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     自分史  (最終更新日 : 2006/10/09)
2006年10月号

2006年10月号 (2006/10/09) 私の人生 ③

カンピーナス明治会 後藤留吉(九十八歳)
 そうして積み終ると出港だ。一路インド洋に向けて。あの当時、香港やシンガポールは、ほとんど寄港しなかった様である。と言うのは、前航海でコレラが発生して被害を受けていたからだ。
 この航海中、始めに生まれたばかりの子供が死亡し、次に母親だと思うが死んだ。そうして十二時間が過ぎて、水葬にするといううわさを聞いたので、誰が葬式をするのか聞いてみると、「知らない」「分からない」という。仏教のお経を上げる人も居ないという。「門前の小僧、習わぬお経を詠む」のたとえ、せめて私が昔小学生時代に僅か一、二週間習って覚えた、当時頂いていた「正信偈経」の本を繰って読み上げたのであるが、ほかに何の言葉もなく、お経を唱え終わると遺体は静かに水葬された。
 船はインド洋に入り、いよいよ赤道祭だというので、私と同室でやはり独身の広島から来ている伊達つとむ君と二人でカカー天下の夫婦行列に入り、私が親父、彼が女房役となって、ちょっとした人気を得て二等賞を取った。
 そしてダーバンからケープタウンに向かう。ダーバンに入って船の食事を見るとなんと、大きなイセエビのブツ切りが食卓に置いてある。私は未だこんなイセエビなど見たことが無い。こんなものを僕達に食わしてくれるのか。美味しい、うまい、始めてだと言いながら何切れか食べていた。こんな食事がケープタウンまであった。
 また、ケープタウンを出て、大西洋上同室者を始め数人がお別れ会をやろうとのことで一部屋に集まった。誰かがビールを二、三本持って来て、またエビのブツ切りがたくさん置いてあり、誠にありがたい事であった。私は始めてビールを飲んだのだが、瓶はユニオンビールであった。日本では勿論当時からアサヒやサッポロビールが有るのは知ってはいたが、私は二十歳に成ったばかりで日本を出国しており、未成年は酒を飲んではいけないことになっていたので、それを守っていたのだ。
 三、四日過ぎて、ようやくサントス港に到着。私は皆と分かれて柳行李を担ぎ、小さなカバンに小物を入れて上陸。移民収容所に向け汽車に乗った。【前編終わり】


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