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     自分史  (最終更新日 : 2006/10/09)
2005年4月号

2005年4月号 (2005/04/25) 私の青春期「戦後復興の息吹きと共に」

サンパウロ玉芙蓉会 軽部孝子
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 「潮来出島の直菰(まこも)の中にあやめ咲くとはしおらしや」
 この唄は大東亜戦争が終り、食糧事情の悪い時代、お米の買出しに行った霞ヶ浦あたりで聞いた民謡である。
 横須賀線を東京駅十番ホームの終点で降り、省線の西千葉行きの汽車に乗り換え成田を過ぎて三十分位で小群という小さい駅に着く。そこで今度は渡し舟に乗り、運河を渡ってやっと目的地に着く。小粒の立派な水田米が取れる所で景色も良い。一面浅い水郷の中に農家があちこちに点在している。 潮来には直菰やいろいろな植物が茂り何とも言えず風流である。買出しに行くときは家から絹織物の長着を土産に持って行った。母と姉と私の三人でお米を持てるだけ買ってくる。私は少女期で小ぶりなリュックサックを担いで小さいなりにいっぱいのお米を入れてきた。戦後二、三年たった時である。復員軍人たちや一家の家長等が沢山買出しに行っていた。
 ある時、利根川の下流を通った時、富士山が川の上に見えたのでびっくりした。遠くの山々が見え、その美しい姿に感激した。
 午後、帰る時分になると、東京上野方面に行く汽車はあちこちの駅から買出し人が乗ってきてどの車両も米の入った袋や背嚢で山積みであった。我が家は父はすでに亡く、母と五人の子供で生活していた。国の配給米では足りないので、闇米を買い一ヶ月に一回ぐらいは米の買出しに出かけた。買出し部隊があちこちに出来た時代だ。ある時、買出しの一斉取締りにあって、東京駅の改札口でほとんどの人が米を没収された。袋だけ返されて散々な目に会った。母と姉もせっかくの米を全部取られ、小さかった私のリュックだけが通り抜け、腹が立つやら悔やむやら。そのリュックの米で私たち家族六人は何日かを過ごした。
 また別の日は、東京駅改札での一斉取り締まりの情報が事前に汽車の中に洩れ多くの人が袋だけでも取られたら損だと言って、汽車の中に米を全部捨てて帰った。汽車の中が米だらけになって、高い金を出して買った米なのにもったいないことだった。
「買出しを商売にしている人がいるから」と政府は言っていたが、餓死する人も出ていた。当時、上野駅の地下道には戦災孤児があふれ、日本国中、食料物資が不足していた時代である。勉強やスポーツどころではなかった。
 やがて私の学校は旧制高等女学校が新制高等学校に変わった。日本もだいぶ復興してきており進駐軍も徐々に引き上げていった。生活も豊かになり芸能も盛んになってきた。
 その頃、花柳寿栄輝先生が都心より私たちの住む都下の町田市に来られ日舞を教え始められ第一の弟子となった。花柳流二代目寿輔家元の弟子花柳寿栄輝先生であった。家元直系の踊りや日舞の発表会にも出演させていただき古典や新曲も沢山勉強修業させて頂いた。中でも一番の想い出は歌舞伎踊りの源平合戦の「落人」平の徳子(後の建礼門院徳子様)を踊ったことで、劇場は東京新宿の厚生年金会館であった。「人生又楽し」である。
 勤めも大学事務局に入り、その玉川大学文学部教育学科を卒業させて頂いた。人のために尽くしたいと仕事をしていた。ある年、教育学科学生の卒業修学旅行に引率者として、教授、助教授、そして私たち事務局関係者が付き添って行った。学生は男女大勢だった。旅行は開通したばかりの新幹線で東京を出発し、山口県の秋吉台をはじめ萩の吉田松陰史跡、九州に入り、大分、宮崎、鹿児島、小原国芳玉川学園の見学、長崎、佐賀、福岡と名所旧跡を回り東京都下町田市の玉川大学に戻った。楽しい旅行であった。結局、私の青春は戦後の復興と共にあったと言ってもいいのである。


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