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続木善夫 / 私の科学的有機農業論
     私の有機農業残照録  (最終更新日 : 2009/07/13)
有機農業残照録

有機農業残照録 (2009/07/13)  私の有機農園が輝いていたのは、1990年までの20年間である。その後、借地に出してからは往年の面影もなく衰え、2005年頃からは残り火がチロチロ燃え残っているような、情けない現状である。しかしその間、私は貴重な体験をした。有機栽培ではわづか2000㎡でも4人家族が生活し、たまには家族で長距離旅行もできる安定した経営ができるということである。また、有機栽培では、35年野菜を連作しても、地力が衰えない方法を学び取った。今後の私の目標は、この残り火に息を吹き込み、再び小さく輝かせることである。
 
 1970年頃、私の心は大きく揺れ動いていた。長年農薬の効果を信じ、農薬こそ作物を病気や害虫から守り、人類の食糧を確保する最良の手段だと信じていた。が、この私の農薬信奉は、こっぱみじんに打ち砕かれたからである。どんなによい農薬を撒布しても、害虫は抵抗性を獲得し、農薬だけでは殺せなくなるのである。10社以上の世界で一流の化学会社が次々と新農薬を作るが、それに対抗して害虫には抵抗力が生まれてくる。次々に市場に出てくるすべての新農薬に対して遅かれ早かれ抵抗力を獲得するのである。新農薬の価格は驚くほど高い。病害虫との攻防戦では、農薬を武器として戦ったのでは我々の負けである。この事実を突きつけられ、農薬では病虫害は防げないと確信せざるをえなくなるり、農薬販売をやめることを決心した。1972年、私の会社は農薬関連の商売をキッパリとやめ、経営方針を180度転換し、農薬を使わずどうして作物を守る(戦うのではない)かという技術の開発とその資材の製造販売を目標に、一歩を踏み出すことができた。
 
