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続木善夫 / 私の科学的有機農業論
     私の人生回顧録  (最終更新日 : 2009/07/11)
私の人生回顧録

私の人生回顧録 (2009/07/11) ブラジルに生き、農業と歩んだ五十年

私は生粋の農業生産者ではありませんが、ブラジルに渡って半世紀の人生を農業とともに歩んできました。その間の体験談を中心に小文を書いてみました。


  まだ農学部農芸化学科の学生の頃であった。昭和5年ブラジルに移住した伯父から手紙が来て、卒業したらブラジルに来いと誘いがあった。
1952年、第二次世界大戦で断絶状態にあったブラジルと日本の国交が回復し、伯父は早速サンパウロに行って私の呼び寄せ手続きを開始してくれた。その帰途、伯父の乗った飛行機が棉畑の中に墜落した。伯父の遺体を収容に駆けつけた上月実氏の話では、飛行士は棉畑に不時着を試みたようだが、そこには1メートル以上に伸びた棉の枝葉のなかに大木の切り株が無数にかくされていた。そのため、機体と共に十数人の乗客と乗務員の身体は無残にもバラバラに四散してしまった。

それを知って、私はブラジル行きをあきらめた。が、しばらくして従兄から連絡があり、父の遺志をついでブラジルに呼んでやるが、それからは自分で行く道を決めろというのである。

 1953年8月、単身でサントスに着いた私は一泊した後、迎えにきた従兄の車でプレジデンテ・プルデンテ市に向かった。


昼間は従兄の農場でワタとトウモロコシの植付から収穫までの栽培実習をさせてもらった。 仕事にも生活にも欠かせないポルトガル語は、日本で1年ほど手引書で勉強していたが、ブラジルに着いてからは、毎晩二時間、上月氏に3ヶ月ほど教えてもらった。その後小学校の校長に紹介され、簡単なテストを受けた結果、夜学の4年生に編入された。毎晩自転車で学校に通い、就職した時にはお情けで4年生卒業の資格をもらっていた。
 ワタとトウモロコシの収穫を終えた五月頃、上月実氏の紹介で、当市にあるコチア産業組合の支部に営農指導員として就職することができた。営農指導員とは名ばかりで在伯一年にもならない青年に農業指導ができるはずがない。


 当地の主作物は、ワタ、バレイショ、ラッカセイ、トーモロコシである。プ・プルデンテ市にある州農務局の支部に行ってみても営農指導に使える資料や手引書になるようなものは何もない。新来青年の私には、農家を指導する力もない。農協主任に頼んで、評議員久米氏の農場に住み、実地勉強をしながら、指導のための基礎つくりを勉強をすることにした。
 1954年11月、渡伯前に婚約していた花嫁(現在の老妻)がブラジルに来ることになった。その半年前、州立カンピーナスの試験場を訪問した私は、専門の土壌分析室の分析法が時代遅れであることが気になっていた。日本から最新式の器具一式を取り寄せることを考えていた私はこの機会を利用することにした。当時の分析器具の大部分はガラス製であり、これが輸送中壊れないようにする包装は大きな木箱である。一方花嫁の家財道具など当地の新居(久米農場住居の一室)には置く場所もないので、花嫁はほとんど裸一貫で分析器具と一緒にとついでくることになってしまった。
 1955年2月頃、農協に顔を出すと、ラッカセイが不作で大騒ぎになっていた。原因不明の病気がこの地帯一帯に広がり半作になった、というのである。農協では農務局に原因調査を依頼したが、未知のビルス病という返事で、何の対策も講じられなかったとのことである。よくよく聞き取り調査をしてみると、スリップスという害虫に間違いない。私の実験農場にもこの害虫が増え始めていたが、殺虫剤を撒布したので被害はなかったのである。この小さな害虫に侵されると、新芽が縮れて生育が止まってしまう。害虫は頂点の閉じた新芽の中にひそんで葉緑素をほじくりだし、新芽が開いたときにはすでに他の新芽の中に移り隠れているので、被害を受けた葉をいくら調べても害虫は見つからない。そのために農務局でも原因を突き止められなかったのだと思う。私の報告で支店長は驚き、その要請でこの時点から私と家内は町に移り、土壌分析室を作って本格的な指導の第一歩をふみだすことになった。
 指導の第一歩とは、多くの優れた農家を訪問して栽培法を教えてもらい、それを集計、分析して指導指針を作り、農協の組合員に伝えることである。
 当時、奥ソロカバナはまだ約30%の原始林残っていた。開拓して10年、20年、30年、最も古い農地でも40年であった。肥沃な砂質壌土で、開拓後20年は無肥料、30年では少量の肥料で生育するが、40年たつと化学肥料だけでは栽培しても赤字になるほど土地がやせてしまう。このような亜熱帯の砂質壌土で農業を長く続けるにはどうするかというと、輪作と緑肥栽培以外にはない。こう考えた私は州農務局をたづねて、専門家に数種の緑肥の種子を供給してもらい、栽培実験と指導を平行させた。
 この時代、まだ大型トラクターは無く、一般農家の面積も10~20ヘクタールで、多くは馬耕、20馬力程度の小型トラクターやトラックを持っているのは一部の農家に過ぎなかった。反面、借金をしている農家も殆どなかったように思う。
 
