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     2002年  (最終更新日 : 2006/10/26)
県連ふるさと巡り南二州の移住地探訪2 [全画像を表示]

県連ふるさと巡り南二州の移住地探訪2 (2006/09/11) (5)

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一行に説明を行う飯田組合長(左)
 サン・ジョアキン日系人たちの汗と努力の結晶とも言えるのが、SANJO(サン・ジョアキン農業組合)だ。コチア産業組合が九四年に解散したあと、組合員たちが自ら出資し、現在のリンゴの出荷場兼大型貯蔵庫を少しずつ拡大していった。
 組合長の飯田義孝さん(四七、二世)によると現在の組合員数は六十三人で、SANJO創設時より二十人増えている。組合員がリンゴ栽培を行う総面積は八百ヘクタール。年間生産量は三万トンにおよぶ。
 品種は「ふじ」「ガラ」の二種類で、リンゴがまだ青いうちから早取りし、三月の収穫時期に貯蔵すると十二月までは鮮度を保つことができるという。ガスによる自動コントロールで貯蔵庫内の酸素を取り除き、リンゴを仮死状態にすることで長期間の保存が可能となっている。
 最大貯蔵量は一万八千トン。一日の出荷量は十二トンに上る。出荷先はサンパウロ、ブラジリアをはじめ、ベレン、マナウス、ベロ・オリゾンテなどの国内のほか、ヨーロッパ、アジア諸国向けに輸出も行われているという。
 現在、リンゴそのものの出荷とともにSANJO婦人部が中心となり、ジュース、洋かんや干しリンゴ、リンゴ・チョコレート(ボンボン)などの加工品を作っている。販売は市の観光課の協力を得て、販売促進が行なわれている。
 ふるさと巡り一行は、飯田組合長の説明を聞いたあと、組合員の協力によりグループごとに分かれて場内を見学。参加者は農業移民が多いため、必然的に専門的な質問も飛び出す。
 組合員の一人、細井健志さん(五八、京都府出身)は、七四年の第一期入植者。聖州ピエダーデで十二年住み、この地に来て二十八年が経つという。息子が三人おり、長男、次男ともども青森でリンゴ栽培技術修得のための研修を行い、「現在は仕事のほとんどは息子たちが中心に行っている」と目を細める。
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SANJOで働く女性従業員たち
 リンゴは、SANJOで規格統一された四百キロ入りのパレット付き木箱に入れて各生産者から貯蔵庫に運ばれる。フォークリフトで下ろされたリンゴは、木箱ごと水の中に沈められ、浮いたところで水流によりコンベアーに乗せられ、自動選別される仕組みだ。
 SANJO側の説明では、リンゴ栽培は前年の気候が大きく影響する。今年は例年並みの収穫量だったが、エルニーニョ現象による暑さはここでも影響し、来年の収穫量が多少懸念されている。
 「リンゴ一筋で良い品物を作ろうとの組合員の意識があったから団結も早く、強かった。また、(都市部から)遠隔地にあるため、まとまらなければやってはいけなかった」と細井さん。
 コチア産業組合崩壊後の立ち直りの早さを組合員たちは、そう言って振り返る。
 「皆がいたから、今がある」
 飯田組合長の言葉が現在のSANJOの発展を物語っている。

