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続木善夫 / 私の科学的有機農業論
     無農薬栽培技術  (最終更新日 : 2009/07/26)
無農薬栽培技術-無農薬~超減農薬、高品質、低コストのために

無農薬栽培技術-無農薬~超減農薬、高品質、低コストのために (2009/07/26) 2001.4月

序章  新技術「病虫害の生理的防除」の理論
農薬信奉から無農薬への道

1.「病虫害の生理的防除」はどうして生まれたか

その1-農薬商売との決別

 私が長年やってきた農薬商売、それも大変順調に儲けて、業界でも一目置かれていた好調な商売を思い切りよくやめられたのは、20年に及ぶ自然の観察から得られた開眼によるものであった。
 農薬との本格的な関り合いは、南米最大の日系農業組合の技師を辞め、1959年、バイエル社に入社してからであった。同社でプロとしての知識と経験を積み重ねるうちに、病虫害を効果的且つ経済的に防除するにはバイエル社だけの製品で防除するのは不可能だということに気づき、1963年会社を辞めて独立し、小さな販売会社を設立した。バイエル社の後援で問屋として優遇され、その信用のおかげで他の世界の一流会社とも有利な取り引きができ、独立後三年目には自社屋を持てるほどになった。そのうち、農薬の効果を最大に引き出すには防除機の性能も欠かせないものであることが分かり、動力噴霧器、ミスト機、スピ-ドスプレイヤ-など性能検査や輸入にも力をいれ、販売量は年間1万台を越えるようになった。
防除技術については、技術者が現場に密着し、農薬が効かない場合は種類を変えるなど、あらゆる手段をこうじて対応することを、会社の基本方針としてきた。ところが、農薬ではどうしても防除できない事例がだんだん増えてきた。それまで教えられてきた抵抗性の仕組みとは違う別の原因があると考えざるをえない。その頃1970年当時、農薬商売はうなぎのぼりの好調期であったが、技術者としては農薬で解決できない病虫害事例の増加は、不安このうえない心境にならざるを得ない。
ここで、1954年来の農業人生を振り返ってみた。農協の指導員の時は土壌肥料に熱中するあまり、移住してきた家内の荷物は、ほとんど全部友人に調達してもらった土壌分析の器具(当時ブラジルには滴定法のミクロ分析器具はなかった)であったため、家内の嫁入り道具は衣類だけ、という哀れな状態であった。私の勤務先のプレシデンテ.プルデンテ市は南緯22度、標高450m前後の、亜熱帯の肥沃な砂質土壌(平均値として粘土7%、粗砂細砂70%,シルト23%)である。原始林伐採後20年間は、棉、トウモロコシなど無肥料で栽培できる。その頃、この地帯にはまだ20~30%の原始林が残っており、伐採後、10~40年の農地が多かった。有機物の分解が極めて早く、伐採後20年で1.2~1.5%、30年で1.0~1.2%、40年で0.6~0.8%、という分析結果であったのを今でも覚えている。
 有機物含量が1%以下になると、いくら化学肥料を使っても、利益の上がるまともな収量には回復しない。そこで、私のとった指導の基本方針は、土壌浸食を防ぐ等高線栽培と緑肥栽培(4年に1度)と輪作、それに少量の化学肥料を使うことであった。農薬散布も、棉やジャガイモの特定病虫害に限定していた。
当時、農薬肥料の売り上げは微々たるもので、農協の経営資金はもっぱら生産物の販売委託料に頼っていた。
1958年、農家への指導方針で上司と対立し、農協をクビになった。私が農協をやめてからは、農協の指導方針は大きく変わり、緑肥栽培は次第に忘れられ、生産技術は化学肥料に頼るようになり、地力の低下に拍車がかかるようになった。農協を辞めてから7年目、私は地力低下による当地帯の将来を予測し、拠点をサンパウロに移した。しかしこの時点では、まだ地力と病虫害の関連性は明確には掴めていなかったが、棉の斑点病、馬鈴薯の輪紋病、落花生の斑点病(Cercospora)、など腐植含量が高い畑では発生せず、地力の低い畑には必ず発生するという、相関関係のハッキリしたものもあった。
 サンパウロに拠点を移してからは次第に行動範囲も広がり、北はアマゾンから南はウルグァイ国境の州まで、色々な作物や自然の原野、原始林を見て歩くことが多くなった。
 こうして観察を続けているうちに、自然の原始林や原野には、イナゴの異常大発生と大移動か、大きな天候異変の時以外には病虫害の被害が無いことが分かった。また畑作物の場合も、特定病害虫(例えば、ジャガイモのベト病、キュウリのウドンコ病、ナス科ウリ科作物の萎ちょう病など)以外の、昆虫や微生物による病虫害は、すべて土壌のアンバランス、施肥の誤り、中耕で根を切り過ぎる、急激な温度の変化、土壌の異常な乾湿、など、植物体にかかるストレスが限度を越えた場合に起こる。特定病虫害でさえも、ストレスを避けることによって被害を大幅に軽減できる。意外であったのは、農薬のかけすぎもストレスとなって、他の病虫害が発生することであった。
この時点、1971年頃になってやっと、農薬の効力の限界を痛感し、農薬だけでは病気や害虫は防げない、植物を取り巻く環境が限度を越えて悪化した場合は、農薬による防除も効果がないことが分かった。また一方では、世界各国の農薬会社からは新農薬が次々に開発されるが、病虫害は増え続けていく。これらの事実から自分なりに、農薬だけで病虫害の防除は不可能である、この病気にはこの殺菌剤、この害虫にはこの殺虫剤といった農薬だけの対症療法は間違っていた、という結論に達し、農薬と防除機の販売中止を決意した。幸い、1~2年は何も売らなくても会社を維持できるだけの余力があったので、1972年の半ばには農薬と防除機の販売から完全に撤退することができた。