 1973年、 サンパウロ州コチア郡に、7,8ヘクタールのシャーカラ(別荘兼農園)を購入した。無農薬栽培の技術研究のため、もうひとつは、自分の健康回復のためである。当時私は野菜や果物をほとんど食べなかったので、血液が酸性になり、不健康な身体になっていたのである。
 早速、試しにトーモロコシを化学肥料を施肥して植えてみると、1メートルにも生長せず収穫ゼロ。鶏糞を2kg/m2施肥すると、トーモロコシが何とか生育することが分かった。
 1974年頃、農場正面にアスファルトが開通した。市の要請で道路拡張のため2000㎡をコチア市に寄付し、農園の面積は7,6haとなった。
農園の前所有者のFausto Cardoso 氏はブラジル銀行の支店長で、週末を過ごすための別荘を建て、産卵養鶏、肥育豚を飼育していたが、鶏はニューカッスル病で全滅。売りに出されていたのを私が買いとったものである。
 農場の東側の境界は水がにじみ出る湿地帯で、耕作は不可能。40mx70mの池が一つあったが、約1haは使い物にならない。のちにこの区域は大小11の池を作り、養魚兼釣堀の池となった。この上の中央部の1haは平で傾斜なし。土は黒褐色ポドソ-ルで、下層土は褐色~灰色のカオリンを多く含み、耕作には良くない土であった。が、まったいらで試験地としては申し分なし。ここを試験地とすることに決め、鶏糞堆肥を得るために産卵鶏を飼育することにした。
 農園には既に8mx30mの鶏舎が5棟と雛飼育用が1棟あり、これを利用して3000羽の産卵鶏を平飼いで飼うことにした。1㎡当り4羽、床には枯れ草かカンナ屑を敷き詰めた。成鶏になってからは、毎月3トンの鶏糞、鶏糞堆肥としては3,6トンを得られるのである。野菜の栽培面積は最大2,5ヘクタールと決めていたので、最後には余るようになり、その分は販売することになった。
 最初はレタスをはじめ野菜やトウモロコシなど10種類に鶏糞堆肥をどう使うかを研究し、上手に使うと病気や害虫がつかないことが分かった。一年後には、自家用と数人の友人知人に配っていた。
 1978年、佐藤光男さんが入園した。佐藤さんは、私がコチア農協の指導員をしていた1954年~59年頃、プレジデンテ・プルデンテのとなりのアルヴァレス・マッシャードでは、バレイショとラッカセイの栽培ではそれと名の知れた篤農家で、何度か農場を訪問して教えてもらったこともあった。私がサンパウロに移り無縁になってから、彼が友人に誘われてパラナ州でワタの大農場を共同経営していることは噂に聞いていた。
 この年、私が日本に行っている間に、別荘として使っている農場の大邸宅に転がり込んでいたのである。わけを聞いて見ると、農場が破産し借金に追い回されて逃げてきたという。後輩であり、私の会社で働いていた坂本きよゆき君が「続木さんなら知らない仲ではないし、留守の間に連れてきても文句は言わないだろう」と連れてきてくれたとのことである。
 当初は、借金取りに追われる夢でも見るのか、夜うなされことが多く、健康状態も最低で仕事ができず、無理をしない程度に別荘周りの草取りをするだけであったが、半年ほどして健康が回復すると、鶏の世話や野菜作りを手伝えるようになった。
 元気を取り戻すと、さすがに往年の篤農家である。忽ち私がカマラーダ(農村労働者)を使って作っていた野菜は見違えるように見事に生長するようになった。
 そのうちに日本から、上中秀明君が日本から移住して入園した。同君の到着を待ってミクロトラットール(小型耕運機)を購入し、有機野菜の栽培と養鶏を本格的に始めることになった。
 1年後には、1トン積みのワゴン車を使い、毎週2日80家族以上の消費者と契約して毎週配達するようになった。配達用コンテナーは幅33cmx長さ52cmx高さ28cm     の大きさで、価格はインフレに応じて一年二度の調整をするが、市場価格には左右されず、約6ヶ月は同じ価格である。この方式では、値が市場で買うよりも30%高かったが、消費者には大変喜ばれた。味も見かけも良く、保存がきく、しかもビタミンやミネラルの含有量は30%~100%高いことを説明し、季節季節の野菜の医学的な効用を書いた冊子を作って配布した。
 始めの頃は、家内が朝早く起きて農園に、出かけ、野菜を洗ったり、箱詰めを手伝い、配達は長男と下宿していた長男の友人の大学生が土曜と日曜に運搬した。 
 野菜はレタス、ニンジン、ネギ、サルサ、チコリー、キャベツ、ブロッコリー、ダイコン、カブ、ビート、インゲン、ハクサイ、赤カブ、などは周年栽培、夏にはキュウリ、ナス、サトイモ、冬だけに栽培するのはハナヤサイ、エンドウであった。バレイショは8月に一回のみ植えつけた。シュンギクやゴボウも一年に数回配布し、農園内にすでに植えられていたカキとクリ、パラナ松の実はサービス品として差し上げていた。
 1980年には、ワゴン車を2台使い、運転手と新来青年の上中君が120家族以上の消費者と約5軒の自然食品店に配達できるようになった。この頃には、電話で毎週の注文を確認するための事務員もおいていた。
 この年、テレビ局と農薬業界代表との間で大論争があった。テレビの画面には日系人の野菜作りが登場し、昨日農薬を撒布したレタスは2~3日中には出荷すると説明し、その後司会者が、我々市民はこのように農薬汚染の危険な野菜を食べさせられているのだと締めくくった。その翌日にはセアザ(中央市場)の裏の河には大量に売れ残った野菜が投げ捨てられ、大騒ぎになった。そのあと農薬業界代表は、「農薬なしに野菜ができるのか、そんなプロの農家がおるのか、おれば連れて来い」と反論し、私が探し出された。そして、サンパウロで無農薬野菜を2ヘクタール以上作るプロの生産農場としてテレビで放映された。
 まもなく、サンパウロ農業技師協会の理事数人の訪問を受け、無農薬有機栽培の理論と実際を半日かけて説明した。協会の理事達は敏感に反応し、間もなくブラジルで最初の有機農業講習会が開かれ、講師として招待された。
 1980年の第一回講習会のあと、ブラジル全土の各地に、有機農業の研究グル-プが誕生した。そして私もそのあと、1995年頃まで、北はアマゾンのベレンから南はウルグァイに近いペロッタスまで、有機農業の講習会や講演会に招待されてブラジル全土を歩くことになった。
 1981年3月、浦ひろし君家族が入園した。浦君はパラナ州アサイでワタ作りをしていたが失敗し、破産状態となっていた。そこを知人に紹介されて移ってきたのである。 
 佐藤、上中のコンビは従来どおり、浦君夫婦と3人の労働者の増員で栽培面積が増え、販売組織も一層充実して、農園はいくつかのテレビ局と数社の農業雑誌で広く紹介され、名を知られるようになった。
 浦君入園の際、私はこの農園を有機農業の実習農園にしようと考えていた。そこで入園者は、ここで有機農業の技術を体得し、3年後には独立する。その間の契約は、パルセリア(歩合作)である。私が土地とミクロトラットール(13馬力小型耕運機)と潅漑設備、鶏糞堆肥、住宅を提供し、販売とその経費は私の負担。メエイロ(歩合作者)は、生産のための人件費を負担する。販売以外の経費である電気代、燃料費、タネなどの資材費は折半する。毎月の終りに利益を計算し、五日後に純利益を支払う。簡単な経理の帳面に毎日金の出入りを記帳しておけば、月末の日の翌日半日もあれば、計算ができるのである。浦君入園以来、三代にわたるパルセリアで、赤字になる月はなく、無借金の小農園経営のノウハウが得られたのは大きな収穫であったと思う。
 浦君には最初から私の目的を伝え、三年後には、潅漑設備一式、小型耕運機、中古の運搬車を買って独立するように言い含めていたので、同君も私の要望によく応え、半年ほど遅れたが、予定通り一式を買い整えて近所に借地をして独立を果たした。この期間、町に住む両親と成人近い息子や娘を町の学校で勉強させ、男としての義務も立派に果たしていたのである。
 入れ替わって入園した白石こういち君は二世である。奥地でトマトを作っていたが、うだつがあがらず、年老いた母親と知能遅れで仕事のできない妹を抱えて四苦八苦していたのを、知人が連れてきて入園した。一世の浦君とは違って、金がたまると小旅行をして人生を楽しんでいた。同君も同様に一式を買い整え、1988年借地農として独立した。
 三代目、中嶋はるゆき君は、根っからの野菜農家出身である。彼の兄の小さな有機農場を助けていたが、彼の将来を考えて独立させるべく、私が農園に連れてきたのである。
 これまでの入園者でプロの野菜作りは一人もいなかったので、彼の作業、特に収穫後の洗浄や荷作りを見て見事な手際よさには関心したものである。予想外であったのは、ブラジル人の労働者を使ったことがなく、一緒に移ってきた母親が大のブラジル人労働者嫌いで、農園内ブラジル人家族とうまく付き合えず、一年をまたず人間関係で挫折。兄の所に戻っていった。
 この頃、会社も次第に成長し忙しくなってきたので、私もいつまでも農園経営に多くの時間を割くことができなくなり、借地に出すことを考えていた。
 1989年12月、ブラジル人Jeferson君が有機農園の借地農を申し出できた。同君は農学部の学生時代から、休暇には農園に止まりこんで実習していた熟知の間柄である。3年近く働いたあと、父親の援助で農地を買い、独立した。そのあと、市役所に勤務しながら、有機農園を経営し、私と同じように二役を兼ねながら優れた指導者に育っていった。
 1996年3月、Dito君が舞い戻ってきた。Ditoは白石君が連れてきたカマラーダ(農業労働者)で、同君が日本にデカセギに行くまで一緒に働いていた。同君がいなくなってからは、他の農場で働いていたが、私の農園に来て借地をしたいという。私の借地形式は他と異なり、化学肥料と農薬ゼロの有機栽培が第一条件。そして毎月一軒の家賃と、農地、潅水設備、耕運機の賃貸料を支払うのである。
 契約期間は今までと同じく3年であったが、8年半も居座ってしまった。その間、車は営業車と自家用車の二台を買い、耕運機も買った。有機野菜の市場でも有力な生産者の一人に生長していたが、最後は普通の野菜を買って有機野菜と偽装販売したため、有機農業協会と市場から放逐されてしまった。現在野菜を作りながら、仲買人としても健在である。
 
