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熟年クラブ連合会
     自分史  (最終更新日 : 2006/10/09)
2005年7月号

2005年7月号 (2005/07/07) 我が生い立ちの記  ③

プラッサ・ダ・アルボレ老壮会 遠藤菊子
引揚げ後

私は健康に恵まれ一日も休まず養母の言うままに働き、養母は大変な働き者で、私達の生活を心配して、当時闇商売と言われる養母が村の人から仕入れた野菜を、汽車に乗って福島市に売りに行き、大変良く売れて午前中で帰ってきた。
 私は三カ月くらい過ぎて、子供達を養母に頼んで国民小学校に代用教員として勤めることになった。一年後少し馴れたころ、少しはなれた分教場に行くことになり、住宅があるので、養母はとても喜んだ。そのころ生死不明だった夫が無事シベリヤより生還して、家族一同喜んだ。

資格をとって

 夫もその後、東京へ米を運んだりして働いたが、半年くらいで当時教員不足なので同じ学校の本校に勤めることになった。
 私は教員の資格を取るため通信教育を始めたが、仕事を終わってから家に帰り、レポートを書いたり、夏休みと冬休みは汽車で福島大学に通ったが、とても無理なので一年間だけでやめて、夫と一緒に検定試験を受けて合格して、教員免許状を受け取ることが出来た。夫は校長試験を受けて会津の小学校に赴任することになった。夫は別居する事になるのであまり気が進まないといっていた。
 その後、養父母が村に家を購入し、私達も協力することにしてその家に移り住んだ。その後養母は胃癌で三ヵ月後に六十二歳で亡くなった。養母の看病は養父がしたので私も助かった。
 その後、私達は子供の教育のため二本松市に土地を求め、家を新築して、長男長女は福島市の高校へ入学し、汽車通学をして、私達も近くの学校に転勤して通勤するようになった。
 その後、福島市に小さな家を求め、長男と長女だけ移り住んだ。養父はその後高血圧で倒れ、私達のところで看護の人を頼み、二年くらい寝たきりで六十九歳で亡くなった。私の実父も引揚げ後三年目に妹よし子と二人で田舎に住んでいたが、六十四歳で病気で亡くなった。

ブラジルへ

 郡の英語の弁論大会で優勝した長女が北米に言って勉強したいと言うので、県庁で留学等調べたが、高校卒ではまだなかったので、当時、夫の実兄が南米ブラジルに居るので手紙を出したら、ブラジルに来ても良いとの返事があったので、、長女は行くことになり準備をしていたが、娘一人を遠い外国へやるのは心配になり、いっそ皆で行くことになって手続きを始めた。
 不思議なことに、その時分まで十三年間生死不明だった弟高の戦死の報が、戦友より知らされた。ちょうど横浜の移住斡旋所に入所することになっていたので、葬儀に参列できず残念でした。
 そして夫の兄妹達からは「生活も落ち着いて心配ないのに」と大反対された。私達は家三軒を売却して、家族全員で義兄、進兄のところへ呼び寄せ移民として行く事になり、私は三十九歳、夫は四十五歳、長女は高校卒、長男高校二年、次女は中学三年、三女は中学一年でした。
 横浜港出発の時は、見送りに来た兄弟達、私の妹達も、もう一生会えないかもと、涙のお別れとなった。然し子供達は大喜びで、洋行気分で船に乗って、船中は私は本を読んだり、皆で卓球をしたりして楽しく過ごした。
船内演芸会では家族全員で「浜辺の歌」を斉唱した。次女民子は「白虎隊」を踊って拍手喝采を受けた。
 私達は途中観光しながら、香港三日、シンガポール一週間、ケープタウン、ダーバンモリシャス島等観光して楽しい航海を続けて無事にブラジルの第一歩サントス港に六十日余りで到着した。
 夫の実兄の進兄さんがサントスまで息子達と迎えに来てくれ、何十年ぶりの再会を喜んだ。
 汽車で兄の耕地パウリスタ線パカエンブーに行き兄のコーヒー園に到着した。夫と義兄と話し合い、契約者としてコーヒー園の仕事をすることになった。
ブラジル生活は大抵の移民は経験している事だが、天井のない家、電気水道もなく、夜はランプをつけ、風呂はドラム缶の風呂、パンは一週間分自分で焼き、味噌、豆腐も自家製。私は別に悲観もせず、子供の時読んだ、無人島に着いたロビンソンクルーソーの物語を思い出し、世の中にはいろいろ生活があると知らされた。
 夫以外の私と子供は農業の経験はなく、馴れない仕事でしたが、義兄の家族達が良く世話をしてくださるので、無事に過ごしていた。
 二年目になった時、夫は馴れない労働と猛暑のためか持病の胃病になり、町の病院に入院してその後少しよくなり退院したが、労働は無理と言われ、義兄と相談して転職することになり、知人の世話でサンパウロ市に出て家を借り通院していた。私は職を探して人工真珠の工場に働いた。その年の十二月に現在の家を購入した。敷地が広かったので、家の前に店を建て、キタンダ(八百屋)を始め、朝四時に起きて私と夫は中央市場まで仕入れに行き、店で野菜を売った。
 店の客はブラジル人が多く、私はまだポルトガル語がわからず、日本人の客に通訳してもらった。
 娘は半日ブラジル学校から帰ると良く手伝ってくれた。その後、店を食料品店に変更し、夫はその後すっかり元気になり、仕入れのほうを良くやってくれ、夫の考えで餅を作って売ることになり、街のほうに卸し売りに行き、店でも餅のほか日本品も売り、忙しくなったので、義兄のところに残した長男と次女を呼び寄せた。
 家の後ろに工場を建て、菓子職人も頼み、車も買った。商売のほうはよく繁盛していた。
長男と次女も結婚してみな家でいっしょに働いてくれた。その後ビラプルデンテに工場を求め、仕事は増えて従業員も二十名くらい居た。

