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     自分史  (最終更新日 : 2006/10/09)
2005年6月号

2005年6月号 (2005/06/22) 我が生い立ちの記  ②

プラッサ・ダ・アルボレ老壮会 遠藤菊子
 どうしてよいのか分からないので、実家の父に相談することにして実家に伺った。父は医者に相談することになり、近くの医院に行ったが、もう医者も居らず、家に戻って様子を見ることにした。八月十二日不安の中に寝についたが、夜中の十二時ころ、腰痛を覚えたので、かかりつけの産婆さんの所に知らせて、すぐに来られて一時間後に無事に女児が生まれた。
 そして十五日に終戦を迎え、ラジオで陛下の重大放送を聞いたが、余り良く聞き取れなかったが、戦争が終わったことは分かった。一同これからどうなるかとぼんやりしていたが、ますます不安になり、何時ソ連兵が襲ってくるかもしれないと戸締りを厳重にした。
 私はまだ産後の床に休んでいたが、産後四日目の十六日に隣家にソ連兵が侵入したので、女子供は避難することになり、少し離れた家に避難した。私は赤ん坊を抱いて立ち上がり、万一の場合はいつでも赤子と命をともにする覚悟をして、三人の子供もそれぞれ連れられて避難した。実家にはソ連兵と中国人を含む強盗団で、部屋中物色し、私のリュックの中の銀行から最後に下げた金子を全部持っていかれた。
 その後、父が私たちの社宅の様子を見に行って、そちらのほうが安全のようだと言われ、私達と母と妹と戻ることになった。社宅に戻ると隣近所の人たちは朝鮮に避難して誰も住んでいなかった。数日後、階下の井上さんが朝鮮より戻ってきて、朝鮮では鮮人達に目ぼしい物は皆盗まれて命からがら帰ってこられ、私の赤ん坊と同じ頃生まれた赤子は、途中で亡くなり骨箱に入って戻ってきた。
 私達はまだまだ危険なので、井上さんとお互いに助け合い、玄関は全部釘付けにして、二階に上る階段は枕木と鉄条網で防ぎ、誰も入れぬように、井上さんの息子さんが手伝ってくれて、二階に上る時は井上さんの押入れの天井を開けて足台をつけて上り下りするようにした。
 女の人は外出するのは危険なので、買い物は男の人にお願いした。その中、社宅の四人家族全員戻ってきた。そして階下の家も危険なので、夜は皆二階の私の家に休むことにして、夜中、朝、夜明け前におにぎりを作り、井上さん一家十名、私の家六名で共同で私も張り切ってやったが、私は産後の無理のためか両眼が真っ赤に充血して身体も疲労したので、十日間後別に炊事をすることにして、階下の井上さんの家で百メートル離れたところから水を汲んで、風呂に入ったときの気持ちは一生忘れられない。

ソ連兵の暴虐四十日

 毎晩どこかの家が襲われ、若い女の人が連れ去られた話を聞くたび、眠れない日が続いて、明け方少し眠り目を覚ますと「ああ、今日も無事生きられた」と思う日が四十日続いた。私はこの世の地獄とはこのようなことかと思っていた。若い女性は頭髪を切り、坊主にして布をかぶり、男性の服装をしていた。私は子供を抱いているからと髪は短く切っただけだった。
 そのうち郊外の農場に住んでいた養父と義姉も私共のところへ来て、お互いに無事を喜び合った。養母は終戦の年三月に所用のため訪日したが、戦況激しくなり戻れなかった。
 終戦後、私達の住む文化都市はB29の爆撃に遇い、水道、電気、ガスは使用できず、水は百メートルくらい離れたところへ汲みに行って、赤子のいる私はおむつの洗濯や炊事で不自由な生活をした。その後もソ連人に入られ腕時計等持ち去られた。私はミシン、ラジオその他の貴重品は床下に入れたので無事だった。その中、義姉は知人の世話で再婚した。