 在伯3年目には、奥ソロカバナで働く約30人の農業技師のなかで、ワタ、ラッカセイ、バレイショ、の栽培技術の指導では続木が一番と言われるようになり、各町の講演会に招かれるようになった。特に戦前、星名謙一郎の開いたアルバレス・マッシャードの各植民地は熱心で、主要作物の肥料試験、品種や植付時期、植え付け間隔の試験など、殆どの栽培試験は当地の青年会の協力で行い、これが栽培指導指針の基礎となったのである。
 日曜は、各町の日本人会の講演に招かれることが多かった。当時の青年達は日本語をよく話し、講演や会話では日本語が主体であった。
 かって、私を子分のように可愛がってくれたプ・プルデンテ農協支部長井上清一氏がサンパウロに転勤になってから、奥ソロを代表する隣町の評議員氏が農協の専務理事下元健吉氏に、日本人会での講演をやらさないように頼み込んだ。下元氏は私を呼びつけ、「こういう要請があるが、かまうことはない。どんどん日本人会の講演に行け。これによって組合員が増えるのだから」と逆にけしかけられるありさまであった。
 1957年9月、下元氏が脳溢血で急逝された。そのあと講演中止の話がむしかえされ、農協本部の農事部担当理事から中止を言い渡された。私はこれに反撥し、大議論の末農協をクビになった。私は気がつかなかったが、当時農協幹部は敗戦の認識派、日本人会幹部は大部分が勝ち組で、その評議員は私が勝組派に行くのが気にくわなかったのだと思う。
 その直後ある町の農協元評議員氏から誘いがあった。サンパウロ近郊にバレイショとトマトを作る共同農場を始めるが参加しないか、というのである。参加者は皆私が知っている4農家であったため私は賛同し、イタペチニンガの約80ヘクタールの農地に移転した。
 12人の働き手に見合った面積のトマトとバレイショを植えつけた。この年は大変な雨不足であった。不運な手違いは、潅水設備が間に合わなかったことであった。トマトとバレイショの一部は水分保持のよい低地に植えていたため、干ばつの影響が少なく、とくにバレイショは大豊作であった。が大部分のバレイショは高所の赤土の傾斜地に植えたいたため、雨不足で半作になった。当然、バレイショの値が高騰した。ヤレヤレ不作ではあったが赤字にはならないと一息ついたとき、州政府は暴騰した価格を抑えるため販売価格の上限を決め、自由に高値で売れなくなったのである。こんな価格制限は後にも先にも無く、私の知る限り、この時の一回きりであった。幸い不作のバレイショは種いもとしては最適の大きさである。ビルス病もなく良質である。私は奥ソロカバナに戻り、種いもを扱う知り合いの仲買商に種イモとして高価に買い取ってもらい赤字をまぬかれることができた。
 次期植付けの種イモを確保し、全員張り切っていた時である。突然の農場の明け渡し、全員立ち退き、を言い渡されたのである。販売を委託し、資材の支援を受けていた町の農産物仲買商が破産したのである。

