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     FOTO  (最終更新日 : 2015/01/16)
サンパウロ中央老壮会 山田操さん [全画像を表示]

サンパウロ中央老壮会 山田操さん (2007/04/14)
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 山田さんは一九二六年生まれ、今年八十一歳になります。
 山田さんの一日は家族の朝のカフェーを作ることから始まります。そして同居する犬、猫十二匹の面倒をみます。これらは孫娘が動物好きで人に頼まれたり、どこからか拾ってきたりしたものです。時には傷ついた鳩の面倒をみたこともありました。
 今、一番手が掛かるのは生後間もないみなしごの子猫の兄弟二匹です。三、四時間おきに哺乳瓶でミルクを飲ませ、排便の始末をしなければなりません。手は掛かるし、うるさいし、時には嫌になりますが、小さな手で哺乳瓶を握って飲んでいる姿を見ると可愛いなぁと思うとか。
 山田さんは東京浅草に生まれました。家は鼻緒の製造の下請けをしていました。女ばかりの七人姉妹の末っ子として生まれ、父は今度こそは男の子をと希望していたので「美佐雄」と名付けられました。でも男の子とよく間違えられるので、自分では「操」を使っています。
 女学校時代までの山田さんは本当に幸せでした。しかし女学校を終えた翌年、一九四五年三月十日、あの東京大空襲に見舞われました。焼夷弾の雨の中を逃げ惑い、隅田川までようやく逃げ、川の中で一夜を明かし、翌日、乞食同然の姿で我が家の焼け跡に戻りました。一緒に手を引いて逃げていた甥は行方不明となり、両親と姉の一家四人の肉親七人を一夜にして亡くしました。
 茫然自失の中、ただ一人生き残った姉夫婦と横浜に住んでいた姉の仲人を頼り、傷の手当てを受けました。しかしここでも二ヶ月後の五月、横浜大空襲に遭いました。「ドカン、ドカンとものすごい艦載機による絨毯爆撃は防空壕ではとても耐え切れず、近くの学校に逃げ込み、九死に一生を得ました。「あの時の恐怖と悲しみは戦後六十二年経った今でも忘れられません」と語っています。
 上の写真は亡くなった姉とのたった一枚の思い出の写真です。
 その後、福島県の西方に疎開しましたが、まったくの山奥で、食べるものもなく、ひとりで東京まで買出しに出たこともありました。
 戦後、東京に戻り、義兄はアメリカ海軍の通訳をし、山田さんも働き生活が落ち着いてきました。一九六一年に新たな夢を求め、姉夫婦と姪と渡伯しました。
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 山田さんの趣味は宝塚です。山田さんは上野育ちの土地柄から女学校時代から映画や国際劇場のレビューに親しみ、特に宝塚公演には夢中になりました。プロマイドを集め、ファンクラブに入会し、土日ごとに劇場に通いました。宝塚熱は移住後も続き、ビデオだけでも四十本以上は持っており、宝塚に関する事は何でも知っています。宝塚は山田さんの生き甲斐でもあります。
 さて、山田さんにはもう一つ実益を兼ねた趣味があります。それは毎週セナ宝くじを買うことです。これまで小当たり、中当たりが何度かあり、今度こそはと大当たりを夢みている毎日です。


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