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マツモトコージ苑
     2007年  (最終更新日 : 2018/11/15)
移民の肖像3(ベレン篇) [全画像を表示]

移民の肖像3(ベレン篇) (2007/08/13) (11)

 十一月二十九日。ベレン滞在二日目に取材させてもらった食虫植物やランの栽培・販売を行っている小坂田泰直さん(五五)の案内で、アサイ採取現場へと連れて行ってもらうことに。自身の仕事を通じて知り合ったブラジル人の友人がいるという。
 午前八時に汎アマゾニア日伯協会で小坂田さんと待ち合わせ、堤事務局長、元商社マンだった須藤忠志さんにも同行してもらった。須藤さんは、日伯協会の元役員でもあり、商社を定年退社後も個人で輸出入業を行うなど、精力的な毎日を送っている。
 小坂田さんの車で、ベレン市内グァマ川沿いにある「アマゾン・フルーツ社」の事務所へと向かう。同社はコンテナを利用して事務所を作っており、屋根の部分には椰子の葉をあしらうなど熱帯地域の雰囲気を醸し出している。
 同社のベン・ハー・ボルジェス社長は、母親がレバノン人、父親がブラジル人のアラブ系ブラジル人。名前からすると、映画「ベン・ハー」に出てくる主役のチャールトン・ヘストンが思い浮かぶが、陽に焼けたヒゲ面の風貌は、同じ俳優の出演映画であっても「十戒(じっかい)」に出てくるモーゼという感じで、ユーモアあふれる人柄だ。
 ベン・ハーさんは、元々は森林関係の技術者で、八〇年にはマラジョー島でパルミット栽培などの仕事にも携わっていた。八三年頃から九五年にかけてアサイ採取計画を立案。〇二年に「アマゾン・フルーツ」社を設立している。
 現在、対岸のムルトゥク島で三十五ヘクタール分のアサイを栽培しており、〇六年度の生産量は七百トン。〇七年度は、その八割の生産高が見込まれている。主な輸出先は米国、カナダ、日本をはじめ、オーストラリアやイギリスなどで、主にポウパ(冷凍果肉)の形で輸出している。今後はその他に、サウジアラビアやヨーロッパ諸国にも送る予定だという。
 生産は安定供給ができないと中間業者や消費者からの信用が得られにくいため、ベン・ハーさんは品質管理としてアサイの色、味、匂いにこだわり、栽培者の技術指導も行っている。
 アサイは鉄分が多く栄養価が高いことをはじめ、酸化を防ぐ作用もあるという。日本でも格闘家やスポーツマンの栄養ドリンクとして近年、注目されている。
 ベン・ハーさんの案内で事務所の対岸にあるアサイ採集場のムルトゥク島に渡る。この日は、ベルギーとフランスからの見学者二人も同行した。島には小船で約三十分。上陸地の岸には、収穫後のアサイの殻が山積みされていた。
 アサイの収穫時期は十一月で、この日は島の電源である発電機の調子が悪く、作業はほとんど行われていなかった。
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島で授業を受ける子供たち
 一行が到着した際に出迎えてくれたのが、島の子供たちだった。街の子供のように擦れておらず、異邦人の我々に好奇心の目で見つめる子がいるかと思えば、屈託のない笑顔で近づき「自分たちの写真を撮れ」と、せがむ子供も多い。
 採取場には現在、採取・生産活動などを行う労働者たち約二百人が共同生活を営んでおり、そのうちの百五十人ほどは子供たちが占める。そのため、島内には学校施設があり、我々が上陸した際はちょうど、学校の授業が行われていた。教室は木造で風通しの良い場所にあり、女性教師が黒板に書き込んだポルトガル語を、熱心に書き写す子供たちの姿があった。教師は四人で、ベレン市内から毎日小船で通っている。また、教室の横には簡易台所もあり、子供たちの食事の世話も行っているようだ。
 労働者の生活確保と質の向上のために学校を設置したベン・ハーさんによると、「学校ができる前には九七%の文盲率だったのが、現在は九〇%の人が読み書きできるようになった」という。労働力を使い捨てにするのではなく、育てることで、アサイ生産の品質向上にもつながるとベン・ハーさんは考えている。
 アサイにかける氏の熱い思いを感じた。
 