その2-有機栽培30年

 ここまでは農薬づけの農業人生であり、これ以後は、農薬を使わないでいかに高品質高収量を実現するかを追求してきた。この時点で私の人生は真っ二つに分かれたといってよいと思う。防除機と農薬を売らないでどうして会社を維持したかというと、動力草刈機と土壌改良剤の輸入に切り替えたのである。当時は何れも市場での販売量はゼロに近い状態で、市場作りからはじめたのであるが、順調に販売が伸び、数年後には動力草刈機、生理活性剤もあわせて国産化することができた。
 一方1972年に、無農薬栽培の実験農場として約8ヘクタ-ルの土地を購入し、山岸式養鶏を基本にして産卵養鶏とブロイラ-の鶏糞で有機肥料を作り、うち3 haの畑で年間約30種類の野菜の周年栽培を開始した。この農場はブラジルの有機栽培の草分けとして発足し、現在も安定生産高収益の農場として続いている(来米速水編著-世界の自然農法に記載。1984年)。病虫害は結果であって原因ではない、という、生理的防除法の基礎になる考えは、この農場での体験が最も大きかったと思う。鮮明に記憶に残っている一例を紹介しよう。ある年、紋白蝶の大群が空を覆うばかりに飛来した。蝶の大群が通りすぎたあと、キャベツの葉の裏には無数の卵が生みつけられていた。この時点では、有機農業を始めてすでに数年立っていて、無農薬での害虫防除には相当自信を持っていたのであるが、さすがにどうなるかと不安になってきた。キャベツをはじめ、アブラナ科の野菜を周年栽培していても、害虫による被害はほとんどなく、天敵の数が極めて少ないからである。ところが、卵から孵化した幼虫は1~2令期の間に死んでしまい、被害はゼロに近い状態ですんだ。一方近隣の慣行栽培の畑では何れも農薬を散布しても相当な被害を受けていた。
 この時は植物の持っている抵抗性の偉大さには感動したが、その抵抗性の仕組みは充分に理解できていなかった。ふだんから、自分の畑には天敵が少ないのになぜ虫害がないのか不思議に思っていたが、この体験で紋白蝶が全滅したのは天敵昆虫や天敵微生物によるものではないことが分かった。しかし、この現象が植物自体の持つ駆除能力(葉を食べられなくする毒物を作るなど)なのか、葉の中に幼虫の栄養となる餌がないのか、その自己防衛の仕組みは私には分かっていなかった。
1980年頃、私の無農薬有機農場がテレビで紹介され、サンパウロの農業技師協会から数人の理事が視察にきて対談し、機関誌にも長文で掲載された。その後まもなく開催された協会主催のブラジル最初の有機農業講習会に講師として招かれた。それからはブラジル全土の大学や農業団体での講演やセミナ-に招聘されたが、なぜ私の農場には病害虫の被害がないのか、については的確な説明はできなかった。学生には、植物の持つ害虫や病原菌に対する抵抗性については、専門書に書かれているような通り一遍の理論の受け売りしかできなかった。その頃、農薬で駆除できない棉のハダニが、私の開発した生理活性剤アミノンの散布で、一枚の葉に300匹いたのが数日で95%以上死滅してしまうのは何故か、についてはどうにも納得がいかず、人にも説明できなかった。
