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続木善夫 / 私の科学的有機農業論
     続木善夫 遺稿/追悼文  (最終更新日 : 2016/12/19)
『大地と生きる 無農薬農業と歩んだ五十年』を読んで 岸和田仁

『大地と生きる 無農薬農業と歩んだ五十年』を読んで 岸和田仁 (2016/12/19) 続木善夫『大地と生きる 無農薬農業と歩んだ五十年』を読んで

               岸和田 仁(『ブラジル特報』編集人、元ブラジル駐在員)


1.はじめに

 資源国ブラジルの住民は、北米の大国への対抗意識というか負け惜しみ意識もあって、鉱産資源や農産資源の“世界一”を自慢して心の安寧を得たりするものだ。農業関係でいけば、コーヒー、オレンジ、サトウキビの世界最大の生産国というポジションはここ数十年間不動だし、大豆は現在世界第二位だが、米国を追い越すのは時間の問題であり、フルーツ関係では、例えばバナナもアセローラも世界一だ。畜肉関係では、鶏肉は生産量では世界2位ないし3位だが、輸出量では世界一、ビーフも年によって若干違うが、生産量・輸出量ともに世界1位~3位を維持している。
 農業関連で忘れてはならないのは、ブラジルは農薬使用国としても世界一であることだ。もっとも、化学肥料や農薬の使用量が増えたのは、セラードなど1970年代以降の、新農業フロンティア開発が本格化してからである。すなわち、ブラジルが農業大国となったのは、最近のことでしかない。
 このブラジル農業近代化の黎明期と呼べる1960年代、バイエル社農薬のトップセールスマンとして、ガンガン農薬を売って、大いに稼ぎまくり、ご褒美のドイツ研修旅行を通じて農薬開発の最前線を学んだ続木善夫氏は独立して、農薬・噴霧器販売で手腕を発揮する。農業の敵である害虫を農薬で撃退することで、農業=食料生産の発展に貢献している、という信念は揺るがず、夢中で農薬を販売していた時、害虫による抵抗性獲得の方が新しい農薬の開発よりも先行している事実を認識することになる。続木氏本人の回想によれば、「この事実を突きつけられた時、私は大きな絶望感におそわれた。それまでの私の生きがいであった農薬信奉がこなごなに打ち砕かれたのである。」
 続木氏は、1970年、農薬・動力噴霧器の販売中止を決断、その後、コチア郡で無農薬実験農場を開設、無農薬農業をサポートする製品として土壌改良剤と生理活性剤を開発し、その生産工場を設立、と、ブラジルにおける有機農業のパイオニアの一人へ“自己変革”する。
 こうした事業者としての活躍と並行して続木氏が取組んだのが、有機農業の啓蒙活動であり、篤志家として日系団体・研究者への財政的サポート(具体的には、サンパウロ人文科学研究所へ献金、外山脩『百年の水流』改訂版出版支援など)であった。

 今年8月亡くなった続木善夫氏(享年86歳)の業績を“教科書的”に略述すると、こうなろうか。だが、続木氏の大きな存在感は、こんな数行の文章で語れるようなものではない。
 続木氏の遺著といえる『大地と生きる』を読了した筆者は、自分自身の農業開発経験も含め、改めて考え込んでしまった次第である。

2.ブラジル農業の革新者としての山元守と続木善夫

 後世のブラジル農業史研究者は、2016年を、「ブラジル農業の革新に多大な貢献を為した日系人を象徴する二人、山元守と続木善夫が逝った年」として記録することになるはずだろう、というのが、続木氏の遺稿集となった論稿集『大地と生きる』を読了した時の、筆者の正直な感想であった。
 何故そんな思いになったのか。それは今年6月、山元氏の訃報を受け、在りし日の山元さんを偲んで知人と議論したのだが、それから2か月後の8月、今度は続木氏の訃報をニッケイ新聞で読んだ、という背景がまずあった。その時までの筆者の浅薄なる知識では、続木氏とは外山脩『百年の水流』改訂版(2012年)の発行人(刊行資金供給者)として同著の「あとがき」を書いた人物だ、という程度の理解でしかなかったのだが、訃報の数日後ニッケイ新聞投書欄に掲載されたビデオ映像作家の岡村淳さんの文章で、続木氏=義父、岡村氏=娘婿の関係がようやく理解できたという次第であった。10月に入って、訪日中の岡村氏から『大地と生きる』を手交され、本書をやっと読了してようやく続木氏の業績の一端を認識することが出来たのだ。
 そんな程度しか続木氏を理解しておらず、大学で農学を修めていない筆者が、この著作について何がしかのことを書く資格があるかと問われれば、口ごもってしまうのだが、現役時代、ノルデスチ内陸部での熱帯灌漑農業関連の農産事業に携わっていた(三回のブラジル駐在はのべ21年だが、そのうちノルデスチは15年)という、何がしかの農業関連経験もあった、ということを“言い訳”にして、自らの非才を顧みず、この読後感想メモを記してみたい。

