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(最終更新日 : 2015/01/16)
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セントロ桜会 上岡寿美子さん(90歳)
セントロ桜会 上岡寿美子さん(90歳) (2009/10/13)
「短歌と共に穏やかな日々」
祖国の勝利を信じ、旭日植民地をあげて慰問袋を日本へ送付。作った千人針を手に持つ寿美子さん(左)と友人。
「混血の孫もいとしや ながらえて 八十二年 ブラジルに住む」これは、去る五月の明治記念総合短歌大会春の大祭奉祝歌二十首に入選した上岡寿美子さんの歌である。
寿美子さんは一九一九(大正八)年十一月三日、高知県幡多郡中筋村有岡(現四万十市有岡)に父・熊吉、母・吉衛の長女として生れた。裕福な農家の何不自由のない暮らしが父の事業の失敗で破綻。一九二七(昭和二)年、一家はブラジルへ移住することとなった。父母と兄二人、弟一人と寿美子さんの六人家族、寿美子さん八歳の時である。
最初の配耕地はリンスから四キロのイタリア人経営の「バードレ」耕地であった。二年半のコロノ生活の後、グアララペスに二十万ヘクタールの土地を求め、近郊で一農年の準備期間をおいて、山伐りをし、小屋を建て、一万本のカフェーを植え付けた。そこには日本人家族が何十家族もおり、日本人会、青年会もでき、日本語学校も建てられ、旭日植民地と名付けられた。ここで二世の弟妹が生まれ、八人家族となった。
その頃、日本の従兄弟から、外国で日本語を忘れないようにと毎月何冊もの本が送られてきた。兄弟みんなで勉強をし、本を読み、短歌を作った。畑仕事に出る時でさえ、本を持って行った。土の荒壁には家族間の伝言を皆、日本語で紙に書いて貼り付けておいた。その頃、父が戯れに詠んだ句に「降る雨のしとしと長し僕うれし」というのがある。
皆、お金を得るのに必死になっている時代、上岡家は雨が降ると皆、本を読み、歌を作り、手紙を書いた。弟と謄写版(とうしゃばん)刷りの本を作ったり、新聞を作ったりもしたという。近所の人たちは「上岡家はちょっと変わっている」と噂した。
そのうち戦争が始まり、それまではお金が貯まったら日本へ帰るつもりであったが、それが叶わぬ事となり、寿美子さんは二十二歳で岡山出身の出平(でひら)さんと結婚した。結婚相手は大家族の長男で、その嫁は「働くためにもらう」という時代で、仕事、仕事に明け暮れる日々となり、本どころではなくなった。子供を連れての畑仕事を十年ほどして、町に出た。町に出てからは、夫は歯の技工士、寿美子さんは縫い物をして生計を立てていたが、仕事も少なく、サンパウロへ出ることにした。
サンパウロでは夜遅くまでミシンを踏む日々であったが、良いお客さんが沢山付き、張りのある毎日であった。しかし、夫の仕事ははかばかしくなく、サンパウロでの生活を嫌い、田舎へ帰ってしまった。寿美子さんは未だ学業途中であった五人の子供たちのために町に残り、昼夜を惜しんで働いた。その間自身の向学心やみがたく夜間学校にも通い、看護の勉強もした。そして、六十歳を過ぎて「椰子樹」の同人となり、また、短歌を始めた。溢れる思いが次々と歌になった。
長男がブラジル人を結婚相手に選んだ時は、悲しくて病気になったりもしたが、次いで一人娘も、末の男の子もブラジル人と結婚。自然に嫁も孫も愛せるようになっていた。六人の子供のうち、長女は夭逝(ようせい)。長男、次男も六十歳代で亡くし、哀しい思いも沢山してきたが、今は三男と同居。イタリア人の嫁が何くれとなく気を遣ってくれ、月に一回の老人クラブの例会と短歌会への出席を楽しみとし、USPの森が見える住まいで穏やかな毎日を送っている。
なお、歌人、橋田東聾(はしだ・とうせい=大正時代の歌人)は寿美子さんのお父さんには兄、寿美子さんには伯父に当たるが、神戸出港に際して父に送られた歌「寂しくて 酒は飲むとも つつしみて 身をいとおしめ また逢ふまでに」は、今でも酒好きの父の思い出と共に思い出す。
ジャバクアラ歌会にて歌友と。左端が寿美子さん
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