1989年3月、リオデジャネイロで開かれた国際セミナ-で「農牧での害虫防除」という議題で講演するよう依頼された。この時の休憩時間に、私の開発した生理活性剤アミノンを使って、ブラジル最南部の州で、リンゴの無農薬栽培を指導している女性研究者が面会を求め、下記のトロフォビオ-ゼ理論というものを教えてくれた。
フランスのパスト-ル研究所にフランシス・シャブス-という研究者がいた。彼は、トウモロコシの害虫抵抗性品種を研究していた時、抵抗性品種には、遊離アミノ酸が極端に少ないことを発見した。これが昆虫のエサではないかと考え、抵抗性品種に多量のアミノ酸を吸収させたところ、見事に抵抗性は失われたのである。また施肥のアンバランスでも新陳代謝に変調を来し、アミノ酸の含量が増え、害虫や病原菌が増えることを突き止めた。そしてこれを「トロフォビオ-ゼ理論」として公表した。この女性研究者はフランス語に堪能で、トロフォビオ-ゼ理論を中心に書かれたシャブス-氏の著書を3冊ポルトガル語に翻訳している。この理論を知って、なぜ私の農場に病虫害が少なく農薬がいらないのか、他の多くの農場で大発生しているハダニやカイガラ虫が、なぜ生理活性剤アミノンの散布で一挙に激減するのか、理解できるようになった。畑では、有機肥料も無機肥料も、大部分が硝酸態のチッソとなって吸収される。硝酸態チッソは酸素を放出し水素と結合して還元状態となり、更に光合成の産物であるグルコ-ズと合成されて遊離アミノ酸となる。これらのアミノ酸は更に重合して蛋白となる。無機態チッソ→遊離アミノ酸→ 蛋白、の合成過程をプロテオシンテゼというが、昆虫はこの合成過程のなかの遊離アミノ酸をエネルギ-源としている。昆虫は蛋白を即時分解してエネルギ-源に変える酵素を持たず、無機物もエネルギ-源とはならない。
 ここまでくると、植物体内の遊離アミノ酸を早く蛋白に変えてしまえば、害虫はエサがなくなり、死ぬかどこか他の場所に移動していなくなる、ということが理解できる。虫害をなくする一番良い方法は、遊離アミノ酸を減らすということである。
 有機栽培を始めて16年目、やっと私は、どこにでも少しはいる昆虫が、なぜ増え続けて害虫に変身するのか、自信を持って人に説明できるようになった。
 今日現在、農場の有機栽培は28年目を迎えた。農作業は、種蒔き、苗作り、施肥、除草、灌水、そして収穫となるが、堆肥作りはしない。ブロイラ-のおがくず鶏糞を、移植直前うねの上に散布し、スプリンクラ-で灌水するだけである。これは畑を全く休ませることなく、野菜を周年栽培するために、私が行き着いた亜熱帯での技術であるが、病虫害に悩まされることなく、収量品質も安定している。何よりそれ以前よりも良い土になったのがありがたい。また毎月の収支決算が赤字になるのは、何年かに一度の大霜害のあと2カ月だけである。この農場の体験では、先輩や本からは知り得なかった多くの原理を教えられた。そして無農薬栽培技術を開発する大きな足がかりとなった。



