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続木善夫 / 私の科学的有機農業論
     続木善夫 遺稿/追悼文  (最終更新日 : 2016/12/19)
異国に生きて五十年 【入力完了】

異国に生きて五十年 【入力完了】 (2016/10/25) 本稿は『大阪府立大学 海外農業研究会50周年記念特集』(海外農業研究会 同OB会 2005年9月)に掲載されたものを同OB会のご厚意で転載させていただきました。
液晶画面での読みやすさを考慮して新たに改行を施しましたが、原文には明らかな誤字の訂正以外の加筆は控えました。


異国に生きて五十年 
                           
賛助会員 在ブラジル 続木善夫



 光陰は矢の如し、と言いますが、私がブラジルに移住して早や52年が過ぎました。

 日本での学生時代を振り返って、一番なつかしいのは農専のときでした。

 昭和22年、入学した農芸化学科4期生34名。5名は3~5才年長で、中には海軍兵学校や陸軍士官学校から復学した兄貴分といった同級生もおりました。
 私の場合、終戦の年に父親が疎開先で病没し、若い兄や姉の援助と奨学資金、休暇のときのアルバイト、などで、姉の家に寄宿しながら学生生活を送っていました。
 心情は自分中心、兄や姉にかけた苦労も分からず、授業をサボってテニスに熱中し、また学校のコーラス部の活動にも熱心でした。
 大阪では有名なアサヒコーラスに所属し、歌劇団にもその他大勢として参加していました。同級で年長者の千葉胤高兄は歌唱力が抜群で、弟分のように指導してもらいました。

 若いドイツ語のS講師は資産家の御曹司で、クラシック音楽に造詣が深く、自宅にもたびたび押しかけていました。
 ドイツ製のレコードの蒐集はプロ並み、なかでもドイツの歌曲はほとんど揃っていたようです。
 ドイツ歌曲を聴きながらドイツ語を勉強するというのは口実で、美人で魅力的な奥さんにカレーライスなどごちそうになるのが、本命だったと思います。

 クラスの担任は、土壌肥料のN教授でした。
 教授にはアルバイトから就職までお世話になりました。
 アルバイトでは、2年生末期から同級の小野善助君と二人で和歌山県農事試験場に出張し、県全郡の土壌分析を2年がかりでこなしました。

 教授には私と同年のピアノに堪能な一人娘の、目のパッチリしたお嬢さんがおられ、学校の余暇には、近くのご自宅で伴奏をしてもらって下手な独唱を楽しんでいました。
 専科1期生で、後に府大の土壌肥料教室になられたK先輩と結婚され、このご家族とは今も交流しています。

 農芸化学部の我々にも柿の収穫期には差し入れがあり、炭酸ガスでシブを抜いたヒラタネナシがおいしかったこと、農産加工では内緒で精製アルコールに人工の香味料と着色料を調合して人造ウイスキーを造ったこと(この指導は課外で受けた?)など、なつかしく思い出されます。


 総じてモノやカネには恵まれなかったが、精神的には豊かな充実した青春時代であったと思います。


 私がブラジル移住を決意したのは、道楽者の伯父によるところが大きかったのです。
 
 伯父がブラジルに家族移民として移住してきたのが昭和5年です。
 養蚕技師でしたが酒と女道楽で財産をなくし、愛媛県の農村から追われるようにしてブラジルに移住したと聞いています。
 サンパウロ奥地での開拓農業で成功、ハッカの栽培で財を成し、敗戦後日本の貧しかった時代、村の年寄り全員に当時まだ高価であった毛布を送り、大変驚かれまた感謝された、と言う昔話がありました。

 私がまだ学生の頃から、ブラジルに来ないかとの誘いがあり、私もそれを夢みて卒業時の呼び寄せを頼んでいたのですが、当時農業移民以外は難しく、手続きが手間取っている間に伯父が飛行機事故で亡くなり、一時はもうダメかとあきらめていました。
 その後、町でトラクター代理店と農産物仲買商を営む従兄から手紙が来て、オヤジの遺志をついで呼んでやってもよいが、その後どうするかは、自分で決めろと連絡がありました。