 1989年、ブラジルで最初の有機農業協会が発足した。1980年に始めての有機農業講習会がひらかれてから、間もなくサンパウロ農業技師協会の内部に有機農業部会が生まれたが、そのあと何の活動もしておらず、有名無実の存在となっていた。それを見てあるとき協会の理事理事たちにに有機農業協会の立ち上げを提案し、私のシャーカラに全土から53名の有識者を呼び寄せ発会式を行った。
 最初は私の会社の一室を事務所にしていたが、サンパウロの農務局が敷地内の建物の二室を無償で貸してくれ、本格的な活動が始まった。 のちには、同敷地内に有機野菜市場のための大きなドームを貸与された。
 会員は急速に増え2004年には2300名に達したが、それ以後の活動は発足初期10年のような活気がなく緩慢である。
 2006年、ブラジルの農業法のなかに、有機農業規約が設定された。この規約は国の農業法として設定される10年前から、協会創立から参加していた二人の大学教授(Ana Maria Primavera氏, Adilson Pascoal氏) と私の三人の委員会で先進五ヵ国の有機農業法を参考にしてブラジルに適した規約を協会で作り上げていたが、国法として設定された時には、三人は現役の役員から退いていた。
 私がみろところでは、この農業法は先進ヨーロッパの模倣に過ぎず、ブラジルの気候や土壌には、規制の項目が多過ぎ適さないものである。「角を矯めて牛を殺す」行き過ぎた規制がブラジルでの有機農業の普及をさまたげているのである。