 まず、山元氏について、ごく簡略に振り返ってみたい。
 1933年アラサツーバ近郊で生まれたマモル・ヤマモト(山元守)は、もともとはバタテイロであったが、1960年代からカリフォルニアやイスラエルにおける先進灌漑農業を視察したうえで、ノルデスチ奥地の半乾燥地帯(サンフランシスコ河中流域)における灌漑ブドウ栽培事業に着手。1971年ペルナンブーコ州ペトロリーナに隣接するサンタマリア・ダ・ボアビスタに2,500haの土地を購入、パラナ州アサイからUva Italiaの苗を導入して、試行錯誤の末、ブドウ樹の仕立て、強制剪定(熱帯地方のブドウ樹に強制的に四季・落葉を感じさせる手法)、灌水、施肥などのノウハウを改良して、年2.5回収穫体制を確立。サンフランシスコ河中流域での大型ブドウ(生食用)栽培の成功例となる。1982年Casa Nova(バイーア州)に1,300haの土地を購入、ワイン用のCabernet Sauvignon種などの品種を植えつけ、84年にワイナリーを設立、86年からワイン生産を開始。
 ブドウ栽培ノウハウを特許化せず、日系人であれ地元ブラジル人であれ、関心を有する人たちに、ノウハウ情報を公開し、これが、ノルデスチ乾燥地帯におけるブドウ栽培が急速に拡大した一因となった(ちなみに、同地域でのブドウ収穫量は、1980年代は年間数千トンレベルだったが、現在では30万トンレベルへと急成長した)。1991年には、山本喜誉司賞を受賞。
 農産事業家としては、1990年代末、苦境に陥り、実質的に破産してしまったが、山元さんのワイン事業は、Mioloグループが買収し、ペトロリーナ地区では最大のワイナリーとなって今では多くの愛好者ばかりか観光客も惹きつけている。
 晩年は、バイーア州カザノーヴァで桑の栽培畑を開墾し、桑葉茶の製造・販売に注力していたが、2016年6月2日、急逝された。
 山元氏の業績を大急ぎでメモすると、こんな感じになるが、仕事の関係でペトロリーナに1991年から95年まで住んでいた筆者は、山元さん宅でFazenda Ouro Verde製ワイン(白&赤)を飲みながら、博識なうえ好奇心も旺盛な山元さんの語りに耳を傾ける機会を何回も持つことが出来た。その時の会話内容を思い出しては、後になって山元さんの先見の明を再確認することになる。
 ノルデスチ乾燥地における土壌改良は、まず既存の有機質(伐採後のカットされた原生樹木のすき込みなど)を有機肥料として活用し、さらにヤギ糞ベースの有機肥料や緑肥も並行し、肥沃度改良が不十分な場合のみ化学肥料を追肥していく、というのが基本方針だった。
 環境貢献という点では、1992年度「21世紀地球賞―地球環境論文コンペティション」で入賞した吉田昭彦「ブラジル・ノルデステの総合農業開発とアマゾン熱帯雨林破壊に対する抜本的な対策」という骨太な論文がわかりやすい。これは、当時産能短大教授だった吉田氏が山元農場をケーススタディーしたうえで、東北伯内陸部での労働集約的な農業開発が当該地での砂漠化防止・緑化ばかりかアマゾン環境問題まで解決するようになる、と論じたのだ。農業と環境の微妙な相関関係をマクロ視点で捉えた論稿であった。

 一方、1929年大阪生まれの続木善夫氏は、海軍兵学校を経て大阪府大農学部を卒業し、1953年ブラジルに移住、サンパウロ州プレジデンテ・プルデンテ市のコチア組合支部で働き始める。翌年、婚約者を呼び寄せるが、この時彼女に書き送った手紙には「ブラジルは常夏の国である。衣服は夏物さえあれば、一年中過ごせる。その代わり、ブラジルでは揃えない最新の土壌分析の器具一式を持ってきてもらいたい。家具は一切無用。」と書かれていた由で、「花嫁はこれを真に受け、ほとんど裸一貫で渡伯したが、着いてみると冬は結構寒く、あとで恨まれることとなった」と本書に書き記している。農業改良するためには、土壌分析が必要で、当時のサンパウロの分析機器は旧式だったから、この“特別要請”になったのだろうが、生真面目に仕事のことを考えていたのは、如何にも続木氏らしい。
 ドイツ系化学大手バイエルの農薬セールスマンとしての大活躍は、本書にも簡潔に記されているが、ドイツの農薬開発最前線を学んで、一直線で働き続け、農薬を販売することがブラジル農業の発展に貢献するという信念が、その過程で揺るぎ出す。ここから、農薬・動力噴霧器の販売をやめ、無農薬有機農業の試験農場購入から実践、土壌改良剤の開発などへ転進していく。続木氏が普通の有機農法信奉者とは一味も二味も違うのは、実践と理論化を常に並行して継続している点である。無農薬でどうやって病虫害を防止するのか、という理論的説明は、『病虫害の生理的防除 の理論と実際』(2007年)に詳しく書き込まれているが、これはブラジル移民データベースサイトである「ブラジル移民文庫」(brasiliminbunko)にも収録されており、このサイトにアクセスすれば読める。その要旨は本書でも読めるが、農学者としての真摯な取り組みには感服あるのみである。

3.続木善夫遺稿集『大地と生きる』の意義

 山元氏と続木氏。二人共、新しいフロンティアの開拓者であった。山元氏は熱帯半乾燥地帯での環境配慮型農業開発の開拓者であり、続木氏は無農薬有機農業の開拓者であった。二人共、農業における新分野を開拓しただけでなく、現状分析を踏まえて新しい農業モデルを構想して、それを実践した。その意味では、突破者でもあった。
 続木氏の遺稿集となった『大地と生きる』の章立てをみると、第1章 ブラジル移住と農業人生、第2章 無農薬農業の意義と必要性、第3章 回想録・雑感・提言など、となっている。在野の農学者としての理論的な議論は、第2章において詳しくなされているが、“普通”の読者には、第3章に収められている、エッセイ群が“お薦め品”だろう。
 ブラジル農業、アグリビジネスが抱えている問題点、ポジティブな面もネガティブな面も平易に述べており、筆者としてはどれも熟読に値すると思っている。
 今回は、印刷部数限定の自費出版であるが、装丁を変えて本の厚さを半減すれば、一般向けの著作としても十分受け入れられると判断するものである。

 遅ればせながら、合掌。


                      2016年12月15日、横浜の寓居にて


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