十八歳で亡くなった。
 妹の田辺艶子さんを加えた三姉妹は若いころ、短歌、俳句、川柳に詩、それにカラオケに情熱を注いでいた。
 今は姉も妹もおらず、一人ぼっち。歩くのが不自由で少しボケがあるが、昨年までは三度の食事は自分で作っていた。今では包丁が危ないとか、ガスの火をつけっぱなしにするとか、周りが気を遣ってしまって料理をさせないので、食事作りは妻の光江さんの役目となっている。
 私は結局、「あんたも歳だろう」と熟年クラブへ入会を勧めて呉れた知人のいう通りになって、今では感謝!教室のある日以外に、はちみつや甘酒なども買いに熟年クラブに寄る時もある。只、前立腺がん摘出手術やヘルペスの病で一時休んだが、又教室でコツコツとやっています。
霜に打たれた 柿の味
辛苦に耐えた 人の味


コロッケ

サンパウロ鶴亀会 玉井須美子
 この年になると、昔のちょっとした出来事を鮮明に思い出すことがあります。
 この話もその一つ。
 八歳でブラジルに来て、三年目の頃のことです。私たちはパラナ州のコルネリオ・プロコピオという町の後宮(あとみや)ファゼンダで働いていました。
 そこには日本人家族が何軒も入植していて、日本語学校もありました。その中に私ととても仲の良いお友だちのみっちゃんがいました。みっちゃんのお母さんはパトロンの家で女中をしており、ある時、みっちゃんと私はお使いを頼まれ、その邸宅に行く事になりました。
 みっちゃんのお母さんは真っ白なエプロンを付けて出てきました。いつも土まみれで働いている近所の人に比べるととてもきれいに見えました。そして「ちょっと待っていて」と奥へ行くと二人に紙に包んだ何かをくれました。そこにはコロッケが三つずつ入っていました。その頃、コロッケなどどこの家でも作らず、いつも鰯やバカリャウの塩漬けを次の収入まで大切に食べていた私たちにはそれは大ご馳走です。
 早速、家に持って帰って兄弟姉妹たちと分けて食べました。その美味しかった事。あの時の兄妹たちの顔を、八十年を過ぎた今でも思い出します。 その後、仲良しだったみっちゃんとも一年後にはお別れしました。皆、もっと収入が良い仕事、家族に適した仕事を求めて次々と働く場所を変えていた時代です。時々ふっと、あのみっちゃんの人生はその後どんなだったかなぁと思い出す今日この頃です。
 私たちは日本にいた頃は、割合と良い生活をしていたので、コロッケなどよく食べていたのですが、ブラジルに来てからはそうはいきません。母が色々工夫してくれますが、天と地ほどの差。そんな時のコロッケの一口。今でもどんなご馳走よりコロッケが大好き。時々作っては、熟連に持って行き、皆にご馳走しています。


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