 六人の働き手、トラクター、トラックを持つ田辺のトラさん一家は、別の農場を借地し、次期作のために残していた種イモを使い、再起を期す。独身青年二人は実家である農家に帰る。代表格の元評議員氏一家4人は、サンパウロで野菜の販売をしていた兄の事業に協力することに決まった。問題は私の一家である。私と家内、おさな子二人は路頭に迷うことになる。
 この時私は、農協時代にいくつかの農薬メーカーから誘いがあったことを思い出した。そのなかで、最も熱心に何度も誘ってくれたのがドイツのバイエル社のブラジル支社であった。サンパウロ支社に顔を出すと、その場で就職が決まったのにはこちらが驚いた。職責はセールスエンジニア。プ・プルデンテ市を中心に東西南北約200kmの範囲を担当することになった。
 一家4人でプ・プルデンテ市に舞い戻った。今までと違い、天井のある小ぎれいな借家に住むことができた。まもなく次女が生まれ、子供は3人になった。
 この時代、使われていた農薬の数はごくわづかである。農協時代から知っていた農薬は、BHC,DDT,ボルドー液、無機銅剤、ダイセン、無機イオウ剤。猛毒のエチルパラチオンが出始めたばかりで、入社まもなくバイエルがメチルパラチオンの発売を開始した。
 仕事は、各町にある農薬販売店の技術支援と販売支援をしてバイエル製品の売り上げをのばすことである。手始めに、各町の日本人会で説明会をすることにした。聴衆は農協にいた頃と同じ顔ぶれが集まってくる。そこで、ワタやラッカセイ、バレイショの病気や害虫とそれに対するバイエルの農薬の使い方と効果を分かりやすく説明する。そのあと、販売店を回って売れ行きを聞いてみるとバイエルの農薬が圧倒的によく売れるようになった、とどの町の販売店にも大変喜ばれた。
 販売店の要請で、病虫害問題で悩む農家にもその解決のために訪問することが多かった。2年目には、私の担当地域では病虫害についても続木が最もよく知っている技師という評判をとり、販売部員のなかでの売り上げは南米でトップ、経費は最低という成績となった。バイエルからの報酬は、農協の頃の2倍の月給に、担当地域での販売金額に対して1%前後のコミッションが加算される。2年目の末には、プ・プルデンテ市内に300平方メートルの新築住宅を購入することができた。
 3年目、1962年には販売能力ではブラジルの農薬業界で一目おかれる存在になっていたが、農薬の技術者としては、不満をもつようになった。おもな病害虫の処方箋はバイエルの農薬だけではできない、自分の良心に問い合わせ、納得できる処方箋を農家に提供するには他社の農薬も必要である、そのためにはどの会社のものでも扱える販売会社でなければならない。結論としては独立して販売会社を作る以外にない。バイエル社からは強力に引き止められたが、後継者を養成して1963年、やっと独立させてもらった。その時、バイエル社は、私の小さな販売店に卸問屋の権利と無制限のクレジットを提供してくれた。そのお陰で世界のどの一流メーカーとも大変有利な条件で取引することができた。
 新事業は順風満帆。1964年渡伯11年目、はじめて家族を連れて日本に里帰りができた。裸一貫で渡伯した戦後移住者が成功してはじめての里帰りということで、家内と子供二人が横浜についた時、NHKから取材され、テレビで放映された。半年後の帰路には、家内が日本でお産をしたので四人になっていたがハワイについた時も日系新聞の取材を受けた。
 家内が実家に着いた時には、汽車の駅に多数の人が出迎えてくれ、十年ぶりの感激の再会となった。今でも家内は自分の一生で一番嬉しかった思い出はこの時であったと述懐している。
 私は当時多忙であったので船は利用できず往復とも飛行機であった。この里帰りは二人の恋愛と渡伯で心配をかけた私の母と家内の父には最高のプレゼントであったと思う。
 その後も農薬販売会社は順調で、プ・プルデンテ市に本店を置き、1970年までに11支店を開設、不成績4店を閉鎖し、サンパウロ、パラナ州で7店を経営していた。支店長は全員戦後移住の農業技師で、各支店には5~7名の従業員がいた。
 