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 一行は、SANJOをあとにして、EPAGRIサン・ジョアキン農業試験場に移動。バスを降りてすぐに目につくのがリンゴ栽培技術移転のため、七〇年代初頭にJICAの初代技術専門家として来伯した故・後沢憲志博士の石造だ。
 日本政府の技術援助と同地の日系人の努力により、一大リンゴ生産地として実りを得たサン・ジョアキンは、ブラジル国内でも高い評価を受けている。その中でも特に功績が大きかったのが後沢博士。今は巨大なリンゴのモニュメント上に同博士の胸像が建てられている。
 昨年、JICAを通じて三十年にわたるリンゴの技術移転事業は終わった。今は梨栽培の研究も行なわれ、「一人立ちできるように準備を進めていきたい」と同試験場研究員の葛山さんは意欲を見せる。
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農業試験場でリンゴの説明を聞く一行
 現在、サン・ジョアキンから生産される品種は「ふじ」が約六〇%を占め、寒冷の気候がブラジルではもっとも適しているという。
 ふるさと巡り一行は試験場内に実った各種リンゴを見学し、関係者の説明を聞きながら、サンパウロではほとんど見ることのないリンゴの木を背景に記念撮影をして楽しんだ。
 そうした中で、同地で今年から試験的に栽培しているのがチリ産ワインに劣らない品種のブドウ作りだ。調査の結果、カベルネー・スビニオンという赤ワインには最もポピュラーな品種が、同地で適していることが最近の調査結果で分かった。リンゴに次ぐワイン用ブドウの一大生産地としての将来的な可能性も広がる。
 SANJO組合員の一人である山口福友さん(六四、愛媛県出身)は「この五月には日本の山梨県に行って、実際に栽培しているところを視察するつもり」と、サン・ジョアキン産のブドウ作りに大きな関心を示している。
 リンゴ生産者の中には趣味が高じて彫刻に力を注ぐ人もいる。市役所に隣接した場所には、和洋折衷(わようせっちゅう)のモニュメントが広がる。制作者は大槻エルソンさん(五二、三世)。五百年を超えるパラナ松の巨大な幹の中をくりぬき、ブラジルの歴史を意識したバンデランテ(奥地探検隊)の行列とリンゴの彫刻を調和させている。リンゴは日本とブラジルの友好関係とともに日系人の貢献を示すという。
 市役所裏側には同地の日本語モデル校がある。日本政府から約二千五百万円の助成金を受けて九四年にモデル校となり、一昨年まではJICA派遣青年ボランティアが来ていたが、現在は父兄がボランティアで教師を務めている。
 同日本語学校は、七六年頃から会員の父兄が無料奉仕で教師を務め、その後第一回の卒業生が数年間日本語教師を行なっていたが、生活面での事情から離れていった。
 現在の生徒数は、十二人。この日は児童数名が情操教育の一環として、造花・折り紙を習っていた。見学した一行の中には、教師に交じって子供たちに折り紙を教える人もおり、和気あいあいとした雰囲気が伝わった。 一行は、サン・ジョアキンの人々に別れを告げ約三百五十キロ離れたリオ・グランデ・ド・スール州のベント・ゴンサルベス市へと向った。

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 ベント・ゴンサルベス市に向う途中、運転手の心遣いにより、サンタ・カタリーナとリオ・グランデ・ド・スールの州境となる景観の良い橋のそばでしばしの休憩。
 その後、午後九時に目的地に着いた一行は、時間が遅くなったことから市内のレストランへと直行した。ここで同市に在住する西谷団長の末の娘さんが夫ともに合流し、簡単なあいさつを交わした。
 娘さんの説明では、同市の日系人はわずかに二家族だという。日系人の夫氏は現在、市の建築関係に勤めているが、以前はサンパウロに在住していた経験もあり、「都会より、ここのように小さくてのんびりした町がいい」と微笑む。
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アウローラ・ワイン工場を見学
 サンパウロを出発して四日目となる翌四月四日午前中の予定は、市内にある「アウローラ」という名のワイン工場の見学だ。一行が泊まったホテル横の道路には、地元のフェイラ(青空市場)が出ている。野菜類は少ないが、チーズ、サラミなどの特産品が並び、値段もサンパウロより安い。
 総体的に朝は早起きの一行は、すでにフェイラで買物をしている人もいる。その中で粋な買物をしていたのが、ミナスジェライス州イタジューバから参加している河合五十一(いそいち)さん(九〇、愛知県出身)、シズコさん(七九、熊本県出身)の仲の良い夫妻。この日、午後から訪問する「ブラジル最南の日本人集団地」とも言えるイボチ移住地の先没者へのお供え用の花と、同乗している女性たちのためにカーネーションを買い、バスの中で一本ずつ配った。
 南伯地域に足を運んだのは三回目だという河合さんは、六十五年前に一緒に働いたことのある日本人がサンタ・カタリーナ州に住んでいるという噂を聞き、今回のふるさと巡りに参加したが、結局は会えなかった。しかし、旅そのものをシズコさんとともに楽しみ、参加者の中で二番目の高齢だが、矍鑠(かくしゃく)としている。
 ワイン工場に到着し、一歩足を踏み入れるとワイン独特の酸味のある匂いが充満していた。酒好きな人たちは、とたんに嬉しそうな表情に。酒の飲まない人は「匂いだけで酔っ払いそう」とそれぞれに笑顔を見せる。
 工場内では同地の歴史などを織り交ぜた広報用ビデオが上映された。それによると、この地にはイタリア系を中心にドイツ系移民など千六百家族の組合員がおり、若者たちがこの土地から産出されたものに誇りを持って伝えてきたことで、祖先が期待していた以上の産品ができたという。
 その後、工場の広報係りを務めるアナ・パウラさんが内部を案内してくれた。ワインそのものの貯蔵温度は、十一度ほどに保たれてある。一定以上に温度が上がり過ぎると、ワインの品質は悪くなり製品にはならないという。そのため、地下道のような暗い貯蔵庫を足元を確かめながら、ゆっくりと進み、時には高さ五㍍ほどもある大樽を皆で見上げながら歩く。
 いよいよ期待していた試飲会。イタリア系かドイツ系かと思われる民族衣装を来た職員の女の子たちが、白、赤のワインを小さなコップに注文に応じて何杯も注いでくれる。おかげで朝っぱらから上機嫌の人も多い。
 階上はワインの即売場で、お土産物がずらりと並ぶ。買い物客も多く、出発時間が一時間のオーバー。次の目的地、イボチ移住地までの道をバスは急いだ。