 手続き完了がいつになるやら分からないので、すすめられて愛媛県で教師をすることになりました。
 移住を待つ身で、本格的に教員になるわけにはいかず、中学校の校長をしていた長兄のコネで、隣町三島市の中学校の教師に就職することができました。
 昭和26、7年頃、まだ教師が不足していた時代です。
 押し付けられたのはなんと英語と音楽だったのです。
 英語はともかく、音楽はやっと教科書にある楽譜のピアノ伴奏ができる程度、2年と3学年の生徒を受け持たされました。
 実技が下手なので、ついつい理論を教える方に力が入る。
 そのためか、愛媛県の3年生の学力試験では県全部の中学校の中で一番になり、校長と教頭には、どんな教え方をしたのか、と驚かれたことがありました。

 教師のとき、担当であった2年生のクラスの級長が坂上光昭君でした。
 渡伯後、数人の生徒たちからブラジルに行きたいという手紙が来ていましたが、その一人が坂上君で、私と同じ学校、同じ科目を勉強したいと言うのです。
 当時私はコチア産業組合の技師であったのですが、ブラジルは牛の国、農芸化学を専攻するより、獣医の方がいいとアドバイスをし、彼はその通りに進み、ブラジルに移住してきました。
 まだ彼が府大の学生の頃、海協連か移住連盟かの援助でブラジルに来たことがあります。
 福永都君(現姓四方)も私のバイエル社勤務の頃来伯され、卒業後結婚してパラグアイに移住されました。

 1963年、バイエル社を退職し農薬肥料販売店の第2店を開業する時でした。
 この時点では、上司の許可を得て開業していた第1店はすでに軌道にのっており、チェーン店を増やしていく計画をもっていました。
 そこへ坂本清亨(大園、昭和35)君が先輩のもとで働きたいと飛び込んできました。
 5年後私がサンパウロ市に移転するとき、この店を譲渡したのですが、その数年後加工用トマトの栽培を始めて失敗し、私の勧めで店をたたんでサンパウロに移ってきました。
 私の会社の販売員を2年ほど勤めた後、販売員3人と独立して共同で会社を興し、現在に至っています。

 同君の息子はズバぬけた料理の才能があり、いまではサンパウロでも名の通った高級すし店を経営しています。
 
 会社は順調に伸び、チェーン店が5店ほどできた頃、竹中商会というブラジルでも大きな肥料販売会社で働いていた古田和男(大園、昭和36)君が入社してきました。
 すごい努力家でまもなく頭角を現し、販売部長として、会社を支えてくれました。
 そのあと尾崎俊彦君と神原克幸君(両君は園芸学科15期生、昭和42)が入社してきました。
 さらに、ブラジルに永住されるようになった中村ひとし(大園、昭和42)、岡田繁実(大工、昭和49)君らも皆古田君の呼び寄せであったと記憶しております。

 神原君は入社2年目頃、訪問先の農園主で、コチア産業組合の理事、日系社会の名士であるS氏の長女にほれ込んでしまい、「Jさんと結婚したい、何とか嫁さんにもらってください」と泣きついてきました。
 この結婚に続いて尾崎君もわが社で事務員をしていた古田君の義妹のI子ちゃんと結婚しました。

 神原君は結婚と同時に会社を辞めてS家にもぐりこんで菊の鉢栽培に専念し、ブラジルでも菊の栽培家として名を知られるようになりましたが、残念ながら33歳の若さでガンにかかり、他界されました。

 坂上君は、農協で畜産技師をし、反面、理財にもたけていたのか、20年前なくなられた時にはすでに自宅と別邸を持っていました。
 3人の子息も成人し、昨年、美代栄未亡人が20回忌法要を営まれたときは、府大OBも招待され、サンパウロ在住7人のうち、6人が出席しました。


