あとがき (2003/05/23)
ぼくは、いまブラジルに住んでいるからといって、ブラジルの国に所属しているとは限らない。 ぼくが、日本人であることを廃めたからといって、ブラジルの国に忠誠を尽くすとは限らない。 ぼくは、ブラジル人になっても、ブラジル語を覚えようとは思わない。 ぼくは、日本を捨てても、日本語しかしゃべれない。 ぼくは、ぼく自身の存在をいつまでも曖昧にしている。 それは、ぼくが永遠の旅人だからである。 いつまでも宙ぶらりんで、いたいからである。 だからといって、ぼくは国際人でもない。 そんな社交性はもともと持ち合わさない。 いろいろな国の人と行き摺り合って知ったことだけれど、国際性とか社交性というものには、大いなる疑問を持っている。それがたいてい、うわべだけの浮薄なお世辞でしかないからである。 日本人には国際性が欠如するなどと、知ったかぶりの知識人は言うけれど、国際性などというものはなくてもいい。どんな世の中になっても正直と勤勉は尊ばれる。口下手でいいから、人を裏切らないほうがいいにきまっている。
ぼくの詩は、居直りの詩である。偉そうぶってるわけではない。居直ることしかしらないからそうしているだけである。 人を動かす力はないし、財を産む才能はないし、自らが動くほど勤勉ではないし、女たちから貢がれるほどの魅力もないし、どうにでもなれと鉄面皮に居候を決め込 むしか、あとにはないから、大きな胡坐を組んで、詩を書いているしかないのである。 詩を書く才能もなく、心を読む教養もない人たちは、ぼくのような詩人を養うことで、人間性とのつながりを持てばよい。というような、傲慢さの上で、すべてに対して反抗的な態度でいるものに、救いようもない腹立たしさを覚えながらでも、切歯扼腕していても、まったく無視してしまうわけにもいかず、ぼくをいまだに生かしつづけている。 「金にならないのぉ、うんじゃぁ駄目じゃないのぉ」と嗤うような人とは、最初から言葉をかわすつもりもないから、ぼくと似た顔をしていても、同類だとは思わないし、どうということはない。 ぼくの詩に、金を払って、読むほどの偽善者がいるとは思っていない。 だれの詩でも、金を払って、読むものなどないから、ぼくの詩が金にならなくても一向淋しくはないけれど、たったひとりの共鳴者がいないということは少しは寂しい感じではある。 まあ、偽善者ぶって讃められるよりは、唾吐きかけてくれるほうがいい。唾を吐きかけるだけの関心があったのだから。 ぼくは、神に対して想像に絶するほどの疑惑を抱いている。 ぼくは、人間の精神的文明に対して想像に絶するほどの嫌悪を抱いている。 人間社会がまともに形成されていると思っているのは、一部の知識人だけだろう。 こんな混沌としている人間社会が好ましいのは、ぐうたらな政治家と、政治家を操っている資本家だけ。 ぼくは、すべての既成事実を破壊することに賛同する。 ぼくは、破壊された広漠のなかに、新しい社会の建設 を希望しはしない。なぜなら、愚かな人間たちの造る社会など、なんど繰り返し造成されても、結局は代り映えしない不完全なものしかできないのはわかっているのだから。 なにもない、土地が剥出しの荒寥とした野こそ赤裸々なヒトという動物にはふさわしいと惟う。 動物たちは、あるがままの自然のなかで棲息すればいい。簡単な巣をつくるだけでいい。食と性の本能だけで生きればいい。科学なんぞをしないがいい。建設することは破壊することだと、もう誰もが気付いているのだから。 現実に絶望して言うのではない。 未来に夢をなくして言うのでもない。 ぼくらが、もし生きつづけて行こうと考えるなら、自然への回帰しかないからである。 人間という社会なんぞ形成せずに、ヒトであろう。ヒトという動物の一種であって、決して霊長類だなどと自惚れないでおこう。 そうすればきっと、あしたの地球は平穏で、住みよいところになるだろうから。
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