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(最終更新日 : 2006/10/09)
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2005年5月号
2005年5月号 (2005/05/10)
我が生い立ちの記 ①
プラッサ・ダ・アルボレ老壮会 遠藤菊子
この度、日本のJICA(ジャイカ)より、ブラジル日系老人クラブ連合会に派遣された安達正子先生のおすすめにより、自分史を書きました。私はかねてより、三カ国に生活した自分の人生をふりかえって、子供達にまだ話していないこともあるので、何か書き残しておきたいと思っておりました。安達先生のご協力を頂いて書いてみました。老齢のため、記憶が薄れてしまい、書き忘れや間違いもあることと思いますが、一応まとめてみました。ご判読よろしくお願いいたします。
幼年時代
私は一九一八年十月二十二日、当時満州の奉天市(瀋陽)で生まれ、父は領事館警察に勤めていたので、その官舎で生まれたそうだ。十人兄姉の五人目で、長女千恵子は私が生まれた後、間もなく九歳で脳膜炎で亡くなっている。学校で優等生で、着物に袴姿で賞状を持った写真が残っている。次男、三男は夭折して四人目は記憶にない。
私は両親にとって無事に生きて欲しいとの願いで大変大事に育てられた。その私も発育不良の虚弱児で、学校で一番小さく病気ばかりしていた。小学校の時ジフテリアに罹り、弟と一緒に病院の伝染病棟に入院し、その後十二歳のとき腸チフスで長い間入院していた。父は私に健康になるために牛乳、カルシューム、肝油等を飲ませてくれた。また夏休みには小学校入学前よりプールに連れて行った。それでも中耳炎に罹り通院していた。冬になると小学校の校庭でスケートで滑っていた。
父母の思い出
父は宮城県の北上川の近くの旧家に次男として生まれ、明治時代教員養成所に入り、十七歳で卒業後、県内の小学校に勤務していたが、日露戦争勃発の際、耳が悪くて希望の軍隊に入れず残念に思っていた所、戦争終了後、満州へ警察官の応募があり、明治三十九年に警察官として渡満し、その後母を写真見合いで呼び寄せたそうである。
母も北上川の近くの農家に生まれている。母の長兄は東京に行って働きながら苦学をして明治大学を卒業して、母もその兄を頼って東京に生き、裁縫等をして働いていた。
この叔父は立志伝の人で、卒業後高等文官の試験にも合格して裁判官となって、当時日本国内で一番若いと言われ、県知事に母も一緒に招待され盛大な祝宴を頂いたそうである。叔父の家には法学士を志す書生や女中も十名位居たそうで、叔父は「人間、教育が一番大切」と言い、母の兄妹七名に学費を出したそうだ。県会議員に二回当選している。
母は仙台の当時、職業技芸学校(現三島学園)に入学して、無事卒業して裁縫教師の免状を取り、まもなく渡満して父と結婚した。
父は私の小学校時代警察官を退職して、ロシア人と共営でバス会社を始めていた。
学生時代
私の小学校六年の時、修学旅行で朝鮮の平壌、京壌、仁川へ一週間の旅行に行った時が楽しい思い出となった。私の身体も腸チフス以来、健康となり、楽天家の私はあまり勉強せず、試験の前夜、一夜漬けで済ませていた。それでも無事に小学校を卒業して、女学校の入学試験のときは、のんびり屋の私も勉強をして、無事浪速高女に入学することが出来た。
この学校は大変スポーツの盛んな学校で、私もいろいろスポーツをやったが、運動神経が鈍いためかあまり上達しなかったが、水泳とバレーボールは最後まで続けた。クラスの中では水泳で満州新記録を出す人、スケートではオリンピック選手も出ていた。
学生時代一番楽しかったのは、日本に修学旅行で行ったことでした。汽車で朝鮮を通過して釜山より船に乗り、玄界灘を無事すぎ、日本についてより東京、日光、京都、奈良、日本三景の宮島、九州の別府温泉等回った二十一日間の旅でした。