 2006年3月、農場の一角で、野菜の包装工場が発足した。
 動機は、Luis Poli君の発案である。同君は、土壌改良剤と生理活性剤を開発製造する私の会社Technes Agricola Ltdaの販売部長であった。前年心臓疾患を発病し、退職することになった。半年ほどたった頃、私のところに野菜の包装工場の構想を持ち込んできた。近年高級スーパーマーケットで急速に売れ始めた100g~200g(レタス)に包装された野菜である。果菜や根菜では400~700g入りである。レタスのような葉野菜などは葉を一枚一枚洗浄し、有機酸で防腐処理をしてプラスチックの袋に包装して販売するのである。5kg単位の包装は、レストラン向けである。その緻密な計画書に私は関心した。同君の希望で農場内に工場を建設し、有機農園込みで貸与することになった。
 大量の水を使うので、水道水を使ったのでは経費高で赤字になる。私の農園のような都会から1~2時間の距離で、井戸水や掘抜き井戸の水をふんだんに使える場所は理想的といえる。
 農場担当は3人、洗浄包装要員は7~10人、配達運転手2人、経理2人、販売はLuis君が自分で走り回って注文を取った。小売用小袋は後回しにして、5kg入り包装一本になった。
 最初は手で洗って、包装は機械でしていたが、軌道に乗ってくると間に合わず、洗浄機も導入した。包装した野菜は一旦保冷庫に入れて数時間冷やし、それからトラックで配達するのである。野菜は農園の有機野菜だけでは足りないので近くの農園から買い集めたが、有機野菜は高価で使えず、普通栽培のものを買わざるをえなかった。それでも近辺の農場は鶏糞と化学肥料を使って低農薬で栽培する農園が多く、味が良いので評判が良く、一年を待たず利益が出るようになり、急速に生長して2年目には業界でも注目されるようになった。
 或る日、大口の客からクレームがあった。袋のなかに虫が一匹見つかったというのである。続けて他の客からも同じクレームがきた。急成長のために、2交代制にしていたが、それでも超過勤務が続くと注意散漫になる、その結果ではないかと思うのである。
同業者には相当嫉妬されていたのだろうか、すごい逆宣伝で叩かれた。3人の大口顧客がキャンセルし、一転赤字に転落した。私ならネバリ抜いて挽回を図ったと思うが、Poli君はこの状態が半年続くと会社は潰れると判断し、保冷機、洗浄機、包装機などを売り、撤退してしまった。そのごテクネス社に出資してもらって、近くのアチバイア市に同社製品と肥料、タネを販売する立派な販売店を経営するようになった。
 