 1970年頃、会社に未曽有の危機がおとずれました。
 わが社が日本のヤンマー社から輸入した3000台のミスト噴霧機のエンジンに、大変な欠陥が出てきたのです。

 このエンジンは日本では販売されず、ブラジル向きに作ったエンジンだったのですが、販売して2ヶ月たった頃から欠陥が出始めたので、販売は中止、売ってしまったものは全機回収しようということを決断しました。
 責任はヤンマーにあるはずですが、エンジンはT社の新型リードバルブエンジンのため、ヤンマーはT社に責任ありとして、日本からT社社長を呼びつけ、ブラジルヤンマー社長と私と3人で協議した結果、わが社が全機のリードバルブを交換することになりました。
 これを機にブラジルヤンマーでは国産化に踏み切り、輸入元であったわが社が販売を担当し、まもなく販売台数は年間1万台を超えるようになりました。

 輸入の時代は、製品原価と販売経費を元にして私が販売価格を決めていたので相当な純利益がありました。
 国産になってからは、ヤンマーの製造する全量の買取り、しかもわが社の粗利益が15%と決められ、莫大な販売経費に対し、純利益が極端にすくなくなってしまいました。
 この取引はわが社の将来を考えると大変不利であったので、3年目には数年をかけて作り上げた販売網を渡し、販売から撤退することになりました。
 この時期、会社の業績は最低となり、古田君と尾崎君は農薬販売の一支店を引き継いで独立し、多くの社員も退社しました。

 当時花形商品であった農薬と動力噴霧機を売らないでどうして会社を経営していくか、が大きな課題でした。
 一方、次々に新農薬がどんどん開発されるにもかかわらず、新しい病虫害が発生し、病害虫も抵抗力を増してくる。
 防除の経費もうなぎのぼりに上昇する。
 これらの事実に直面して、当時の農薬と化学肥料に頼る防除体系は間違っている、と確信するようになりました。
 農薬業界の絶頂期に、このような事態に立たされたのは幸いでした。
 思い切って主力商品の農薬とヤンマー噴霧機の販売を一切中止し、経営方針を180度転換することができました。

 経営を支える柱として、全面撤退した噴霧機と農薬の代わりには、動力草刈機と土壌改良剤を日本から輸入しました。
 2、3年でこれらの製品の販売は軌道にのり、数年後には、日本との技術提携で、ツーサイクル小型エンジンも自社で製造するようになりました。
 現在この会社は次男が経営する別会社として製造販売を続けています。

 1972年には農薬と分幹の販売からは完全に手を引き、動力草刈機のメーカーとして、一方土壌改良剤も輸入から製造に移り、さらに生理活性剤の開発製造も進んで、13年後1985年頃には、会社の基礎も安定したものになりました。

 現在、工場の全面積は10ヘクタール、隣接する私の個人用地10ヘクタールを譲渡して20ヘクタールに拡大される予定です。


 20年来の会社の経営理念と目標は、
①無借金経営。
②7割経営。実力以上の仕事はしない。
③適正な利益を上げて社会に貢献する。
④会社は人を作る道場。社員の能力と品性の向上を計る。
⑤農薬と化学肥料は販売しない。
⑥無農薬生産技術の研究と開発。

 この理念を貫き通した結果、幹部と社員の家庭は円満。
 10年前、社長から会長に引退しましたが、会社は傍系会社も含めて社員100人強、販売店300店、と小さいながらも、年々業績は向上し、会社内の雰囲気も大変良いと思われます。


 個人的には、1972年、無農薬栽培技術開発のために、8ヘクタールの農地をサンパウロ市の隣接地コチア郡に買い求め、無農薬農法模索の第一歩として、自然農法、有機農法を始めました。
 実験を重ね、3年目には初歩の有機農法技術が確立できたと思います。
 12種類の温帯の野菜を周年栽培、春~初秋にかけての果菜をあわせて年間約25種類を2.5ヘクタールに植えつけます。
 栽培のための経費は、種とスプリンクラー潅水のための電力だけ。
 肥料は、山岸養鶏の鶏舎で取れる鶏糞で十分まかなえました。
 養鶏と栽培、さらに販売を合わせて12~15人で、利益の高い小農場を経営できるようになりました。

