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たこ焼きマンが行く
     たこ焼き「旅日記」  (最終更新日 : 2009/05/25)
サンパウロ(東洋祭り)篇 [全画像を表示]

サンパウロ(東洋祭り)篇 (2003/12/30) 2003年12月6日(土)曇り一時雨 7日(日)晴れ

 リベルダーデ文化福祉協会(ACAL)が主催する第35回東洋祭りに出店した。このイベントは、サンパウロ市リベルダーデ(自由)区にある東洋街(以前は日本人街と呼ばれたが、今は中国系、台湾系、韓国系などが台頭し、オリエンタル色が濃厚)で毎年実施されている恒例行事。歌、踊り、和太鼓演奏や空手などの演武、試し割りあり、とリベルダーデ広場を中心に様々な催しが繰り広げられる。日系社会には無くてはならない行事の一つだ。

 我々が参加することになったのは、いつも業者用のタコ焼き機器を借りている南米大神宮の宮司である逢坂さんからの依頼を受けたことによる。実は、2年前にも逢坂さんに依頼を受けて、1号(松本)とその嫁は東洋祭りに出店したことがある。その時は準備の時間が無く、「タコ」の代わりに「サウシッシャ」と呼ばれるソーセージを入れて「神宮焼き」という怪しい?名前で販売した。それが結構売れたために、「今回は本物のタコで勝負しようやないか!」という熱い思いもあった。

 今回、参加したのは、1号、3号(櫻田さん)、笹井さんと取材の合い間に手伝ってくれたS紙の記者・平間くん。それに、初日だけ手伝ってくれたコンタニ氏の5人。

 さて、初日の6日。「東洋祭りは(タコ焼きは)絶対に売れる!」と「捕らぬ狸の皮算用」をしながら前日から気合いを入れて準備をし、逢坂さんと会う約束をした30分前の午前7時半に現場に着いた。現場は東洋街の目抜き通り「ガルボン・ブエノ街」の日本庭園前だと聞いていた。しかし、そこにはまだ日本食料品を卸しているホンマもんの業者がいて、どこにも屋台の骨組みらしきものは見当たらない。

 「はて、早過ぎたんかな」と右往左往して、ようやく逢坂氏をリベルダーデ広場で発見。場所を聞くと、何と同広場の端っこで、祭りのメイン舞台となる裏側だという。

 「えー? そんな所でやるんですか」と驚きの表情を隠せない1号。しかし、我々は依頼された業者のようなものなのだ。
 「まあ、何とかなるやろ」――。という気分で臨んだ。だが、この後に大きな波乱が待っていようとは。ガビ~~ン。
屋台全景.jpg
早朝で客足もまばら

 今回、逢坂さんとは、どれだけ売れても固定給という約束を交わしていた。つまり、売れれば売れただけ彼の利益になる。反面、売れなければ逢坂さんの負担額は大きくなる。いつも逢坂さんには世話になっている。「儲けてもらおう」という気持ちがあったのは確かだ。それだけ、東洋祭りには人が集まることをこれまでの取材活動、二年前の「神宮焼き」での経験で知っている。

 気の早い我々は、舞台裏にある屋台の骨組み(3m×3m)の中で早速、タコ焼きの準備を行い、焼き始めた。まだ周辺には新聞片手にベンチに座り、朝の雰囲気を楽しむ一世のじっちゃん(爺)、ばっちゃん(婆)の姿が見える。それでも2、3皿がすでに売れていた。

 と、ハッピを着た赤装束の人間たちが屋台の廻りを取り囲んだ。主催者のACAL関係者だった。
 「何や」と思っていると、「場所が違う」と、のたまう。
 一人、日系二世か三世と思われる30歳前後のニイちゃんが、「この場所まで屋台を動かせ、いや方向が違う」などとエラそうに言っている。はじめは大人しく従っていた我々だが、しだいにキレてきた。

 「おいおい、エラそうに言うとるけど、本来ならアンタら主催者がはじめに場所をきっちり決めとかなアカンのと違うんかい」「責任を取れる立場にない人間があーだ、こーだ言うな」
 「俺れらは人から頼まれた業者やで(いつから業者になったんかいな)」
 しまいには「責任者呼んで来い!」と、往年の吉本興業の芸人・人生航路師匠のような発言も飛び出した。

 結局、元の場所から屋台の向きを90度ほど変え、4、5㍍ほど移動したに過ぎなかった。 

 しばらくしてふと、冷静になって廻りを見ると、まだ殆んどの店は開いていない。せっかちにタコ焼きを焼いているのは我々だけだった。取材を行う平間くんに、この日の祭りの開会式の時間を聞くと、午後1時からだという。「(開店するのが)早すぎたんとちゃうか?」と一同苦笑いする。

 午前中は客足も少なく、さっぱり売れない。それでも一同、固定給の気楽さからか、「まあ、しょうがおまへんなあ」などと言いながら、過す。気の利いた笹井さんは、いつもお世話になっている人々にサービスでタコ焼きを配って回っている。

 「客がいないからとタコ焼きを焼いていないと、よけいに客が来ない。一面だけでも焼いていることが、客に興味を示すことができる」――。

 そう自分に言い聞かせながらタコ焼きを焼くが、興味を示すのは、その辺で今まで寝っころがっていた浮浪者のオッチャンたち。「一個、味見させてくれ」と言うので、「まあ、タコ焼き普及のためか」と思い、景気よく振舞う。
お焼き風景.jpg
真剣な表情でタコ焼きを焼く我々(深沢正雪氏撮影)