数年前訪日の折、三十数年ぶりで東京浅草でクラス会に出席して、十七名集まり、懐かしくて言葉も出ない位でした。その夜は親友三名でホテルに泊まり、尽きない思い出話にふけった。
当時父は次々と大きな事業を始めて、私が結婚する頃は、建築材料の工場を持ち三百余名余りの中国人を使っていた。私は無事浪速高女を卒業して、母の勧めで、裁縫と活け花の稽古に通っていた。
弟妹たちのこと
私の二つ下の妹、茂子は体格も良くて病気もせず、学校では運動選手で日本舞踊を習っていたが、女学校二年の時に病気になり、直りにくいので、九州の宮崎の弁護士の叔父のところへ母と行き、静養することになった。そのうち病気もよくなり満州に帰り、父の事務所を手伝っていたが、私の嫁いだ翌年、風邪より肺炎となり二十四歳で亡くなった。
次の弟は当時の商業学校を卒業して、山口県高等商業(現商科大学)に自費留学して三年後卒業して帰り、父の会社に入社していた。
その下の妹は、女学校入学して卒業の年に敗戦となった。終戦後はこの妹と私と二人きりになった。一番末の美代子は、母が訪日した時、長崎の叔父のところで疫痢となり、一晩で帰らぬ人となった。
父は大変世話好きの人で、宮城県人会長始め十の公職を持って、就職の世話、結婚の仲人もして、お酒も好きで毎晩のように宴会に出て、家には来客が多く母はその接待に大変のようでした。
母は若い時は元気だったそうですが、大病を患いその後無理なことは出来ず、家事は使用人にさせていた。毎週美容院に人力車で行き、日本髪を結って静かにしていた。
私の結婚
女学校卒業後一年目に十九歳で、当時景気の良かった質屋業の遠藤家の息子と見合をしてすぐ結婚が決まり、一ヵ月後に夫は満鉄社員で田舎町の兆南に家庭生活を持った。夫は子どものいない遠藤家の養子で、自分はそこへ嫁いで行った。
一年後、初めての出産の時、夫に軍隊より教育召集で吉林に行くことになったので、私は奉天の実家に行き、予定日が過ぎたので、病院に入院して無事長女を出産した。一ヶ月後元気で自分の家に戻った。
その後夫がチチハル市に転勤になり長男はそこで生まれた。そのうち養父母が近くに住みたいと言われたので、奉天市に戻り次女民子はそこで生まれた。夫の仕事は出張が多く、全満州と中国のほうにも出かけ、中国語は一等通訳として待遇されていた。
夫は旅行好きで、会社より二等パスを受けて、長女は養母がいつも預かっていたので、私達は長男を連れて休みのときは国内を小旅行していた。新京(長春)に大東亜博覧会を見学に行き、初めてテレビを見て帰ってより、長男が猩紅熱になり、私は伝染病病棟に四十日間看病し付き添っていた。長男は一命を取り留めたが、後遺症が残ったので後で後悔した。
一九四四年十二月八日大東亜戦争が始まったが、一歳半の長男は次々と病気をして、いつも病院通いをしていた。
終戦の思い出
昭和二十年五月に弟が召集され、その後七月に夫に召集令状がきた。
私は一ヵ月後の八月の出産を控えて実家の母と妹に来てもらい、長女六歳、長男四 歳、次女は二歳で四人目の子供を持っていました。
夫は招集されるまで、会社から帰ると養父母の郊外の農場の管理をして家に帰り、夕食後夜学に行き、十二時ごろ帰ってきた。私は三人の子供の世話と出産を控えていたので、あわただしく夫を送り出した。(つづく)
◎ ◎ ◎
本誌三月号で既報の遠藤菊子さんは三月二十六日に東京町田市の田中短期大学で行なわれました自分史大賞授賞式に出席し、国際賞を授賞しました。
遠藤さんは「壇上での三分間のスピーチは、緊張してしまって大部時間をオーバーしてしまいました。すばらしい式典で、その上りっぱな賞状とメダルまで頂いてこの年になって思いもかけない喜びです」と嬉しそうに語っておりました。
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