 1978年だったと思います。
 有名テレビ局が野菜栽培農家での農薬乱用を取り上げ、大々的に放映されました。
 翌日はサンパウロ市中央市場の裏の川に、売れ残りの野菜が大量に捨てられ、大騒ぎになったのです。
 このとき、農薬協会とメーカーがテレビ局にカミつき、「農薬なしで野菜が作れると思うのか?そんなプロの百姓がおれば連れて来い」と。
 そこでテレビに引っ張り出されたのがワタクシだったわけです。

 まもなく、農薬技師連盟から数人の理事が農場をおとずれ、連盟の月刊誌に大きく紹介されました。
 そして、1980年、連盟主催のブラジルでの最初の有機農業講習会が開かれました。
この時の基調講演のあと、ブラジル全土の有名大学の農学部から有機農業の講演を依頼されるようになりました。
 そのために相当な時間をとられましたが、アマゾンから南のウルグアイ国境まで、総経費向こう持ちの無銭旅行ができたのです。

 色々な作物で有機農法を経験し、体験を積み重ねるうちに、有機農法の不利な点も分かり、「本物の農業技術というものは有機農法でも化学農法でもない。自然の原理に沿った植物中心の技術体系である。場合によっては、有機農法の技術を中心に化学農法の技術を加味する、逆の化学農法の技術が中心になることもある。あくまで植物中心で、何々農法とかにこだわるのは間違いである」ことを確信できるようになりました。
 が、私の真意に反して大勢は有機農業がもてはやされる方向に流されていきました。

 私がテレビや農業雑誌にしばしば登場するようになって数年後、1989年、私の農場に53名のブラジル全土の有識者が集まり、ブラジル最初の有機農業協会が結成されました。

 外国には、1979年から2年間、日本のJICA(ジャイカ)の依頼で、アルゼンチンとパラグアイ両国に、等高線栽培と土壌管理の実地指導に出講しました。
 ウルグアイでは、唯一の国立農科大学の教授や講師約50名に講演。
 そのあと、野菜栽培の指導のため3年間に5回通いました。

 コーヒーの有機栽培の技術を確立し、生豆の輸出を始めるようになってから数年後、コロンビア政府の招待でコーヒーの無農薬有機栽培の指導に招かれ、山岳地帯の熱帯降雨林のなかの栽培現地に滞在し、貴重な体験をさせてもらいました。 
 治安が悪いのでボデイガードをつけられ、窮屈な思いもしましたが。

 以上のような私の公的な活動は、1995年頃全面的に辞めることになりました。
頭の働きが鈍くなり、軽い言語障害を自覚するようになったからです。
 同時に会社での活動も社長を辞め週に一度の出社、手は出さないがたまには口を出す、ノンビリした会長職に退いています。

 日本には毎年2~3回、総計100回以上往復してしまいました。
 商売上絶対必要というわけでもないので、旅行グセというやつでしょうか。
 この12年間は代理店と一緒に日本各地の農家と農協を回りました。
 この代理店のお陰で、北海道から鹿児島まで無銭旅行をさせてもらい、夜は温泉でゆっくり休むこともしばしば、でした。


 私のブラジル人生50年を真っ二つに分けたのは、信奉していた農薬の力に限界を感じ、農薬と肥料を過信する(ここ数年是正してきましたが)
技術体系の誤りを痛感させられた体験です。
 このときの発想の転換から生まれ変わった現在の会社は、私の研究のための資金稼ぎの役目を果たしてきたと思います。

 農薬信奉から無農薬にいたる推移と、この間の研究をまとめ「新技術-病虫害の[生理的防除]に基づく、高品質高収量無農薬低コストの理論と実際」を書きました。
 3版4版と重ねるうちに、格段に効果の良い生理活性剤が発見されたり、また、自分では内容がまだ不十分と言う思いも強く、まだ本として出版する気にはなれません。
 府大のOB会か図書館には数冊送りますので、読んでください。

 10年以前には、日本や南米諸国からの農業研修生も2~3人ずつ受け入れておりました。

 地球の裏側で諸君の来伯をお待ちしております。

                      〈 以 上 〉


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