 こういう厳しい環境の時に何より有り難いのは、「あなたたちが作るタコ焼きが食べたい」と何皿も買ってくれるお客さんがいることだ。あるNGO団体の南米支局長を務める渡辺さんやビデオレンタルを行うトミ商会から「30レアルで買えるだけ買ってきてと言われた」と来てくれたユバ農場関係者のチヒロさんたち。いつも支えていただいている方々、本当に感謝しております。

 「やっぱり、場所が悪いのと違いますか」と感じ出したのは、昼を過ぎてから。舞台の表側には人々が溢れ返り、そちら側で販売しているヤキソバ、天ぷら、寿司などの食べ物が爆発的に売れている。反対に我々のいる裏側は、舞台に出演する人々が出入りするため、一般客が入れないようにテープで区切ってある。客が少なく、大概の人々は広場から反対側の目抜き通り側へと流れていくのが分かる。

 我々の場所に来る客は案外、純ブラジル人(非日系)が多い。そこで閉口するのがポルトガル語の発音の問題。

 客 「オケケ・イッソ(何これ)?」
 我々「タコヤーキ。ボリーニャ・デ・ポルボ(タコ焼きのポルトガル語)」
 客 「オ・ケ(何)?」
 我々「ポルボ!(たこ)」
 客 「オ・ケ(何んて)?」
 我々「(タコの真似をしながら)ボリーニャ・デ・ポルボ!」
 客 「(うなずきながら)アー、ポルボ(タコ)!」
 我々「(うなずきながら)エー、ポルボ(たこ)!」
 客 「オブリガード(ありがとう)」と言いつつ、買わないで帰る。

 この繰り返しが果たして何回あっただろうか。日本語会話中心の我々にとって、ポ語のポルボ(タコの意、POLVO)の発音が誰一人として出来ない。この情けなさが一層、心を寒いものにさせる。それと、ブラジルではポルトガル系の人々はタコを食する文化があるらしいが、一般ブラジル人はタコと言うと、グロテスクさを感じてか、毛嫌いする人も案外多い。

 しだいに無言になる我々に、別の店でお守りなどを売っている逢坂さんが時々、状況を見守りに来る。
 「どうですか、売れているでしょう?」
 「いや、全然売れませんわ」
 「・・・・」

 結局、一日目は午後7時近くまでやって、約130食を売っただけで終った。

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 翌7日。ショーが始まるのは午後2時からだが、この日も逢坂さんとの約束で午前9時過ぎには、現場へ。昨日の分を取り戻そうと皆、気合いを入れ直す。

 前日の「ポルボ(POLVO)」の発音ができなかった教訓を生かし、笹井さんが紙にタコの絵を描きポ語を付けたポスターを二枚持ってきていた。今日は昨日と違って晴天が広がり、暑い。早くも目抜き通りのガルボン・ブエノ街方面には、人々でごった返しているにもかかわらず、こちら側は相変わらず客足もまばらの状況。「味見だけ」の客も多い。

 ある日系人のおばちゃんの反応。
 「何これ?」
 「タコ焼き、中にタコが入っているんですよ」
 「ふーん、ちょっとエスペリメンタ(試食)させてよ」
 「はい」と1個手渡すと、なぜか間の悪いことに、そのタコ焼きのタコが飛び出してしまったのか入っていなかった。
 「あれ、タコ入ってないわ」というおばちゃんに、思わず1号が「それはハズレ」と言ってしまう始末。

 アカン時は何やってもアカンのかと思ってしまう。

 しかし、我々の隣でヤキソバやウドンを売っている業者の人々もやはり、あまり売れていないらしい。
 「ここは、場所が悪すぎる。はじめは、ガルボン・ブエノ街で店をやるって聞いていたから、出店したのに」と、ボヤくことしきり。

 そうか!場所が悪いと思っていたのは、我々だけではなかったのだ。

 そうしたところに逢坂さんがやって来た。
 「今日こそは、売れているでしょう?」
 「いや、昨日以上に売れてませんわ」と我々。
 逢坂さんにとっては、出店料金も払っているわ、我々に日当を出さないかんわ、売れてないわでワヤクソの状態だ。

 すかさず笹井さんが、隣の業者の人とも話して、主催者側にクレームを入れることを促す。

 「はじめの話と違う場所で出店させられて、このまま出店料を正規に払うのはいかがなものか」

 逢坂さんと隣の業者は何やら話をしている。その後の話がどうなったのかは、我々雇われ人にとっては分からない。しかし、主催者側と出店者側との話の食い違いが、露呈された形となった。

 結局、この日は約90食が売れた。それでけでも我々にとっては、有難かった。しかし、逢坂さんには余りにも気の毒なので、当初の日当よりも差し引かせてもらって折り合いを付けた。長い二日間の中で、タコ焼きを買ってくださった皆様、依頼をしていただいた逢坂さん、本当にどうもありがとうございました。東洋祭りでのタコ焼き依頼は、もう二度と来ないかもしれない。我々は商売の難しさを噛み締めながらも、「二日間、我々なりにやった」という思いで現場を後にしたのだった。
お祭り風景.jpg
リベルダーデ広場で和太鼓を演奏する若者たち(平間雅裕氏撮影)


[今日の教訓]
 早朝から、あまり気合いを入れすぎないこと。絵入りのタコ焼きのポスターを事前に作っておくこと。値段をもう少し下げても良かったかも。


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