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たこ焼きマンが行く
     たこ焼き「旅日記」  (最終更新日 : 2009/05/25)
05年日本祭り中日(なかび)篇 [全画像を表示]

05年日本祭り中日(なかび)篇 (2005/09/01)  2005年7月16日(土)晴れ 

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飛び入りも出たたこ焼きマンの面々
 初日の思いがけない好成績で気をよくした我々たこ焼きマンは、朝から気合が入っていた。

 正念場とも言える2日目の土曜日は、人員も笹井さんファミリーに娘さんが加入。3号も前日に一度帰り、この日は奥さんを自家用車で連れてきた。また、兵庫県人会前事務局長の紺野さんと出版社勤務のミヤガワさんにも応援を頼み、1号を含めて午前中だけで9人の豪華メンバー。昼過ぎからはオオクボ、ソグラに同行したヨシエさん、毒研究家のコンノ夫妻も飛び入り参加し、昨年に近い大人数となった。

 いつもながら、ポルトガル語のできない男衆が中心に鉄板を囲み、機転の利く奥様方と笹井さんの娘さんと息子さんのシンジ君が大切な前衛をつとめた。

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 午前中は昨日と同様、周りの県人会ブースのスタッフが朝メシ代わりにと、たこ焼きの注文が相次ぐ。まだ準備中で粉を溶いていると、「オーイ、早く働けよ。お客が待ってんぞー」と、某グァタパラ移住地関係者からハゲまし(チャチャ)の声をいただく。
 
 「ヘーイ、もう少しで出来ますよってに」(1号)と言っている尻からお客さんが列をつくり始めているのが見える。

 予想通り、この日は朝からメチャ多忙となり、例年通り「焼いても焼いても客が減らない」オソロしい状態に突入。逢坂さんに借りたプロ使用のたこ焼き機器も4面フル稼働で止まらない。

 昨日は快調だった3号が無口になりだした。と、たこ焼きの具を入れる手つきまで雑になりだした。本来は1つの穴に1個か2個丁寧に入れていく貴重なタコを、溶き汁を流した鉄板上に無造作にバラまき始めたのだった。

 「そんな入れ方しちゃ、ダメー!!」

 何と、3号を制したのは、驚くべきことに普段は大人しいソグラだった。ソグラは日本で、ソバ屋兼一杯飲み屋を一筋縄ではいかない客たちを相手に1人で、23年間も続けた根性の人だった。プロとしての気質が3号の行為を見かねたのであろう。ソグラの以外な一面を見せられたジェンホ(娘婿)の1号は、あっけに取られていた。

 その後も3号は「揉み手!」などと言いながら、ネギと紅ショウガを両手で捻り祈るような格好で入れていたが、さすがにタコのバラまき回数は極度に減っていた。ソグラのファインプレーが功を奏したと言えよう。

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ホンマ、えらい人ですわ
 スタッフの人数が多かったこともあり、代わる代わる昼食を食べにブースを出たが、ほとんどの場所は長いフィーラ(列)でフン詰まり。1号は、嫌になるほどメリケン粉を溶いていたにもかかわらず、何故か同じメリケン粉がメインの和歌山県人会作製「お好み焼き」を購入。しかし、それは想像以上に美味く、「新聞社をクビになった時は、お好み焼きを売るという手もあるな」と1号は心の中で密かにつぶやいたのだった。

 まあ、それはエエとして、アレヨアレヨと言うてる間に(現実的には「アレヨアレヨ」とは言ってませんが)夕方近くになり、ソグラとオオクボは後方支援部隊として、アジトに戻ることに。この日の献立はカレーライスとトン汁。独身時代に2週間連続でカレー三昧の日々を過ごした経験もある1号にとって、この上ない馴染み深いメニューだった。
 
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ポルトガル語で対応できる前衛の人たち
 結局、この日は午後7時頃で終わったが、何と約1300皿が売れていた。皆、肉体的にはメロメロに疲れていたものの、好結果が精神的な支えとなっていたようだ。意気揚々とアジトに向かった我々に思わぬハプニングが発生したのは、それから間もなくのことだった。

 笹井さんと3号の車に分れて便乗した一同は、駐車していた2台の場所が離れていたので、イピランガ街道沿いの「ショッピング・スール」前で待ち合わせることになった。現場に着き、それぞれにケイタイ電話を携帯していたのだが、何故かなかなかお互いの姿を確認することができなかった。

 「ちょっと、見てきますわ」と笹井さんの車に乗っていた1号が、付近に居てると思われる3号の車を探しに出た。3号は同じショッピング・センター前でも、街道から更に内側のショッピング寄りに入った場所に駐車していた。その場所は入り組んでいてややこしく、再び街道に出るには一度大廻りする必要があったのだ。

 笹井さんカーの駐車場所を3号に伝え、元の降りた場所に戻ってみたが笹井さんの車は見当たらない。

 「あれま!? どこに行きはったんやろう・・・」

 ポツンと1人その場所に取り残された1号は、自分の置かれている立場を冷静に考え、青ざめた。

 「まあ、笹井さんも何かの事情で動かざるを得なかったんやろうけど、すぐに戻ってくれるやろうし、この場所に動かずにいた方がエエやろ。3号もここを通るやろうし」と自分に言い聞かせたが、気が気でない。金を一銭も持っていないことにも気付いた。
 
 「しもた、ゼニは(車内の)カバンの中やった・・・」 最悪は自力でアジトに帰る道も閉ざされた。文字通り、祭りの後の「後の祭り」だった。

 その間も暗くなった夜の街道を、自動車が容赦なくビュンビュンと走り抜けていく。道沿いを怪しげなブラジル人が歩いていくのが見える。

 長い時間が経過した(実際には10分も経ってないでしょうけど)、と思ったその時だった。見慣れた深い紺色の車が見えた。3号の愛車だった。
 
 「ああ、助かった」と1号は胸を撫で下ろし、車内でニヤニヤと笑う一同の出迎えを受けた。笹井さんは3号にケイタイで連絡を取り、事情を説明していたのであった。すぐに物凄い勢いで笹井さんの白い車が3号の車の後に迫ってきた。こうして1号は皆さんの協力により、無事アジトに帰ることができたのだった。

 アジトに帰ってからの笹井さんの説明では、1号を降ろしたあとにすぐパトカーが近づいてきたため、駐車違反を恐れた笹井さんの奥さんの機転で、その場を動かざるを得なかったとのことだった。別に誰が悪いのでもなく、1号は見捨てられたのではなかったことも分り、もう一度胸を撫で下ろしたのだった。

 アジトでは後方支援部隊が作ったカレーライスが大量に用意されていた。

 心身ともに疲れ果てたたこ焼きマンたちは、バクバクとカレーを食いまくったのだった。

 食後は、体力も気力も充実していた疲れ知らずのソグラが、往年のお色気歌手・朱利エイコ(脚線美には定評があった。「北国行きで」は好きな曲だったが)が近年、日本で孤老死した話を提供。何故か、その話題で盛り上がった。最近の日本の芸能事情を知らない1号たちにとってはまさに「寝耳に水」の話だった。

 一服(休憩)したあと、明日の最終日に向けて一同は健闘を誓い合い、アジトを後にした。
 
 この日、サンパウロのホテルで宿泊した3号夫妻は、久々に子供たちに邪魔されない2人だけの夜を過ごした。2人がその後どうなったかは、誰も知らない。(つづく)


[今日の教訓]
 金は常に肌身離さず持っていること。1人取り残された時ほど、ケイタイの必要性を感じたことはなかった(未だにケイタイを携帯してませんが)。
  


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