 1970年、私に大きなに転機がおとづれた。この頃から自然界の大きな異変に気づくようになった。1963年、私が農薬の販売会社を始めた動機は、農薬への絶大な信頼である。次々発明される新農薬によって、あらゆる害虫を撲滅し、世界人類の食料は確保されるであろう、という信念であった。ところが、どんなに良い農薬を使っても死なない害虫があらわれはじめたのである。1962年ドイツへ研修に行った当時でもバイエル社では新農薬として試作されるのは年間約三千。安全性、効果、薬害、価格などの条件をクリアして市場に出てくる農薬は一つか二つしかないほど研究と開発には時間と金がかかる。にもかかわらず、世界中の一流の化学会社全部で開発される新農薬に対抗して、害虫の抵抗性獲得の方が先行する。この事実を突きつけられた時私は大きな絶望感におそわれた。それまで私の生きがいであった農薬信奉がこなごなに打ちくだかれたのである。
 1968年、コーヒーのサビ病がブラジルに上陸し、忽ち全土に広がった。驚いた政府は国を支える主要農産物のコーヒーを守るべく、農薬による防除を督励し、農薬を撒布しない農家には農業融資をしないと声明した。この時期、農薬業界は好景気に沸き、前途洋々の感があった。。しかし、私は決心した。1970年、年間1万台近くを売っていた動力噴霧器と農薬販売をやめることにした。
 1972年、事業は百八十度の転換をとげていた。奥地にあった販売店は全部支店長に譲り渡し、サンパウロでは農薬と動力噴霧器の販売を中止して、動力草刈機の輸入販売で再生を模索していた。これは数年後成功したが、高率の税金がかかるようになったため、1978年日本の会社のノウハウの提供を受けて国産化することができた。
 一方、農薬を使わないで病虫害を防ぐのが私の新しい夢であり、目標であった。
 1972年、サンパウロ近郊コチア郡に8ヘクタールのシャーカラ(別荘兼農園)を購入し、無農薬栽培の技術を追求する実験農場とした。暗中模索、試行錯誤の連続であったが、5年後には、3ヘクタールの無農薬有機栽培の野菜、三千羽の産卵鶏、2台の配達用1トン車を持ち、13名の従業員で運営する農場が出来上がった。
 1979年、テレビ局と農薬業界代表との間で、農薬可否の大論争があった。テレビの画面には日本人の野菜農家が登場し、昨日農薬を撒布したレタスが、2~3日中には出荷されると説明し、そのあと司会者が、我々市民はこのように危険な野菜を食べさせられているのだ、と締めくくった。その翌日、中央市場セアザ裏のピニュエイロス川に大量の売れ残りの野菜が捨てられ、大騒ぎになった。後日、農薬業界代表は、農薬なしに野菜ができるのか、そんな農家があるのか、と反論し、私が探し出され、当時では唯一のプロの無農薬野菜の生産農場としてテレビで放映された。その後、農業技師協会の理事達の訪問を受けて技術の理論と実際を見せ、1980年には講師として招かれ、サンパウロでブラジル最初の有機農業の技術講習会が開かれたのである。
 その後、農業技師協会では有機農業部会を作ったが数年たっても進展せず、私の提案で、コチアのシャーカラ(農園兼別荘)にブラジル全土から有識者50数名を集め、ブラジル最初の有機農業協会が誕生した。発足当初は私の会社の一室を事務所に提供していたが、州農務局から事務所の無償貸与を受け現在にいたっている。このあと、ブラジル全土の各地に有機農業協会が誕生した。
 講習会のあとブラジル各地の大学農学部や農業団体から講演に招かれるようになり、この奉仕の仕事は15年間続けることができ、私の人生を大変豊かにしてくれた。
 1974年頃から、会社では無農薬栽培に役立つ資材の開発を始めていた。害虫や病気に犯されるのは、地力の維持を忘れて、化学肥料に頼り過ぎ、作物の生育に不適な生育環境を作るために抵抗力がなくなるのである。ということは、実験農場での実績と観察でも分かっていた。化学肥料で疲れきった土をよみがえらせる、そのための土壌改良剤の開発製造が第一目標であった。日本ではすでに堆肥の20倍以上の効果のある天然資材から造る土壌改良剤が販売されていた。日本の数社を訪れ、その原理とノウハウを教えてもらったお陰で2年という短時日で製造を始めることができた。
 もう一つ、太陽エネルギーによって有機物を合成する光合成、この能力を高めて作物の品質、収量を高め、病虫害を激減する生理活性剤の開発にも成功した。この二つの製品の開発で会社は成長し、1987年には、自己資金で100.000平方メートルの工場用地を購入し、工場を建設して新会社を分離独立させることができた。
 また、無農薬栽培技術の副産物としては、無農薬有機栽培のコーヒー園が増え、日本にも輸出を始めて15年になる。 

 以上、特殊技術の二つの分野ではパイオニアであり、後を追うように多くのメーカーが100社以上も生まれ、業界を代表する協会も設立された。 
 
 1992年、私は65才を迎え、この時を区切りとして事業は2人の息子と3人の幹部に経営を任せ、社長を引退した。以後15年を過ぎたが、借金せず、無理に大きくせず、お互いに協調し、幸せな従業員を育てる、という経営理念は守られ、会社はゆっくりと成長して現在にいたっている。

 ここで、これまでの人生で私が体得した生き方の基本、処世訓のようなものを述べてみたい。
 1952年、ブラジル渡航の認可を待ちながら、愛媛県三島西中学校の教師をしていた頃であった。尊敬する先輩の青年教師にすすめられ、桑原鶴という元外交官に教えを受けていた。桑原師は戦争前から米英を相手にまわしての戦争に反対していたため、アフリカ小国の大使に飛ばされていた。戦後は退官し、個人で塾を開いて戦後の青年教育に力を注いでおられた。師は、「今度の大戦に敗北した日本民族には、大きな欠陥がある。それを明らかにし、改善するのが日本の復興の道である」と言われ、国体明徴運動と名づけられていた。その一つとして、日本人は硬い木の枝のように折れやすい、玉砕はするが、暴風に巻かれても折れない葦のような柔軟性がなく退くことを知らない。君はブラジルに行けば、色々な困難にぶつかるだろう。その時、どんな困難にも耐え抜く忍耐力が一番ものをいうのだ、きもに命じておきなさい、と諭された。これが心の底に残っていたのか、後年会社が未曾有の危機に瀕したとき、また、誰も手がけていなかった新資材の開発に、亀の歩みのような粘り強さで生き抜いてきた底力になったものと思う。