喜びも悲しみも

 然しその後、大転換期となった。それは日本より来た大手企業に参加することになり、和菓子のほかにパンの製造も頼まれ、その頃、生長の家に入信していたので、同じ同志の好意なので参加することになり、夫は学校を退職して、ピネイロスにパン工場を作り、スーパーの中に売店を出すことになった。然し、共営者との間は色々と難しくなり、私のほうは赤字経営となったので、二年後には離れることになった。
 最後の決算で三ヵ所の工場は他所に譲り、住宅と前の店は残ったが、店も閉店することになった。そして生長の家のほうも休むことになった。私はまだ五十代なので、何か良い仕事が授かるように祈っていた。
 長女が私の家で子供達に日本語を教え始め、だんだん生徒が増えて一人では教えきれないと言うので、私も夫とともに手伝うことにして「光学園」と名をつけ、夫を園長として私も一緒に楽しく児童達と過ごすようになった。また専門の先生や他所からの先生も頼んだ。
 私も六十五歳になったので退職し、娘や孫達に任せることにした。
或る日、他所より来られた教師は、一年後に生徒を半分くらい連れて自分で別の場所で教えることになったので、私達は相談して閉園することにした。
 息子は商業を止めてより、銀行、領事館に勤めながら大学を卒業し、日本にも留学し現在日本で仕事をし、時々帰伯している。
次女夫婦、三女夫婦は日本の両親のもとに引き上げた。私達は渡伯後、農業二年、商業十五年、日語校十五年経験して現在は余生を送っている。

私の余生

 私達夫婦は旅行好きの夫と日本に四回、海外は、ペルー、欧州に行き、国内はたびたび旅行をしている。
 一九九〇年十月、夫は風邪より肺炎となり、日伯友好病院に入院したが、七十八歳でこの世を去った。
 私は一時元気がなかったが、その後、俳句を始め、老ク連でカラオケ、体操で友人に励まされ楽しく過ごしています。渡伯してより何時の間にか四十五年過ぎて現在八十五歳になりました。
 わたしの人生を振り返ってみますと、幼少時は慈愛深き両親に育てられ、また良い伴侶に恵まれました。夫は子供の時より苦労しているので、世間知らずの私を良く導いてくれ、真面目で、仕事に熱心で、努力家でした。そして公職と戦争に参加したお陰で、恩給を頂く身となり、私も現在半分受領できますので、、経済的に何の心配もなく暮らしております。お陰さまで夫亡き後日本に四回、欧州に二回、またカナダにも行き、国内旅行もしています。
 私はいつも運が良くて廻りの人に助けられ、、現在は孫夫婦五人と末孫一人、七人家族で、楽しく、感謝の毎日を送り本当に有り難く幸せと思って居ります。
 最後に二〇〇三年、日本の芭蕉祭に投句して入選した俳句を記して終わりとします。

 天高し異国に老いて幸ありし
(おわり)