その3-無農薬栽培技術の開発

 1972年、農薬商売と動力噴霧器の輸入を止めてから、会社は動力草刈機の輸入で経営を支えながら、土壌改良剤と生理活性剤の開発と販売に邁進することになった。
 農薬に替わる販売資材として土壌改良剤をえらんだ理由は、この広いブラジルで地力維持を堆厩肥に頼ることは不可能であり、また優れた改良剤には堆厩肥にない多くに利点があり、特に少量の施用で下層土の改善にも効果のあることに注目した。
 生理活性剤については、当時惹かれる製品は見当たらなかったが、ブラジルで知人の開発した酵素製品の効果を見て興味を持ち、独自に開発し、製造に踏み切った。
 土壌改良剤の開発には、日本の数人の研究者の情報支援を受け、目標を腐植酸石灰の製造に絞り、約3年で製品化することができ、テンポロンの発明者である阿部良之助氏にリブミンと命名して頂いた。
 生理活性剤は最近製品開発が急速に進み、現在では植物抽出酵素剤、岩石抽出ミネラル製剤、動物性アミノ酸、植物性アミノ酸、など数多くの製品が開発されているが、私の場合は1980年頃からは動物性及び植物性アミノ酸に集中して研究し、酵素の効果を高め安定されるために、複合微量要素剤も開発した。こうして生まれたのが動植物性生理活性剤アミノンと微量要素剤ミクロフォールである。
 土壌改良剤は日本の会社と研究者の情報支援を受け、生理活性剤は独自の研究で、いずれも5年後には製造販売できるようになった。
 生理活性剤については、販売初期から、病気や害虫が少なくなるという報告が数多く寄せられたが、最初は半信半疑であった。そのうちにダニ剤を散布しても防げず、放棄された棉畑での試験を筆者自身が担当することになった。ここでは、一枚の成葉に300匹以上いたナミハダニが、生理活性剤アミノンの散布で、5日後には10数匹に減り、再び新芽が出始めた。翌年からこの120 haの棉畑には、年間5回のアミノン散布でダニ剤を使わず、品質収量ともに大幅に改善することができた。
 ブラジルでは、多年生の果樹パパイアも年中ハダニが繁殖し、ダニ剤なしには栽培できない作物であった。これも生理活性剤アミノンの年8-10回の散布でハダニの被害を受けず、秀品を多収穫できるようになった。
 絵描き虫といわれるハモグリバエやハモグリ蛾、貝殻虫など、農薬では防除困難といわれる多くの害虫に良く効く、という報告が次々と寄せられるようになった。
 葉を食害する鱗翅類の幼虫にも極めて効果の高いことが分かった。
 それでもアミノンの効力が低い害虫が数多くある。数種の害虫に対して効果が低い理由は、後述のトロフォビオ-ゼ理論を知って理解でき、説明できるようになった。つまり、常に細胞増殖のため、アミノ酸が送られてくる成長点に寄生する害虫は、エサに不足することがなく、餓死することなく、生き続けることができる。たとえば、ホコリダニ、サビダニ、スリップスなど。アミノ酸の多い完熟まじかの果実を吸汁する夜蛾など。夜蛾以外のホコリダニ、サビダニ、スリップスなどは、後述の生理的防除の総合技術によって防除できる。