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 予定の時間をオーバーして時間を取り戻そうと快調に走っていたバスだが、二号車は突然、州道沿いのガソリン・ポストに入り込んだ。
 「パンク」かと思ったが、何やらブレーキの調子が悪いらしい。旅にハプニング(偶発的出来事)はつきものだが、「よりによって、こんな時に」と日頃の行いを反省する。
 添乗員の米田さんの説明では、先行している一号車がイボチ移住地に着いたあと、折り返し二号車の一行を迎えに来てくれるという。三十分ほどで一号車が迎えにくるはずだったが、悪いことは度重なるもので、一号車が移住地に着いたとたんタイヤがパンクしたとの情報が舞い込み、約二時間をガソリン・ポストで過ごすはめに。
 仕方がないので、この間を利用して、ふるさと巡り参加者の動機などを聞いた。
 今回で六回目の参加だという清水秀策(六八、愛知県出身)・里子(六四、二世)夫妻。夫の秀策さんは昨年の日本へのふるさと巡りで、六十二年ぶりに故郷の地を踏んだ。「毎年、色んな移住地に行く楽しみもあるし知り合いも多くなった」と話す。
 今回、最高齢参加者の菊地忠三さん(九二、福島県出身)。夫人の富子さん(八二、北海道出身)をいたわり、「うちの味噌汁は天下一品」と笑う。「ふるさと巡りは四国の金毘羅山の巡礼みたいなもの。同じ日本人として、最初にブラジルに来た人々に敬意を表したい」と旅での目的意識を示す。また、一方で「もう少し地方の人も参加できるようにすべきでは」と、ふるさと巡り旅行のより良い改善を促す。
 午後一時すぎ、パンクの修理を終えた迎えの一号車が到着。三十分かけてバスは念願のイボチ移住地にようやく着くことができた。
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イボチ移住地で用意してもらった御馳走
 イボチ日伯文化体育協会(久保芳道会長)の会館で出迎えてくれた同地の人々と先行した一号車の一行は、婦人部が準備してくれたご馳走を目の前にしながらも箸をつけることもなく、待っていてくれた。
 会館の入り口には、七〇年に左翼ゲリラ組織に誘拐されながらも無事生還し、八〇年代に大使として再びブラジルに勤務した大口信夫氏が書いた協会の看板が掲げられている。
 久保会長の説明によれば、同移住地は六〇年半ばに二十六家族が入植し現在は約五十家族が在住している。会館は八〇年代に入ってから建設されたという。
 入植当初は養鶏が主体だったが、七五年からブドウ生産に切り換えられ八五年までの十年間は一大ブドウ生産地として、国内のみならずヨーロッパにも出荷が行なわれていた。
 「最盛期には十四トントレーラーで、五十台分の出荷量がありました」(久保会長)
 しかし、現在はブドウ生産者もわずかに十三家族に減少。一方で、花作りはRS州内でも一、二位と言われるほど大規模栽培を行なっている生産者もいるという。
 一行は婦人部手作りの昼食をほおばりながら、移住地の人々との歓談を楽しんだ。(つづく・2002年4月サンパウロ新聞掲載)


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