 1970年頃、会社がつぶれるような危機に見舞われた。当時、会社の経営は農薬販売を減らし、主体は動力ミスト噴霧器に重点を置いていた。1964年頃から、この噴霧器が少量の水で農薬の効果を最高に出させるものであることを実験の結果確信し、ヤンマー社と一手輸入販売の契約をした。そしてブラジル向けに改良をしてもらいながら輸入していた。一般農家にはまだ使い方もよく知られていないので、輸入した機械は凡て十数人のセールスマンを使って農家に教えながら販売する方式をとっていた。そうして1970年頃は、販売店も徐々に増え、年間6千台以上売れるようになっていた。
この時、ツーサイクルのガソリンエンジンが新しいリードバルブ方式のものに変わった。長年の取引でヤンマー社には絶大の信頼を寄せていたので、なんの疑問も持たず、新方式の製品を売り続けていた。3ヶ月たった頃からクレームが出始めた。それが大きくなれば、大問題を引き起こすのが目に見えてきた。これは新エンジン方式のリードバルブの品質の致命的欠点であったが、ブラジルヤンマーも手の打ちようがなく、ついにエンジンメーカーの社長をブラジルに呼び寄せ、ブラジルヤンマーの社長と私の三者会談で対策を決めることになった。結論は、在庫の機械とすでに販売済みの約2000台を回収または出張して欠陥品のリードバルブを交換すること、輸送中の製品の支払いは交換が終わるまで待つこと、であった。
 私はこの事故をヤンマーのせいにして撤退する気持ちがは全く涌かず、どう解決するかを模索していたのである。販売中止は3ヶ月以上となり、大半の販売部員は辞めてしまい、残ったセールスマンはがむしゃらに部品交換に走り回るばかりであった。どう冷静に考えても立ち直れる見込みはなく、絶望感が増すばかりであった。
 その時ヤンマーの営業部長山田氏が私に一冊の本を貸してくれた。クラウド・M・ブリストル著「信念の魔術」である。この本は私に百倍の勇気を与えてくれた。信じて行えば道は開けるというのである。目標は、超特急で部品を交換し、農家や販売店に迷惑をかけないことである。日本では、急遽以前の方式のエンジンに切り替えていたので、ブラジルの不良部品の交換を終えて、新しいロットがブラジルに着いた五ヵ月後には再び販売を開始することができた。その間誰の資金援助を受けることなく、また顧客のクレームを受けることもなく営業をはじめられたのは奇跡と言うほかはない。この時の経験で、私は人間の思考の力、集中力、凝集力、がいかに大きな力を生み出すか、ということを体得した。
 この事故で会社の信用は逆に大きくなり、販売量は年間1万台近くとなった。私はヤンマー社に国産化を進言し、ヤンマー社はそれに踏み切った。2年目、販売は順調に進んでいたが、ヤンマー社は一手販売の条件を続ける条件として、「生産量は全量支払い責任を持って引き取ること、荒利益は販売価格の12%とすること」を提示してきた。
 それまで私の会社は、輸入価格FOBの2倍強で販売してきた。市場の出来上がった製品を販売店に任せて売るだけではない、市場開拓しながら、普通の動力噴霧器とは違うこの機器による農薬の使い方も教えなければならないのである。12%の粗利益では営業利益は出ない、と判断した私は、ヤンマー社に販売店への営業を引き継いでもらって撤退することを決意した。
 この頃、前述のように農薬販売に疑問を持ち始めていた私は、おかげで主力となっていたミスト機の販売と農薬販売を一気にやめる決心を固めることができた。
一時はヤンマー社の無情とも見えるこの提案に反撥する気持ちがあったが、後年振り返るとヤンマー社は私の経営大転換の恩人であるともいえるのである。
 