私の青春期「橋に夢をかけて」

名画なつメロ倶楽部 峰村康
 戦国の武将・武田信玄は女捕虜を競売にかけるなど冷酷無比な反面、文才もあり、領国の開発に力を注ぎ、優れた民政で巧みに人心を掴み、甲州流という言葉まで残した。
 代表的なものは、五十五ヶ条からなる甲州法度(信玄家法)、甲州金貨、甲州枡や特殊な織物で作った信玄袋など数限りなくある。中でも治水工事は戦国大名の治水技術を代表する極め付きだ。今でも、釜無川の治水に構築した堤防や制水工は竜王町に遺構として残されている。『水を制する者は天下を制す』と言ったのも彼である。私もこんな言葉に感銘を受けながら、雪深い信州千曲川の辺で青春時代を過ごした。
 此処には落合橋という一寸ロマンチックな五百mほどの木橋があった。学校に通うには避けて通れない所で、戦争中の乱伐がたたり、台風の度毎に橋が流され住民を困らせた。時には胸まで水に浸かり、自転車を押して浅瀬を渡った所だ。
 こんな体験から何とか流されない橋が出来ないものかと、土木工学の道を志し、鉄の橋梁建設を真剣に考えるようになった。指導を受けた先生は、鋼橋工学の権威・平井淳東大教授の愛弟子で、ベルリン大学から帰国して間もない、結城朝教授であった。
 一クラス三十人、一目眺めれば誰が欠席したか分かり、代返やサボタージュは効かない。先生は時間が来るとドイツ語で書かれた構造計算のプリントを配り、「質問は無いか、今のうちに聞きなさい」と言ってから講義を始める。講義は日本語だったが、誰も質問はしない。一時、間を置いて、「君達はやるからには立派な土木技術者になれ!後世の孫子に自慢の出来るものをこの世に残せ!」というのが口癖だった。皆、シュンとして聞く一瞬だ。早口で続けられる。二時間の講義はノートを取るのがやっとの緊張の連続である。時間が来ると「復習は充分やるように、予習は忘れずになあー」と言い残してサッサと退室されるのが日課だった。
 問題は期末試験である。試験予定日の一週間前は、研究室の前に何とかヒントを嗅ぎ取ろうとして質問希望者の列が出来るのである。試験問題は決まって一問だけで、「次の問題を解け」とか、「次の設問に就いて論ぜよ」といったもので、「行きたければ図書館へ行け。但し、時間までに帰れ。他人の回答を写すな」と言って、後部座席で本を読んでいる。気味が悪い事この上なしだ。学生は一発勝負の局面に立たされる訳だ。
 私もこんな窮地に置かれた事も再三で、一度などはどうにも歯が立たず、「全面降伏します。勉強不足でした。お許しください。だが、私は勉強は怠ってはおりません。こんな橋を後世に残します」と、「将来の斜長橋構造に依る架橋建設の可能性に就いて」という小論文をCIVIL ENGINEERINGという雑誌の記事を思い起こして書いて提出した。
 数日後、先生に呼ばれて行くと、「君の答案は回答にはなっていないが、変なものを勉強しているのだなー」と根掘り歯掘り聞かれ、冷や汗をかいたが、無事試験も通して戴いた。
 斜長橋とは、横浜ベイ・ブリッジュや瀬戸大橋に見られる、橋桁をメイン・タワーからケーブルで斜めに吊り下げた、白鷺が羽を広げたようなモダンなあの橋梁の事である。
 橋その物は古くから有った。徳島県の祖谷渓谷にある、かずら橋は力学的にみたら斜長橋である。日本で建設可能になったのは、偏に、超強力ピアノ線の製造と、難しい構造解析に成功したからで、日本土木技術の粋を世界に示した一大快挙である。
 吊り橋の場合は地震や台風の影響が非常に大きく、思いもよらない複雑なメカニズムを起こす。東大の田中豊教授、平井淳教授や伊藤学教授等は二十年間に渡り、十六mの大型風洞の中に吊り橋の模型を組み、そこに八十五m/秒の強風を送り込む地味な実験を毎日繰り返した。
 結城教授も上部構造の研究委員の一人として参加された。構造計算ではコンピューターでも解析が不可能な、揺れや振動を測定し、自動振動と言われる複雑なメカニズムの解析に没頭した。この長年の研究努力の論文は世界的に評価され注目をあびた。
 その結果、昭和四十二年に日本土木学会の長大橋梁に関する耐震、耐風両設計指針が完成された。これが基本になり、本四連絡橋三ルートの設計が始まり、一番早い瀬戸大橋の設計に更に十年かけ、昭和五十三年、漸く起工式に漕ぎ着け、完成までに更に十年の歳月を費やして、昭和六十三年四月に、総予算一兆一千三百億円の巨費を投じた二十一世紀への夢の懸け橋が完成したのである。バブル経済が華やかなりし頃で、田中の角さんが下駄を履いて、得意になってカラコン、カラコンと喧嘩相手の福田と歩いていた頃だ。
 瀬戸大橋のメインである南備讃瀬戸大橋は道路橋と鉄道橋の併合橋では一千百mのスパンで世界一である。その後、完成した明石海峡大橋は千九百九十mの超大スパンで、道路単独橋では吊り橋として、これまた世界一である。
 斜長橋の世界一は五百十mの鶴見水路橋で、上位三位迄は日本にある。因みに、瀬戸大橋の一部である櫃石島斜長橋はスパン四百二十mで、瀬戸内海に美しい雄姿を見せてくれる。メインケーブルは一・二mの直径、基礎の大きさが五五m×五五m×六〇mのコンクリートのケイソンを水面下五十mで、岩盤を水平に研磨した上に沈下させ、そこに鉄塔が聲えていると聞くと誰でも驚くだろう。
 台風と地震国の日本での橋梁建設技術とトンネル掘削技術は、世界一の水準を独走している。もし、日本にいたら今頃、孫の手を引いて、「この橋はおじいちゃんが造ったのだよ」と自慢話をして居た事だろうが、何処で如何間違ったか、ブラジルあたりに来てしまい、バラッコンを造っているが、工学の道を志したお蔭で、方々に自分が造ったモニュメントに会えて、技術者名利に尽きる思いである。


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