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     FOTO  (最終更新日 : 2015/01/16)
サンパウロ中央老壮会 中西恵美子さん(79歳)

サンパウロ中央老壮会 中西恵美子さん(79歳) (2010/02/15) 「故郷は台湾の澎湖島」
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最後の修学旅行、阿里山(台湾本島)の樹齢三千年の桧の前で
 「昨日の事を話せと言っても無理だけど、昔の事ならなんぼでも話せるわ」と語るのは中西恵美子さん七十九歳です。
 恵美子さんは一九三一(昭和六)年二月、台湾澎湖庁馬公街馬公に四人姉妹の三番目として生まれました。お父さんは「今度こそ男の子を」と期待していたので、女の子が生まれたと聞くとがっかりして仕事先から帰りもしなければ、一週間たっても名前さえ考えてくれず、見かねた近所のおばさんが、いくつか女の子の名前を紙に書いて神棚にあげ、お母さんがおみくじのように引いたのが恵美子という名前だったとか。
 「私の名前なんていいかげんなもんよ。其の上、父の口癖が『女の子はつまらん』そればっかり。よくひがまないで育ったものだわ」と笑っています。
 恵美子さんの生まれた澎湖島は台湾海峡にあるポンフー諸島の一つです。大昔、海底火山が隆起して出来た島で、島全体が火山岩(玄武岩)で出来ており、海抜は六メートルぐらい。山も川もありません。ですから、米もできませんし、亜熱帯地域なのにバナナも椰子の木もなく、薪さえありません。全て大陸から買っていました。季節風が吹くと小石が飛び、道はアスファルトのようにツルツルしていました。小さな島でしたが、ここには海軍の軍港があり、沖にはいつも軍艦が何隻も碇泊(ていはく)していました。島民の他に軍人の家族や民問の日本人も居住していました。
 学校は一学年一学級で、それぞれの学年の生徒数は五十人前後の小さな学校でしたが、遠泳大会などもよく行われ、中でも圧巻だったのが運動会でした。軍人の子弟が在籍していたせいか、海軍の軍楽隊が行進曲や音楽を奏で盛り上げてくれました。厳しい環境の島でしたが、子供時代を過ごした思い出の地です。
 女学校は台湾本島の高雄女学校に進みました。その頃は家族も本島に引っ越して来ましたが、戦局は激しくなる一方で、毎日が空襲につぐ空襲で、台中の山の中まで疎開し、生きた心地がしない日々でした。
 上の写真は小学六年の修学旅行の時のものですが、当時の小学生としては一週間もの旅は珍しく、戦局悪化の為、結局はこれが学年最後の修学旅行となりました。そして、この学友の多くは敗戦の年の三月、最後の引き揚げ船で引揚げる途中、沖縄の大東島近海でアメリカの潜水艦に沈められ、亡くなってしまいました。
 お父さんは製糖会社、鰹節の製造販売など何隻もの船を持ち、事業は順調でしたが、持ち船を積荷ごと撃沈されたりして破産してしまい、終戦の翌年一九四六(昭和二十一)年、恵美子さんが十五歳の時、父の故郷、大阪に引揚げました。焼け野原の日本での生活もまた大変でしたが、二十六歳で小学校の同級生であった照男さんと結婚。その後、一九六二年、三十一歳の時、ご主人と共に四歳と一歳の息子を連れて渡伯。一九六三年十一月パラー州オーレン郡シュイラに入植し、ピメンタ栽培に従事しましたが、ピメンタの根腐れ病の蔓延等で農業に見切りをつけ、一九八五年にはサンパウロに出てきました。何処の地でも生活は大変でしたが、恵美子さんは「何時かは大金持ちになれるわ」とのん気なものだったとか。この明るく楽天的な性格は母親ゆずりだそうで恵美子さんの周りはいつも笑い声が絶えません。
 恵美子さんは老ク川柳、書道、絵画、ポ語教室などに参加しています。川柳では柿嶋先生が柳名を「笑」と名づけてくれ、とても気に入っているとか。
 恵美子さんは北回帰線(北緯二三度二七分)の澎湖島に生まれ、今、南回帰線(南緯二三度二七分)のサンパウロに生きている不黒議をつくづく感じる今日この頃だそうです。
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アウバカーキの気球大会にて


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