沿革 (2004/12/03)
一、産業粗合の始まり
当植民地にも農産物が増えるにつれて、それを有利に販売する為に産業組合ができた。
一九三〇年 最初にできたのが、イチゴ組合である。初代組合長 岡上与三助
イチゴ組合が生まれた理由
植民地にイチゴの作付が始まり、天秤棒でかついで中央市場迄売りに行くと案外よい値段で売れるので、年々作付が増えてきた。最盛期には市場に大量に出荷し荷がだぷつき商人に買いたたかれ、それでも余って、どうすることもできなくなった。そこで当時農産加工をしていたコロンボ社に交渉して、イチゴジャム用に買って貰う事にした。売買交渉をするには個人よりも団体がよいとの領事館勧業部の指導により、組合を作り団体で交渉をした。 その後産業組合はイチゴだけでなく、トマトや其他の野菜も扱い、組合員はサンパウロ市近郊の農業者が加入した。 |
一九三六年 その当時できていたジュケリー組合、モジ組合と一緒になり、蔬菜連合として発展していった。或る年、トマトの生産が増え、市場に出しても、生産者がお金を持って行かなければ清算できない年があった。 この時、組合員が集まり生産統制した事がある。しかしそれを守る組合員はなく、反対に今迄以上に作る人が出て、生産統制は無理という事がわかった(一九三三年頃)。 一九四〇年九月一日、連合組合ではどうしても理事の意見が合わず、モジ粗合とジュケリー組合が分かれて蔬菜連合はそのまま続き、一九四七年にピンドラマ植民地を作り、一九六一年頃ドナカタリーナ植民地を作った。そして一九六八年組合を閉鎖した。 一九四〇年組合が分裂した時、組合より個人商店がやり易いのではないかとの意見があり、カーザ朝日を作ったが、それも長く続かず一九五九年には店を閉めた。
二、コチア組合
一九二七年にできたコチア産業組合は最初バタタ専門の組合であったが、一九三四年四月二十三日蔬菜部門を作り、一九三七年頃よりイタケーラからも何人かコチア組合に加入した。
▽一九四〇年にサンタローザ販売所が始まった。 イラケーラ地区からは一九四一年、初代評議員として、服部秀吉が出ている。一九四二年西田宗次郎、一九四三年には、GTCが始まった。
▽一九六七年CAC単協の始まり。
一九七五年ウルバーノ倉庫閉鎖、サンパウロ事業所に合併。ウルバーノ評議員区が始まった。
イタケーラGTCの主なできごと
一九六一年四月二十九日 ジャカレイ植民地四二アルケール購入。主にコチア青年が入植した。イタケーラからジャカレイ植民地へ入植した青年は次の通り。 堀内、柳沢、江口勲、金沢、宮島、水口、松山政永、亀岡俊二、森田友一、長野オズワルドで、東京農大関係では佐々木、北原、寺本、広沢、鈴木、大仁田、一明の七名。
一九六三年三月 グループで所有している建物一切を本郭に移譲、カミニョンを個人に売却。
歴代部落長(評議員)
佐藤善一(一九四三~四七年) 西田宗次郎(一九四八年) 佐藤善一(一九四九~五〇年) 小林政重(一九五一~五二年) 三沢正人(一九五三年) 森田久司(一九五四年) 三沢正人(一九五五~六二年) 小島信三(一九六三~六四年) 富田実(一九六五~六七年) 小島辰雄(一九六八年) 富田実(一九六九~七一年) 松山政永(一九七二~七四年) 森田勝(一九七五年) 渡井文治(一九七六年) 井出勇(一九七七年) 三沢ベルトリーノ(一九七八年) 松山政永(一九七九~八〇年) 三沢ベルトリーノ(一九八一年) 井出勇一(一九八二~八三年) 森田勝(一九八三~八六年) 鈴木康夫(一九八七~八九年) 小坂誠(一九九〇~九三年)
一九九三年、GTCが出来て五〇年になる。
三、コペラチーバ・ミスタ・デ・イタケーラ
一九五二年九月十四日に始まった。
▽動機 この頃の農業者は車はなく、日用品や農薬肥料を買うのに難儀をしていた。そこで先ず買い物を安くグループでまとめて買うことを考えた。
▽発起人は 山岸又次郎、吉岡太一、松本和夫が先頭に立って二十七人の発起人を集め、シンジカットルラールの指導によって組合を組織した。 組合名はコペラチーバ・デ・コンプラ・コムン・ラボラドール・デ・イタケーラとしたが、あまりにも長いので後に、コペラチーバ・ミスタ・デ・イタケーラとした。 建物は吉岡太一の家を借りて始まった。
一九五四年エストラーダ・デ・ペッセゴの土地六千米を買う事にし、建物を建設し、そこで販売を始めた。そのうちに各自自家用車を持ち始め、近くにもスーペルメルカードが出来、必要性がだんだん無くなってきたので、一九七〇年組合は閉ざされた。 そこに組合があった時には、夕方になると植民地の若者が三々五々集まり、情報を交換したり色々話をする慰安の場所ともなっていた。 組合長は第一代:吉岡太一、第二代:勝野寿男。
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