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 ベン・ハーさんの説明を受け、早速アサイ採集工場を見学する。
 収穫されたアサイの実は、工場内で大きさなどによって選別。殺菌のための熱処理(八十五度)のあと、商品として使用する表皮の部分と種とに分離する作業が機械で行われる。濃い紫色の表皮が摘出されたアサイは冷凍して保管される。
 ベン・ハーさんが手掛けているアサイは、一般用と有機栽培用のものに区別し、それぞれプラスチックの箱に入れて保管。品質管理には特に力を入れているという。
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アサイ椰子が林立する採集場
 ひと通りの説明を聞いて工場の外に出ると、島の奥側にはアサイ椰子が林立する中を、採集トロッコ用の線路が延々と敷かれているのが見えた。雨季の水没を避けるため、線路は地面からの約一メートルの高さに敷設されている。その上を一行は、ベン・ハーさんの後ろに付いて歩いた。
 陽射しがきつい熱帯の湿った空気の中を一キロほど歩くと、全身から汗が噴き出すのが分かる。しかし、アサイ椰子が生い茂る緑の林の中には様々な植物類が密生しているほか、蝶が舞うのが見え、どこからか鳥の鳴き声も聴こえてくる。自然公園のトレッキング・コースのようで、汗まみれになりながらも我々は心地良い森林浴を楽しんだ。
 ランの自生地を捜し歩くのが好きな小坂田さんは、同地にも度々足を運んでいるという。さすがに足取りも軽やかで、表情が生き生きしている。
 線路上を歩き、一時間ほどして元来た場所へと戻る。ベン・ハーさんの指示で、すでに製品化しているアサイ・ジュースを労働者が持って来てくれた。渇いた喉にアサイの濃い味と冷たさが沁みわたる。ジュースのプラスチック製容器の外側には英語の表示が書かれていた。米国輸出向けの商品で、容量は二百十ミリリットル。米国市場では七〇セントほど(約一・五レアル)で販売されているという。
 百%アサイだけのジュースのほか、アサイにバナナやマンゴーの果汁を混ぜて加工した種類もあったが、工場の規模からして島内で加工しているとは考えにくく、別の場所で製品化しているものと思われる。
 線路の両端には所々、アサイの実の殻が山積みされていた。ベン・ハーさんによると、ボイラーの燃料として使用するために置いているという。島の電源は発電機でまかなっているが、現在、大型ボイラーの取り付け作業も進められている。電気は採取・冷凍などの作業用以外に、労働者の生活用にも回されている。
 工場の裏側には、機関車の胴体のような長さ五メートルほどもある大型ボイラーがあり、労働者がペンキを塗る作業を行っていた。
 ボイラーによる発電量は発電機とさほど変わりはないというが、アサイの殻を燃やすことで火力発電として再有効利用し、発電機に使用するディーゼル油から発する排気ガスを抑えるなど、自然環境に配慮したシステム作りが、施されている。
 子供たちに授業を行っていた女性教師とともに我々は、正午過ぎに島を後にした。

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 十一月三十日。写真展五日目。本来なら最終日のはずだったが、十二月三日に日本語能力試験が汎アマゾニア日伯協会で実施されるという。「子供たちに、爺ちゃん、婆ちゃんたちの顔写真を見てもらえたら」という協会側の配慮で、十二月三日まで延期して開催してもらえることになった。
 時間を有効利用し、この日はベレン市内から車で約三十分離れたマリツーバの農園で熱帯果樹やラン栽培を行う瀬古興平さん(六六、滋賀県出身)を訪問、取材させてもらった。瀬古さんは現在、熱帯果樹や薬草類などの生産物を輸出する会社を経営している。
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輸出会社を手掛ける瀬古さん
 瀬古さんは、同じ滋賀県出身で、戦後アマゾンへの日本人移植民事業を個人名義で行った故・辻小太郎氏の呼寄せで、単独青年として一九五九年に渡伯。十九歳になる一か月前のことだった。
 辻商会で働くことになり、パリンチンスでジュートの目方売りなど基本的な仕事を覚えさせられた後、サンタレンのジュート工場本店に転勤となり、八年間を同地で過した。
 辻商会で働きながらも、奥地からサンタレンに出てくる人々のための下宿屋も経営していた瀬古さんだったが、「ジュート産業は長くは続かない」と辻商会を退職、人生の転換を図り二十八歳でベレンに出た。その頃、「いつまでもフラフラしていられない」とミチコ夫人とも結婚した。
 新しい仕事として目を付けたのが、コショウを火力乾燥させるための耐火レンガづくりだった。当時、コショウは天日乾燥が普通だったが、雨が降ると出荷に間に合わない。高校時代に信楽(しがらき)焼きの手伝いもしていたという瀬古さんは、耐火レンガ作りのために八年間の退職金を注ぎ込んだ。しかし、軌道に乗るという直前に資金が尽きた。
 瀬古さんは、辻商会時代の先輩で日本から進出していた商社のベレン支店に勤めていた人を頼り、融資の交渉に行った。しかし、先輩の上司からは「こいつに金を貸すなら、ウチの会社に来いと言え」と伝えられ、思いがけず商社に入社することになったという。
 商社に入ってからの仕事は電気メーカーの輸送担当役。仕事熱心な瀬古さんは、基本的には仕事が無い週末も支店長の家に通い、「何か仕事はありませんか」と聞いて歩いた。
 「土、日(曜日)は、自分の時間として使え」と上司から言われた瀬古さんは、七八年頃から内職的にクプアスーなど熱帯作物の栽培を独自に始めた。また、休日になると近くの山を歩き回り、ライフワークとして薬草を見つけるなどしていたことが、後年になって健康飲料や精力剤の販売など自分で商売を始めるきっかけとなった。
 八〇年代半ば、ブラジル国内のハイパーインフレとドルが高騰した影響などで、商社では上司が他社に引き抜かれての辞職が相次いだという。瀬古さんは会社側から「給料はいくらでも出すからコショウ部門を受け持ってくれ」と言われ、担当替えとなった。
 「一夜にして三段飛びで偉くなった」瀬古さんに、大きな転機が訪れた。 