 1985年頃、私は友人や知人から、家庭も事業も順調、申し分ない人生を進んでいるではないか、といわれていた。しかし、心の中では何か空洞があるようなもの足りない気持ちを持っていた。20歳頃から、友人たちに刺激されて、西田哲学やマルクスの資本論、多くの人生論を読みあさった。そして、ホリネス教会に通ったり、禅寺に座禅を組みに行く生活を送りながら、自分の人生を模索していた。しかし、人間とは何か、人間は何のために生きているのか、という疑問にはついに答えを見出しえないまま、56歳まで無我夢中で生きてきたのである。満たされない心の空洞はそのためであったといえる。
 その年、伊藤さんという私と同年の風采のよい人物が私をたづねてきた。「私はあなたの農業観やお進めになっている農業技術に感心しています。ぜひ、あなたの会社で働きたい」と言われるのである。私「会社には販売部だけに空きがあるが、農業技師ていどの基礎知識がないと勤まりません。あなたには無理だと思います」と断ったが再三来社され、ついに根負けして、同氏の住むエスピリットサント州で仕事をしてもらうことに決まった。一千キロも離れた場所なので、必要な連絡は手紙ですることになった。
 私が興味を持ったのは、毎月送られてくる報告書には、必ず「ご指導ありがとうございます」というような感謝の言葉が添えられているのである。この人は宗教に深い信仰を持っているに違いないと考えた私は、サンパウロに来社されたとき、このことをたづねたところ「自分は宗教にはあまり関心がないのですが、モラロジーという学問を勉強しています」と数冊の(道徳と経営)という冊子を貸してくれた。それを読んで私は、自分が長年求めてきた「どう生きるか」と言う答えはこの中にあるのではないかと直感した。私が詳しい説明を求めると、「自分はうまく説明できないから、先輩の講師を紹介します」と引きあわされた。
 1986年2月、私は山の中にあるモラロジー協会のセンターで一週間の講習を受けた。その年の夏、日本で概説講座を受講し、翌年は学祖広池千九郎の著書「道徳科学の論文」を勉強する論文講座を2年間で分割受講した。
 これは人間を知り、幸せとは何か、人間とはどう生きるべきか、を研究した実践哲学である。この教えにより、私の経営理念は大きく転換した。
 それまでは無借金経営で、小さな利益を重ねていく堅実経営を目標にしていた。そして、社員にはプロ意識を持って仕事をする技能を身につけさせ、より高い給料を支払うのが、社員の幸せであると考えていたのである。本当は社長である私が従業員に養われているのであるから、これに感謝し報いなければならない。そのためにはプロ意識を持った仕事のできる人間にするだけでは不十分、品性の高い人間に育てねばならないのである。これがモラロジーでいう「人を育てる」ということである。会社は物をつくるだけではつまらない、幸せな人をつくりなさい、と広池千九郎師は言う。
 この頃会社の主力は動力草刈機の製造販売であった。ツ-サイクルエンジンも自社で製造していた。モラロジーに心酔していた私は、センター講座に毎回3~4名の社員を送り込んでいた。会社の幹部であるこの部門の販売部長、製造部長、購買部長は反撥し、3人とも会社を辞めてしまった。当然この部門の販売は激減したが、不思議なものである。会社の雰囲気は和気あいあい、従業員の顔つきにぎすぎすしたところがなくなり、おだやかなものに変わり、お互いに協力し合うようになった。そして、業績も着実に回復していった。
 
 光陰矢のごとしというが、私がプ・プルデンテ市から、サンパウロ市に来て小さな農薬販売店を開いてから、あっと言う間に42年が過ぎた。
 80歳になった今、私が心に決めている個人としての生き方は、あれもいらないこれもいらないと不必要なものは切り捨て、生活を単純化し、これからも誠をつらぬくことである。どんな場合でも誠心誠意で人に接することである。良心に恥ずることは絶対にしない。このことは、終戦の年、敗戦まで籍をおいた海軍兵学校の五省の第一番にある「至誠にもとるなかりしか」ということである。地位名誉の高い人や貧乏人にも同じ誠の心、思いやりの心で接する。判断と行動の基準は「得するか損するか」「好きかきらいか」ではない。私は問題解決の判断に迷う時には、広池千九郎師の言う人間生き方の五大原理、「自我没却」「慈悲寛大」「義務先行」「伝統尊重」「人心開発救済」を判断と行動の基準としている。
 
 会社の生き方としては、「大勢に反するものは滅ぶ。真理を守るものも滅ぶ。大勢に順応しつつ真理を守るものは残る(広池千九郎)」。ここからは次のような経営理念が生まれてくる。
 
 三方善しの経営(自己、相手、第三者〔顧客と社会〕ともによくなる)
 適正の利益で販売(暴利をむさぼらず、安売りもしない)
 無借金の経営(無理な経営をしない。常に30%の余力を残す)
 人を育てる(能力だけではなく、品性の高い人、幸せな人間に育てる)
 自然の理に基づく製品の開発(健康な作物を育て農薬を減らす技術開発)

 そうはいってもなかなか思うようには行かない。アメリカのサブプライム発の金融恐慌で世界中が振り回され、一流企業が軒並み赤字の現状である。私が会長を務める小さな会社も3ヶ月赤字が続き、この先いつ黒字に転換するかの見通しも立たない。しかし、これは改善のための大きなチャンスである。4年前、10ヶ月赤字が続いたことがあった。この時も組織の合理化で、翌年から3年間順調な経営を続けてきた。三年か五年に一度、経営を見直すには赤字が続いた方がよいのである。