 Luis Poli君が包装工場を閉めた時、有機農場の栽培担当にMoacyr君がいた。彼は近くの日本人野菜農家のカマラーダであった。本人の希望で今度は借地農として出発することになった。
 Moacyr君は、40才であるが、これまでは農家のカマラーダとして働き、貧乏な生活を送ってきた。子供が一人いるが、大酒のみで酒乱。子供を虐待して家庭争議を起こし、裁判官から別居を命じられ、改心するまで観察されることになっていた。私の農園にきてからはLuis君の教育が良かったのか酒をやめ、一年前にやっと同居を許され、農園内で奥さんと子供と同居するようになっていた。
 借地農として独立すると、俄然土曜日曜も休むことなく働き出した。同君は、黒人の肌であるが、痩せ型小柄なぶ男といってよい。奥さんは美容師をしていた白人で、中肉中背の美人、なんとも不思議な取り合わせである。奥さんは畑の仕事は一切手伝わない。Moacyr君は普通の日はハダシ、雨で冷え込む時だけ、足に靴下ははかず、プラスチックを巻きつけて長靴をはいて農作業をする。徹底した根性というべきか。
 10ヶ月間、苦闘の末、やっと一人では野菜はできてもどうにもならないことが分かり、また有機農業に自信がついたのか、前にた農場の同僚の家族四人を呼んで来て、本格的に有機栽培に取り組むことになった。私に面積拡張すべく申し込んできたので、全盛期と同じ2ヘクタールを栽培する契約更新に同意した。
 これから、有機農業で彼の人生がどう変っていくか、見守っていくのが私の楽しみである。

 私はこの農園では、神様から大切なことを教えてもらった。
 やせ地で長期間野菜を連作しても地力が落ちない方法である。結果的に、今まで36年間、一年に最低三作、野菜を作り続けても地力は落ちない、レタスなら1000m2当り4~7トンの収穫、しかも無農薬である。野積みにしたリグニンの多い半熟鶏糞堆肥を上手に使うだけの、これ以上省略しようのない簡単な、誰にでもできる農法なのである。

 今までに、有機農業で最低何平方メートルあれば、食べていけるのか、教えてもらったことがあった。
 1996年、借地農として入園していたDito君が連れてきたカマラーダにDedé君がいた。奥さんと子供二人の家族持ちである。カマラーダのままでは一生ウダツが上がらない生活に嫌気がさしたのか、ピンガ(サトウキビ焼酎)漬けになり、クビになってしまった。私に泣きついてきたとき、誰も作りたがらず放置されていた場所で作らせて見ようと思いついた。どうだと話しかけてみると、ぜひやらしてほしいと言う。私は厳しい条件を出した。家賃、電気代、借地料、も面積当りの計算ではDito君と同じように払う。
 土は下層土から陶芸に使える灰褐色のカオリンが出る最低の土地2000m2である。酸性土壌で、酸度を矯正しなければ、トーモロコシは化学肥料だけでは草丈1メートルにも伸びず、収穫皆無となる土である。ところが、鶏糞堆肥を施肥すると、これだけでレタスでも生育することは経験していた。最初は普通の二倍量の鶏糞堆肥を施肥して何とか出荷できる野菜ができるようになった。
 販売は、農務局のなかに有機農産物市場のボックスの一部を借りてそこまで運んでもらう。Dede君が運搬車で同行して、売るのである。品質がよいので固定客ができ、利益が残るようになった。二年目には家族四人で、バスで二日掛かる北伯の故郷まで家族旅行をし、小型中古車を買った。三年目には故郷に将来建てる住宅用地を買うこともできた。彼が、ひどいやせ地で一家四人を支える農業を有機農業でできることを証明してくれ、私に大きな喜びをあたえてくれた。
 残念ながら、同君はある日の夜中、酔っ払って大木に車をぶっつけ、足を折ってしまった。数ヵ月後ついに農業を続けることを断念し、故郷に帰っていった。

