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     自分史  (最終更新日 : 2006/10/09)
2006年9月号

2006年9月号 (2006/09/06) 私の人生 ②

カンピーナス明治会 後藤留吉(九十八歳)
 検査結果は第一乙、軍隊には第二次となったので、一日も早くブラジルに行きたい想いで原さんに報告に行くと、「そうか、それでは早速手続きを始めるが、後藤君は只今の状態の独身者では船賃の補助は出ない」と言われた。「そうですか」。ちょっと考えて、「自分で払って行ってもいいです。幾らぐらいでしょうか」と聞くと「船賃は二百三十円だ」と言われた。
 自分の貯めた金はどのくらいであったか思いながら百円はあったか。足りない所は兄大次郎に話せばだして貰えるだろうと考えた。と言うのは、鷹取工場で働いた月給は全部兄に渡して、月に一円、二円位の小使いを貰っていたのだ。  この事を母と兄に話すと何も言わずに納得していた様であった。当時、母も兄も私の気持ちを理解していた様であり、また後程自分達もブラジルに行きたいといっていた。
 その後、私がブラジルへきて二、三年過ぎた頃、母と兄妹達は支度をしながら身体検査をしたところ、母はトラホームがあって来られないとのことで中止したが、かなりの準備をしていた様でそのほど知らせてきた。
 こうして私の家族との話は付いていたので、早急に出発乗船準備することになった。一九二八年、ちょうど神戸市内に移民収容所が出来たので、「私も収容所に入るのでしょうか」と原さんに聞いた。「君は市内に住んでいたのだから、入る必要はない。只、身体検査をするだけで良い」と言われた。
 さて、一九二八年九月二十三日がきた。私の母は港までは見送りに来なかったが、ただ「お前は水替わりがあぶないから、水替わりにはタニシのつくだ煮が良いのでこれを持って行って、変わった水を利用する時には使うのだ」と言われて貰ったのと、柳梱りに一枚の敷布団、着替えのシャツ二、三枚をいれていただいた。
 いよいよ出帆。出港の合図のブジーナ。一般見送り人のテープはポツポツ切れて行き、私も郷里の同級生が二、三人来ていて、テープを持っていてくれた。いよいよ日本とお別れだ。さようなら日本よ、いつかは帰ってくることもあるだろうと自分の心に言いながら、次第に遠くに小さくなって行く港、後ろに続く山々を眺めた。
 船は瀬戸内海を通り、夜には長崎の港に入った。朝になると男女の労働者が列になってザルに石炭を入れたのを運んでいる。あの頃は石炭が燃料で船が運行されていたのである。(つづく)


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