 病虫害防除に実際面で大事なことは、害虫や病原菌を敵視しないことだと思う。もともとどこにでもいる生物であり、ある特殊な条件下でのみ異状繁殖して、害虫や病原菌に変身する。どういう時に変身するのかというと、気候の異状変動や、施肥の誤り、農作業のミス、など人為的なミスで、植物体に限度を越えたストレスがかかった時である。この時植物生理に異状を来し、新陳代謝がスム-スに働かず、昆虫の絶好のエサである遊離アミノ酸が増え、病原菌に対する抵抗性が落ち、植物本来の自己防御能力が衰える。こうして、防御機構の壁が破られて昆虫や微生物が異常繁殖し、病虫害の発生となるのである。
 私はバイエル社に働いていた頃から、棉を主体として、現在注目されている総合防除の手法を、北米から導入された技術として教えられていた。棉は発芽の始めから、生育の各ステ-ジで異なる害虫が、収穫の最後まで切れ目なく襲ってくる。そこで毎週害虫の種類と発生密度を調べ、決められた限度の生息密度に達した時に、殺虫剤を散布するのである。また害虫によって効く殺虫剤が違うので、それぞれに効果のある殺虫剤を選択する。ブラジルでは、オレンジやコ-ヒ-、棉などの大農場では生息密度が限界数に達しない時には散布しないBIL(生物的被害水準)法が使われている。大農場の場合は1回の散布で数千ドル~数万ドルの農薬代がかかるからである。
 たとえばオレンジでは、成葉平均1枚当たり、3匹のハダニまでは被害がでないと言われている。多くの園で観察してみると、よほど生育環境が悪くない限り、なかなかこの数には達しないものである。そして天敵の数も、結構バランスよく見つかるものである。害虫防除の場合、防除暦に従って散布するとか、定期散布する、などは大きな間違いだと思う。
 病害の場合は、作物の決められた部位の、決められた葉数にある病斑数を基準として、散布するかしないかを決めるが、これは病気の進行の遅いある種の病気のみに限られる。コ-ヒ-のサビ病やバナナのセルコスポラ病などである。
 大抵の病気は、この方法では手遅れとなるので、気象や微気象の観測をして発生予察をする。最近では、リンゴの黒星病やトマトのべと病などの防除のため、数千ヘクタ-ルの大農場では、一日24時間生育期間中、多数のセンサ-と、コンピュ-タ-を使っての監視体制で、大きな成果をあげている。3.000 haの農場では1回20ドル/haの農薬代として、1回散布回数を減らせると6万ドルの節約になる。
 要は、病害虫を皆殺しにするのではなく、自然生態系の一環の中の生物としてとらえるべきである。病虫害が発生するのは異常な気象変動か、人為的な栽培管理のミスで限度以上のストレスがかかったためと理解すべきである。そしてこのような場合、生理活性剤アミノンや微量要素の葉面散布は予防と回復に大きな力を発揮する。
 病虫害を予防的に防除し、完璧に無農薬にするには、アミノンだけではできない。次の生理的防除で述べるように、できるだけ植物にストレスを与えないために、生育の環境作りをする。更に土壌改良剤、微量要素などを活用して堆肥ではできない積極的な土作り根作りをし、養分吸収の量と時期に応じた施肥設計をする。
 約50種類の栽培作物でこの方法を実施した結果、たいていの作物で無農薬が実現できた。ウリ科と、ナス科のトマト及び落葉果樹には殺菌剤として無機硫黄剤と無機銅剤のみ。果実に侵入する夜蛾の幼虫にはフェロモン剤を使う、など。どれも国際基準では無農薬の範疇に入る資材である。しかも殺菌剤の量は少なく、選択性殺菌剤を使う場合に比べると、農薬代は10分の1以下になる。

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 以上の体験と、その後試行錯誤を繰り返しながらたどり着いたのが次の「生理的防除」理論であるが、その詳細は、第1章、病虫害防除の新技術「生理的防除の理論」以下を読んで頂きたい。
 生理的防除法という言葉は、1989年3月ブラジルのリオデジャネイロで開催された国際セミナ-(議題は、農牧での害虫防除と予防)の基調講演に招かれ、「害虫の生理的防除」と題して講演した時にはじめて使用した。農薬(合成農薬、微生物農薬)防除や生物的防除(天敵利用)、総合防除、などは一般によく知られているが、この防除法を表現する適当な熟語が見つからないので、あえて生理的防除という言葉を使わせていただく。


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