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     FOTO  (最終更新日 : 2015/01/16)
みずほ福寿会 宮本信雄さん

みずほ福寿会 宮本信雄さん (2009/09/16) 「瑞穂村の黄門さん97歳」
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 昭和三十年代の事だったと思うが、歌手の青木光一が歌って流行った「小島通いの郵便船」は、山口県周防大島町(旧大島郡)と本州を通う連絡船の主題歌と聞く。今は立派な大橋で繋がっている。昔は大島ミカンで有名なミカンの産地だった。宮本信雄さんはその太平洋側に面した大島町の出身。
 高等科一年を終えた十三歳の頃、伯父さん夫婦がブラジルに移住することになり、伯父さんには子供が無く構成家族が一人足りないので宮本さんは養子となり、一九二四年に渡伯された。第一入植地はパウリスタ線の奥地のファゼンダでニケ年の契約を終えてレジストロに移転。この地はアマゾンによく似た気候だった。ここで第一回目の試練に遭う。毒蛇に噛み付かれすぐ血清注射をしてくれたのだが素人だったので、注射液が半分外に漏れてしまい、至急、プロント・ソコーホ(救急病院)に運ばれた。その当時としては、素早い処置で一命を取り留めた。だが、今でも噛み付かれた痕がハッキリと残っている。
 一九二九年にはソロカバナ線のシャバアテス・ファゼンダに移転。ここでは次の入植地を探すため、間に合わせに一ヶ年働いた。一九三〇年ボンセッソに四アルケールの土地を買って入植・トマテ・米などを作った。ここで二十二歳の時、同県出身の井上シゲノさんと結婚。二女に恵まれる。ボンセッソに約九年在住。この間、義母は宮本さんの実兄の家族と日本に引き揚げた。一九三九年に現在の瑞穂村に十アルケールの土地を購入して入植した。
 入植当時の事だが、パラナに住んでいた従兄弟の中谷友一氏が病気治療のため、サンパウロに来ていて亡くなった。その遺体を未亡人とパラナの実家に連れて帰るのに一苦労したことがある。
 当時、時速三百キロくらいでしか飛べないテコテコ飛行機を雇い、途中、畑の中に二回も不時着し、挙句(あげく)の果てパイロットは「もう飛ばない」と言うので、トラックを借り夜通し走り、雨期で増水したパラナ河を小さなカヌアで渡り、テーラ・ロッシャ(赤土)でぬかるんだ道をトラットールで引っ張ってもらい、丸二日かかってやっとの思いで連れ帰ったと言う。律儀(りちぎ)な人である。
 一九四一年には待望の男子が誕生し、そのあと四人の男子をもうけ、二女、五男の子宝に恵まれたが、不幸にも長男が十歳の時に亡くなった。
 みずほ村では、野菜、果物作りから養鶏業に変わり、一時期フェーランテもされた。一九九〇年、長年住んだみずほ村の土地を売却。近くのパルケ・パロッサに移転。三年後、愛妻シゲノさんに先立たれ、今年十六回忌を営まれた。瑞穂初期入植者の生存者は、宮本信雄さんと伊藤元二さんのたった二人となり、まさにみずほの生き字引的な存在である、
 宮本さんは、みずほ文化協会会長、福寿会会長、山口県人会会長など勤められ、特に、瑞穂村の教育面、日本語学校等に尽力された。今なお福寿会の相談役として役員会、月例会には欠かさず出席して会を支えて下さっている福寿会のお手本だ。自動車の運転もまだまだ確かなもの。
 「趣味は?」と尋ねると、すばやく読書とゲートボールと答えられた。ゲートボールはみずほゲートボール愛好会が創立されて以来で二十五年にもなるとのこと。毎日の日課は、朝六時に邦宇新聞が届くので十時までじっくり隅から隅まで読む。午後一時からゲートボールの練習。
 食事は自分で作る。「料理は頭を使うし、体も動かすのでボケの予防によいと思う」とさらりと言われ何の苦にもならないようだ。お家にお邪魔したが、九十七歳のお爺さんの一人暮らしとは思えない。奇麗に片付き、掃除も行き届いて、几帳面な性絡が伺われる。
 三十分の予定の対談があっという間に一時間余り。宮本さんのお話を聞いていると、ドラマの中に引き込まれるようで時間が経つのも忘れる。
 ゲートボールで小麦色に日焼けした笑顔は健康そのもの。読書が好きと言われるだけあって知識も豊富で、品格があり、みずほの黄門さんのような感じがする。 (文・上野美佐男)
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大好きなゲートボール大会で(左端のゼッケン3が宮本さん)


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