 移民の歴史を振り返ってみると、140年前は、日本もやっとチョンマゲの時代が終り、明治維新を迎えたばかりである。その後わずか27年,38年後には、世界の大国、清とロシアに勝ち世界を驚かせた。日露戦争当時、ロシアと日本の国力の差は、兵力で20倍、国家予算も20倍であった。そして、第二次世界大戦後の荒廃から復興し、わずか30年後には世界第二の経済大国にのし上がった。この間100年の人類の歴史に残る驚異の戦勝や復興には、日本民族の持つ特性が発揮されたから、と考えられる。それらは、危機における一致団結、国のためにはおのれを捧げる滅私奉公の精神、思いやり、忍耐力、克己、正直、まじめ、勤勉、質素、倹約、親孝行など-、日本の国で育てられた日本文化のたまものといってよい。また、明治維新をやりとげ、日清戦争、日露戦争を勝ち抜いた奇跡の原動力には、表舞台で活躍した維新当時の志士たちの持っていた武士道-江戸時代に花開き、その末期に完結をみた武士道精神も大きかったと思われる。
 
 ところが、日本では世界の奇跡といわれた経済復興が成ったあと、日本でも日系コロニアでも同じ頃から堕落が始まった。長年培われてきた日本人の特性が失われ、時勢の変化に押し流されたのある。その象徴は日系社会で三大牙城といわれたコチア産組、南伯農協、南米銀行が消え去ったことである。その原因は何か。
 企業が永続し繁栄するためには、経営理念と目標が確立されていなければならない。そして、継承されていかなければならない。当然、その基本には三方善し、道経一体(道徳と経済はバラバラではなく、一体である)の思想がなければならない。現在のようにめまぐるしい速さで社会や経済環境が変化する世の中では、永続と繁栄の原則を忘れ、目の前の対策に振り回されてしまう。
 
 具体的に言えば、コチア産組の場合、一致団結、抜け売りをせず、危機には組合員が醵金または増資をする-こういった組合精神を忘れ、指導者も組合員も私利私欲のために組合を利用した。役員は銀行融資の10%をピンハネし、、種いも輸入では一箱4ドルを上乗せして、輸出側から受け取っていた、など多くの人が知っていた。
 中国の七聖人の時代、彼らが座右の器(ざゆうのうつわ)とした器がある。コップのよう器で、空のときには傾いているが七割ほど水を入れるとまっすぐになる。いっぱい入れるとひっくり返ってしまう。力いっぱいの仕事をするな、と言う戒めである。
 身の丈以上の事業をし、返せるメドが付かないほど借金をしおいこみながら尚狂気の拡大を続けていった。最後はセラード開発で、政府のセラード農業融資の特典打ち切り、日本の経済援助の打ち切りなどで資金がの行き詰まった。これらの大きな外因もあるが、筆者は、潰れた原因は以上のような内因にあると考えている。
  

 そもそも農業協同組合の目的は、生産物を協同で有利に販売するだけではなく、低い生産原価で品質収量ともに優れた農作物を作り、安定した利益を確保する技術を組合員に普及することである。これを忘れて地方倉庫の農業技師に農薬や化学肥料の販売を督励し、その販売量で評価するようでは、まともな生産技術が生まれるはづがない。経営理念を忘れた企業がどうなるか、100年の移民史が示す失敗の典型的な実例といってよい。
 
 南伯(スール)農協の場合は、「ブラジル日系社会‐百年の水流:外山脩 著」によれば、「スールが解散に踏み切った主因は二つあった。一つは銀行金利であった。金利があまりにも狂騰しすぎて、何をやっても追いつかなくなっていたのである。主因のもう一つは事業量の減少で、93年度で、かつての6割の6千万ドルにまで落ち込んでいた。組合員の組合離れや生産物価格の低迷による。」
 資産五千万ドル、負債総額三千数百万ドル、事業量六千万ドルの状況では、切り抜ける余地があったと思うのであるが、慎重堅実経営を伝統とするスール農協は、自主解散をして、資産を売り負債を清算すことになってしまったのである。
 私は、スール崩壊の原因はセラード開発に手を出したことだと見ている。農畜産業界でもっとも優れた企業として経済誌EZAMEで二度も表彰されたスールがセラード開発から生じた利子の狂騰で崩壊に追い込まれたのである。時勢の勢いに飲み込まれたといってよい。
 組合員離れは組合精神の欠如であるが、組合に魅力がないからである。前述のように、生産技術の指導がよければ、生産物の品質が良く、販売も有利となる。
 企業の経営は、開発-製造-販売-サービスがつながりながら進んで行くものであるが、このサービスに相当するのが生産技術の提供である。農業技師がいるだけでは役に立たない。この生産技術を組合員に伝え、生産物の品質と純利益に反映されなければならないのである。そうなれば組合員が離れることなくついてくる。また組合への加入する農家も増えてくる。これは私のコチア勤務時代の経験である。