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 コショウ部門に担当替えとなった瀬古さんは、辻商会時代にジュートの選別や量り売りなどで鍛えられていたこともあり、新しい部署ではあったが、積極的な展開ができたという。
 八〇年代半ば頃、コショウ産地には泥棒や強盗が多く、社会的な不安定感が蔓延していた。そのため瀬古さんは千五百トンの収容能力がある商社の倉庫を利用して富裕層からコショウを預かり、南米諸国やヨーロッパなど高値での販売を実践した。
 「ポーランドや旧ソビエトなど、金の無い共産圏諸国ほど高い値段で買ってくれたよ」と瀬古さんは、その頃のことを今も鮮明に覚えている。
 八五年にはメキシコ大地震が発生。東京本社からの商社マンが現地入りできない中、瀬古さんはメキシコに飛び、現地での任務を遂行させるなど会社への貢献も果している。
 瀬古さんはその頃、ある考えがあった。以前からライフワークとして続けている薬草の発見やブラジルには無い熱帯果樹の買い付けなどであった。
 八五年四月にコショウの産地であるインドネシア、マレーシアなど東南アジアの熱帯地方に在庫調査の名目で足を運んだ瀬古さんは、インドネシアを訪問した際、ある農家の庭先にぶら下がっている熱帯果樹を発見した。それがランブータンだった。以前から、ランブータンのことを調べ上げ、成育条件として雨の多いアマゾンの熱帯の土地にも合うことが分かっていたという。
 「ポケットや靴の先など、ランブータンの種を持てるだけ持って、ベレンに帰ってきた」という瀬古さん。その成果が文字通り実り、現在、所有しているマリツーバの農園には、ランブータンをはじめ、同じインドネシア産のマンゴスチンや「果物の王様」と言われるドリアンなど、各種生産物が所狭しと植えられている。
 また、新しいところでは、「ドラゴンフルーツ」の異名を取る「ピッタイヤ」と呼ばれるサボテンから成る果実の栽培も行っており、記者が訪問した際にはサボテンから黄色い花が咲いているのが見えた。
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ラボで新種のランの研究を行う瀬古さん
 九四年四月下旬、商社のベレン支局が閉鎖されたことを受けて瀬古さんは、二十五年間に渡るサラリーマン生活に終止符を打った。商社時代から並行して続けてきた熱帯果樹生産、薬草生産を軌道に乗せ、〇四年八月からはラン栽培にも取り組み始めた。
 「『俺は明日からは何もせんぞ』と果樹園は息子に任せて、隠居宣言をした」と豪快に笑う瀬古さんだが、ラン栽培という新しいものに挑戦する前向きな気持ちは昔も今も変わらない。
 商社が閉鎖された際、「男として生れたからには、一度は一旗挙げたい」と立ち上げたのが、現在の熱帯果樹や薬草などの自然生産品を輸出販売する会社だ。
 「私にとって人生最後の宿題となるのが、このラン栽培ですよ」と語る瀬古さん。ラボラトリオで新種のラン栽培の研究を行うとともに、「エル・ドラド」と呼ばれるコロンビア原産のランを見せてくれた。
 嬉しそうに笑う瀬古さんの瞳の中に、新たなる野心の光が見え隠れしていた。