 多くの人がこの農園を通り過ぎて行った。日本の有機農業研究会の会誌に掲載された私の記事や日大教授来米速水(くるめ・はやみ)著世界の自然農法での私の農園の取材記事を読んで、日本から10数人の若者が次々と農園に泊まりこんで2ヶ月から一年まで実習を続けていった。
 1980年代、岡田茂吉財団MOAの河合(会長?)、松本両氏が数人の随行員を伴って来園された。これが縁となり、訪日の際には熱海の美術館や自然農法の大仁農場に案内され、大変な歓待を受けた。
 今まで数人のプロの農家がこの農園で野菜の有機農業を体得し、独立して行ったが、プロの葉野菜栽培農家は一人もいなかった。
 最近、宮野はるみ君が入園した。同君は1957年、愛媛県から家族で移民し、30数年サンパウロ近郊で野菜作りをしていた。Ceasa(サンパウロ中央市場)の仲買人の間では名の知られた野菜作りの名人であった。数年前、2ヶ月農場に居たことがあったが、その時の農作業の速さ、手際よさ、仕上げの美しさには感心していた。その同君が訪ねてきて、私の夢、観光有機農園の実現に参加したいというのである。
 有機農業の畑は、輪作を主軸にして、10数種類の作物と雑草との共生も大切にするので、普通の畑のようにきれいではないが、雑草をコントロールしながら、みごとに育つ畑、これはまさに芸術品である。そこからは生命力がほとばしる、人に感動を与える、そういう畑を作りたいのである。
 。
 その次には、貸し農園もやってみたい。25㎡ あれば、4人家族が一年中食べる葉野菜には不自由しない。宮野君の有機農園を見て、やってみたいという人には、1区画25㎡に欲しい葉野菜、果菜、根菜を植える、指導員付きの貸し農園である。週日仕事その次には、貸し農園もやってみたい。25平方メートルあれば、4人家族が一年中食べる葉野菜には不自由しない。宮野君の有機農園を見て、やってみたいという人には、1区画に欲しい葉野菜、果菜根菜を植える、指導員付きの貸し農園である。週日仕事に追い回され、精神的にくたくたに疲れた町の人間には、最高のストレス解消法ではないか。 
 
 今私は更なる小さな夢の実現に向かって進んでいる。観光農園である。
 
 1985年には、シャーカラに1,5ヘクタールのPet-zooが生まれていた。名のとおり、小動物園。10種類以上の家畜を飼育して、幼稚園から小学校の低学年の子供達の教育用動物園である。小動物では、モルモットやウサギ、アヒル、アイガモ、中動物ではブタ、ヤギ、ヒツジ、クジャク、大動物は乳牛、水牛、馬、など。
 創始者は、北欧系の25歳の妙齢の美人。青い目、金髪でスタイルも良い。名はCaterineという畜産技師である。父親はパリ大学農学部の出身、家族で移住してきて、ブラジルではカンポス・ド・ジョルドンという高原の町で果樹を栽培している。
 私がCaterine嬢に渡したのは、二棟の古い鶏舎と倉庫、大木に育った数本のクリとカキの木、パイネイラ(ワタの樹)など数本の大木、広い芝生、であったが、これらの木を上手に利用して、は造園の設計技師に依頼して公園のあちこちに動物がいる見事な小動物園に作り変えた。
 週日には学校の生徒たちが専用バスでやってくる。
土、日曜、祭日には一般市民に有料で開放する。宣伝が効いたのか、始めから盛況で休みの日には300~500人が来園する。子供たちは、モルモットやウサギの子、ブタの子などを抱かせてもらい、園内のレストランで家族で食事をし、遊園地で遊んで帰るのである。
 数年してCaterine嬢が結婚した。2年か3年経って子供が生まれた。ところが、である。家庭争議が持ち上がった。結婚相手は時間に自由がきく若手弁護士であるが、Caterine夫人は旦那に子供を押し付け、相変わらずPet-zooにのめりこんだままである。ついに旦那が、私を取るか、Pet-zooを取るか、と果たし状を突きつけた。Katerine夫人は泣く泣くPet-zooをあきらめ、後継者を見つけて譲り渡した。後継者のRapfael君は大へん経営感覚にすぐれ、レストランや遊園地の設備を改善して、最近の経済危機にもよく対応して黒字経営を続けている。
 
 園内には、稚魚の養殖と販売をする4つの池と釣り堀用の8つの池がある。周辺には芝生を敷きつめ、2つのランショネッテ(軽食堂)ある。家族でストレス解消のために週末を過ごすには、とてもよい場所である。敷地はPet-zooと同じく約1,5ヘクタールある。

 今、私の小さな夢は以上3つを組み合わせて、今コチア市が計画している農村観光に参加して観光スポットの一つに仕上げることである。 
 

 
                                     2009/07/14


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続木善夫 (岡村淳) :  
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