 南銀の場合、バネスパ銀行(のちにスダメリス銀行)に身売りせざるを得なかった原因は、外山脩氏著書百年の水流によれば、
「南銀は1997年、上半期決算では二千二百万レアルの純益を上げていた。純資産は三億九千万レアルであった(為替は一ドルが一レアルをわづかに越していた)。
 同行は問題ある不良債権を抱え込んであり、特に長期大不況が続く農業界にたいするものが多かった。
 同年10月、中銀の監査が終了した12月、監査官が口頭で、要旨次のように伝えた。〔何銀には97年末で、三億四千万の問題ある債権がある。従って、相当分の貸倒引当金を積み立てよ。その結果、自己資本比率が減少、BIS規制を満たせなくなるので、二億五千万レアル増資して満たすか、他の銀行と合併せよ〕
 しかし、増資するとすれば、当時の南銀の資本金(二億三千万レアル)より多い金額であり、到底不可能であった。
 他の銀行との合併は・・・これは合併という言葉を使用しているだけで・・・実際は身売りを意味した。
 98年南銀はスダメリス銀行に・・・となる。」
 南銀が無念の涙を飲んで身売りせざるをえなっかのは、コチア、スールを始め日系コロニアの企業が作った不良債権のためであった、といえる。
 百年の水流によれば、「1955年から中銀による金融界の大切開手術がはじまる。その大切開手術は、政府系から民間まで大半の銀行を対象とするおおがかりなものとなった。
代表的なケースがコチア産組の巨額の不良債権を持っていたバネスパ=サンパウロ州立銀行である。その他も含めて、州立銀行は、中銀の介入により一旦国営化された後、片っ端から売り飛ばされることになる。
中銀は民間銀行については、PROERや行政指導により、不良債権を大量に抱え込んだところを、次々、身売りさせた。」

 ここまで書いてきて頭に浮かんだのは、それでは我々は今後どう生きるべきか、ということである。 
 
 私達は皆、日本民族の優れた特質を多少なりとも受け継いでいる。それに助けられて、ブラジルへの移民は成功した。アマゾンでは、他国の植民地造成はことごとく失敗したが、日本人は忍耐、勤勉、協調、団結力を発揮してついにアマゾン移民を成功に導き、今日のアマゾン繁栄の基礎を作った。日本人は単に勤勉なだけではない。勤勉努力を重ねながら、向上を目指して改良に改良を重ねていくところが、他の民族より優れ、苦難を成功に導いていくのである。特に移民が多く入ったサンパウロ州では農業生産の貢献度は大きく、ブラジル総人口94.508.552人〔1970〕に対し、同年の日系人口は659.189人、つまり0.7%の日系人が次のような驚くべき生産量をあげていたのである。

    日系農家の全伯生産量に対する生産率(ABETA-1964/65年度)

農産物         全伯生産量        日系人生産量(%)
イネ          1.770.288トン         4,2
バレイショ       1.263.812トン         41,0
トウモロコシ      9.408.043トン         2,3
トマト          553.270トン         5,8
鶏卵           649.840ダース        43.8
コーヒー        2.084.027トン         8,8
ワタ          1.770.288トン         13,7
ラッカセイ        469.641トン         21,2
チャ            6.221トン         92,1
絹糸〔繭〕         1.456トン         80,0
コショウ          8.600トン         82,0
ラミー           1.500トン         91,7
(ここには記載されていないが、野菜の生産比率は90%以上と推察される)

 この数字をみると、当時の日本人農業者がいかに気力に富んでいたかも分かる。そしてこれがブラジル農業発展の牽引車ともなったのである。

 我々日系人にこのような力を与えてくれたのは誰か?
 育ててくれた両親であり、祖先であり、日本と言う国である。また日本移民を受け入れてくれたブラジルという国である。
 ならば、日本の国に感謝し、ブラジルの国に感謝し、どうすればそれに報いることができるかを考え、実行するのが、人の道である。

 昨年は、100周年記念事業として多くのイベントが目白押しで盛況ではあった。が、一年がすぎれば泡のように消えてしまうお祭り的なイベントが多かった。これもそれなりの意義はあるが、長くブラジル国家社会に貢献するためには、日本とブラジルの架け橋となり、日本の歴史や伝統文化を伝え、その徳性を実生活で活かせる人間を養成する教育機関の設立であろう。

 幸い、ブラジルにはいくつかのすぐれた日系の学校がある。それらの日系学校では日本語と伝統的な日本文化だけではなく、日本民族が長年つちかい、近代の歴史に示された特性、すなわち協調、克己、忍耐、勤勉、まじめ、思いやり、正直、倹約、親孝行、など-これらの特性を幼児期から多感な青年期に教え、身につけさせ、更にブラジル人に感化を及ぼしていくべきである。
 残念ながら、まだこのような目的を持った大学はない。日系人は現在150万。その総力を結集すれば大学設立も夢ではない。理念と目的を確立し、賛同者の協力への意欲を引き出せば、必ず実現できると確信する次第である。
 
                         
                            2009/03/23


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