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 十二月三日。汎アマゾニア日伯協会の厚意により三日間延長され、八日間に渡るベレンでの写真展もこの日が最終日。同日、ベレン滞在中にお世話になった諸富英昭氏の父親である諸富寅雄さん(九二)に話を聞くことができた。
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インタビューに答える諸富寅雄さん
 寅雄さんは一九一五年当時、日本軍の統治下で現在の韓国・釜山(プサン)近くの全羅南道(ぜんらなんどう)という場所で生れた。その頃、同地には約二百家族の日本人が居住し、寅雄さんは両親たちと梨や桃などの果樹生産を行っていた。 同地でクニエ夫人(九〇)と結婚したが、戦時色が濃くなりだし、二十四歳の時に龍山野砲(りゅうざんやほう)第二十六連隊の召集を受けた寅雄さんは、中国北部の山西省を中心に一年九か月にわたって転戦することになった。
 「上司の命令で転戦していた時は何とも思いませんでしたが、(任務を終えて)帰る日が決まったとたんに怖くて、外地に出たくないという気持ちになりました」と寅雄さんは当時の心境を振り返る。
 一九四五年に終戦となり、現地召集された寅雄さんは家族より一足先に父親の実家の福岡へ引き揚げ。一か月後、混乱の中、家族が大変な苦労をして日本に引き揚げたことを後で知らされた。九州各地の開拓団を探し回り、遠縁の親戚がある開拓団の事務局長だったことから、熊本県菊池郡津田村(現在の菊陽町)を世話してもらい、一町歩を譲り受けたという。 寅雄さんは当時、三十歳になっていた。
 同地で稲作、麦作、サツマイモなど農業生産活動を行っていたが、四十一歳の時に転機が訪れた。寅雄さんは村の税金申請を真面目に行っていたが、商業学校を卒業したばかりの若い担当職員の「貴様」呼ばわりする高慢な態度に嫌気がさし、「こんな日本に居るべきじゃない」とブラジルに渡ることを決めた。
 また、戦前に実弟の八治さんがトメアスーに入植しており、「呼び寄せたい」と言って来ていたことも大きかった。トメアスーにピメンタの苗を持ち込んだことで有名な故・臼井牧之助氏は戦後にも同地を訪問。八治さんは戦後の日本の状況を聞き、寅雄さんにブラジルに来るよう臼井氏に伝言を依頼。兄への渡航費用を託した経緯があったという。
 クニエ夫人からは「せっかく肥沃な(熊本の)土地を手に入れて、ようやく安定した矢先になぜブラジルに行くのか」と反対されたが、寅雄さんは家族を連れて一九五四年に「あめりか丸」で海を渡り、同じトメアスーの中心地から六キロほど離れたブレオ地区に入植した。
 入植して弟の農園でコロノ(契約農)として五年間の生活の後、独立し七、八年くらいかかってようやくコショウの木を四千本までに増やしていたが、根腐れ病にやられ、苦労して植えたコショウは数年で全滅した。
 ブラジル人の農業専門家からマラジョー島でココ椰子ができると聞き、トメアスーの五家族が一緒になって移転。島の「ソーレ」という港町で、雨季には地下水が地面ぎりぎりのところまで上がる土地の中でパイナップルとココ椰子を三千本ずつ植えた。
 しかし、初めての収穫を直前に控え、椰子園の隣に住んでいたブラジル人が伐採のために自分の耕地に火を点けたところ、寅雄さんの椰子園にも飛び火し、またも全滅してしまった。
 仕方なく二年後に再びトメアスーに戻ったが、生産物に病害が出たことをきっかけにノーバ・チンボテウアに出て活路を求めた。同地でのコショウ生産が軌道に乗り、最高の収穫量は年間に四十二トンにも及んだことがあったという。
 その後、七六年に孫の教育のためにベレンに移転したが、ノーバ・チンボテウア時代にもコショウが病害で全滅したことが農業生産をやめるきっかけとなった。
 一九七八年、寅雄さんは二十四年ぶりに日本に一時帰国することができた。当時、息子の英昭さんが熊本大学付属病院などで医学留学していたこともあり、寅雄さんは息子に会うために日本に行きを決め、約二か月間滞在した。
 朝鮮、日本、ブラジルと三つの国での生活を経験し、現在はベレンでゆったりした暮らしをしている寅雄さん。「ブラジルに来ることができて良かった。現在の生活に満足しています」と充実した表情を見せていた。(おわり・サンパウロ新聞2007年1月、2月掲載)) 
              


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