生きていくために

 私は家族六人の生活のため隣家の人に頼んでタバコを仕入れて売ることにして、背中に赤子を背負い路上に売りに行ったが、半日で一個しか売れずあきらめて家に戻ったが、その後近所の人が買いに来て全部売れた。それから蝋燭を仕入れたが、これも毎日の停電のため、近所の人が買いに来てくれた。
 そのうち満州の日本人は全部日本に引揚げることになり、家の中の不要品を売ることになり、私は嫁いできた時持ってきた着物が行李一杯にあったので、それを路上で売ることにして、路上で茣蓙の上に並べていると、ソ連兵がどんどん買ってくれた。それからは生活に困らなくなった。そのうちに難民の女の人が、自分に売らせて欲しいと言われその人にお願いすることにした。
 近くの小学校に収容された難民達は、北方の開拓団より逃れてきた人たちで、気の毒な人たちで、病のため大勢の死亡者もいると言われた。私達はそれまで安い高粱米を食べていたが白米を食べるようになり、子供達にも充分食べさせるようになったが、長男は風邪よりなかなか良くならず診療所の若い先生に診てもらってもはっきりせず、食欲もなくて困った。
 その後、中華民国の統治下となり大分落ち着いてきて安心した。その後、戦後初めての正月を迎え、実家の父がお餅を届けてくれてお正月を迎えることが出来た。その後二月に実家の母は風邪で休んでいたが、心臓麻痺であえなくこの世を去った。五十九歳であった。
 私達は極寒の満州で、寒さと飢えを凌ぎ暖かい春の訪れを待っていた。生活困窮時代に養父は「幼い子供と老人だけでどうすることも出来ないから、一家心中するほかない」と言われたこともあった。四月になって今年から学校が始まり、長女が一年生に入学した。買っておいたランドセルを背負い学校に送っていくと、教室には黒板一枚だけで、机も腰掛けもなく、生徒は机代わりの箱と茣蓙をそれぞれ持っていった。
 そして三月より引揚げが開始され、一番先は難民で、次は私たち応召家族、次に一般民となった。
 長女が入学して一ヵ月後の五月に私達は引揚げることになった。私は二十七歳、長女七歳、長男五歳、次女三歳であった。長女長男にリュックを背負わせ、私は大きなリュックを背に、前に九ヶ月の照子を帯で結んで抱いた。手荷物だけなので何も持てなかった。家から北奉天まで歩いて、そこから貨物列車にのりコロ島まで行った。私は生まれて二十六年住み慣れたところを離れるので、先のことが心配だったが、運命を天に任せる外はないと、この上は四人の子供を無事に日本に連れて行くことを心に誓った。乗船を待っている間は、露天で売っているおにぎりやお菜を買って食べ、いよいよ乗船することになった。
 船は貨物船で、食事は薄いおかゆとお汁だけで、お腹がすいて困った。毎日暑い日が続いたので、子供にあせもが出来ないようにと注意して、赤子は小さいので、朝晩洗面所で水を浴びさせた。航海中病人が出て赤子十名、大人二名死亡してそのたびに水葬された。
 やっと日本の佐世保港に着いたが、伝染病が発生して降ろされず、一週間くらい停船してやっと下船して、DDTを全身にふりかけられた。
 博多の収容所で一泊し、次の日汽車で上野駅まで行き、東北本線に乗り換え福島県飯野駅に着いた。ここより一里の路を養父の案内で養母のいる家に歩いていった。養母は二年ぶりの再会で喜んで迎えてくれた。養母は私の胸に抱いた赤子、照子を見て余りに小さく、泣く元気もないのに驚いて、次の日保健所に連れて行き、配給のミルクを頂いて飲ませたので、少しづつ元気になった。(つづく)


私の青春期「失明をバネにして」

ビラ・ソニア老壮クラブ 朝枝定
 私は山口県岩国市に一九二六年二月に産声をあげました。そして、一九三六年十月十六日に「ぶえのすあいれす丸」にて一家四人、神戸を後にブラジルへ移民として船出しました。
 同年十一月三十日にサントス港に無事到着。ノロエステ線リンス市のウニオン植民地に入植し、二か年の契約でコーヒー園のコロノとして働きました。その後、サンパウロ郊外のタンボレ植民地に移り、野菜作りを六年間致しました。
 十七歳になった時、コチア産組の孵化(ふか)場で雌雄鑑別を習ふ事になりました。孵化場で一年間働き、鑑別も少しはできるようになった時、休暇で一か月程、家に帰りました。家の手伝いをしながら、一日の仕事を終えて砲丸投げの練習をしていました。そうしたところ、運悪く砲丸が岩に落ち、そのかけらが私の右眼に命中しました。あっという間に視野が真赤になったのには驚きました。
 一晩中、痛みが続き、早く朝になるのを待つばかり、一番のオニブスで組合の病院に行き、診察の結果は至急、手術をしなければならないとして、其の日の夕方に手術を致しました。
 一週間後、医者に「眼が見えるようになるか」と尋ねたら、「もう少し我慢したら見えるようになるから」と勇気づけられました。しかし、いくら経っても眼は見えるようにならず、とうとう片眼は永久に失明となりました。
 十八歳でありました。「あれもやりたい、これもやりたい」と希望に燃えていたのがすべて水の泡。ずいぶんと落ち込みました。
 私はこの眼では鑑別は無理なので、当時の内海主任に「辞めます」と申しましたら、主任は「せっかく覚えた鑑別の技術を無駄にするのは惜しい。もう少しで一人前になれるから我慢して頑張るように」と激励の言葉を戴き、私も「それでは」と続けることを決心し、人一倍努力しました。
 その結果、鑑別の保証である九五%の成績で、約十年間鑑別師として働き、また若い技術者を育てるお手伝いもできました。収入も増え、家を建てることが出来ましたのも、これ一重にあの時の内海主任の言葉のおかげだと今も深く感謝致しております。


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