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マツモトコージ苑
     2008年  (最終更新日 : 2018/10/25)
第47回パラナ民族芸能祭

第47回パラナ民族芸能祭 (2018/10/04)  (2008年)7月1日から10日間にわたって第47回パラナ民族芸能祭が、パラナ州都クリチバ市内のグァイーラ劇場で開催された。7月9日には、クリチバ日伯文化援護協会(大嶋裕一会長)のコーディネイトで午後8時半から2時間にわたって日本を代表する民族舞踊が披露。2000人を超える観客が詰めかけ盛況を博した。同祭成功の背景には、地元の自助努力はもちろんのこと、18年間にわたって日本舞踊の指導を行ってきたサンパウロ市在住の師匠・花柳龍千多(はなやぎ・りゅうちた)さんたちの尽力によるところも大きい。芸能祭を支えた人たちの活動を振り返ってみる。

(1)

 移民100周年を記念した今年(2008年)、同芸能祭には地元の日系人だけでなく、非日系人も大きな関心を示した。
 サンパウロ市からは、「花柳龍千多会」後援会一行約40人が大型バス1台をチャーターして、晴れの日の舞台に駆け付けた。
 記者も一行に便乗させてもらい、8日午後4時にサンパウロを出発。その日の深夜近くにクリチバに到着後、翌9日午前中は一行とともに、普段はできない市内観光に同行させてもらった。
 その際にガイドとして付き添ってくれたのが、同地在住の笹谷・山中聖子さん(65、2世)だった。
 聖子さんは、クリチバ日伯文化援護協会で実施している日本語講座の校長を務めており、こうしたサンパウロなどからの訪問者の日本語対応役として接することも少なくないという。
 父母は戦前移民で、双方とも滋賀県出身とのことから、流暢な関西弁も話す聖子さんは、「母親が日本語学校の教師で、家の中ではいつも日本語環境でした。子どもの頃はそれが嫌な時もありましたが、大人になってからは親に感謝しました」と話していた。
 観光の合間に話を聞いていると、「数年前から日本舞踊に興味を示しだした」聖子さんの四男が、この日の芸能祭の一員として出場するという。
 聖子さん自身、47年前の第1回民族舞踊芸能祭に出演した経験がある。「当時は、グァイーラ劇場の椅子もコンクリート製で、着替えるための専用の場所も無かった」と振り返る。
 一行は聖子さんの案内で、9日午後8時半過ぎに少し遅れて会場入りすると、すでに舞台は始まっていた。その理由を聞くと、「舞台の始まりが定刻の一分でも遅れたら、罰金を取られる」(日本舞踊関係者)ほど審査が厳しいという。
 普通の民族舞踊祭のように、各国芸能関係者が代わる代わる舞台上で踊り、和やかな雰囲気の中で親睦を深めるイベントと思い込んでいた記者は、張り詰めた雰囲気の舞台に面食らった。
 しかも、2300百人が収容できる会場は3階席までほぼ満員で、すべて座席指定がされていた。
 同芸能祭はブラジルのカルナバルのように1軍、2軍があり、上位に上がるほど一日の舞台をその民族だけで占有できる。また、入場者数の多い順で優勝が決定するという。
 午後8時半、山脇ジョルジ・クリチーバ日伯文化援護協会前会長の司会で始まっていた舞台は、地元日系青年による若葉太鼓の「喜怒哀楽」を皮切りに、日本舞踊やコーラスなどが披露された。
 2部構成で19の演目が行われたが、演目の間には会場そのものがほぼ真っ暗闇になるにもかかわらず、舞台上では無駄のない動きで次の演目準備が行われていた。この日のために、出演者はもとより関係者全員が総力を挙げて取組んできたことが分かった。
 舞台は正味10分間の休憩をはさんで、2時間ぴったりの午後10時半に終了。フィナーレで出演者全員が日伯の国旗を手に持ちながら、「海を渡って百周年」と「ブラジル音頭」で締めくくり、参加者たちの充実した表情が印象に残った。

(2)

 後援会一行は芸能祭の興奮冷めやらない雰囲気の中、クチリチバ市内のホテルに戻った。
 「まだ食事をしていない」という花柳龍千多さんをはじめ、友情出演の丹下セツ子さん、日本から駆け付けた歌手の井上祐見さんらとともに、ホテル内での打ち上げ会に記者も参加させてもらった。その際に、同地の民族芸能祭にかけてきた意気込みなどを聞いた。
 龍千多さんによると、毎年同祭出場のための稽古に重きを置き、月1回、クリチバに通い、門下生たちに指導を行っているという。その成果が発揮され、今年は2000人以上の観客が詰めかけたことに龍千多さん自身も満足していた。
 「最初の頃は、今のように日系だけで一日分の公演時間をもらえた訳でなく、他の民族と時間を分けながら出ていたのよ。指導は今年で18年目になるかな。10年ほど前から自分も一緒に踊りだしたんだけど、一人では駄目だと思って丹下さんにもお願いして毎年一緒に来てもらっているの」 その丹下さんは今年(2008年)4月、足の指骨にひびが入るという不慮の事故に遭った。例年なら年間に数々の舞台に出演する身だが、「(移民)100周年記念式典すら見てないし、今年はあちらこちらで不義理させてもらったけれど、(7月6日のサンパウロ文協記念講堂での井上)祐見ちゃんの公演と、この芸能祭だけにはどうしても出ようと思ってね。でも、ほとんど稽古もできなかったのよ」と苦しかった心情を打ち明ける。
 「それでも、10年にわたって毎年出るというのは、踊る側にしてみれば本当は辛いのよ。お客さんは同じ踊りでは満足しないし、衣装を買うのも大変だし」と丹下さんは、龍千多さんのこれまでの指導活動の継続に大きな敬意を払う。 
 門下生の一人である久保毬(まり)さんは、「(龍千多)先生は月に1回クリチバに来ると、朝の9時から夜の7時まで3日間、ぶっ通しで稽古をつけてくれるんです」と熱心な指導に感謝の意を示す。
 今年3回目の出場という歌手の井上祐見さんは、同舞台で移民100周年のために作った新曲の『オブリガーダ笠戸丸』を披露。「一曲入魂」とも言える舞台を飾った。 
 井上さんのマネージャー・中嶋年張氏によると、新曲を作るきっかけは昨年、クリチバの100周年記念公園への設置を目的として、高山秀和連邦下議が笠戸丸の錨(いかり)をロシア領海から引き揚げるとの話を聞いたことだという。
 「(井上さんのヒット曲)『ソウ・ジャポネーザ』に続く、ブラジル移民に縁のある歌になるかもしれないと思いました」(中嶋氏)
 井上さんは「龍千多さんたちのお陰で、この1曲のためにクリチバに呼んでいただくことができました。これらのご縁の積み重ねを大切にしていきたいです」と今回の滞伯中も連日ハードなスケジュールをこなしながらも、充実した表情を見せていた。
 今年6月から会長に就任したクリチバ日伯文化援護協会の大嶋会長は、「毎年入場券を売るだけで大変ですが、今年は切符が足りないくらい売れました。今年が移民100周年ということもありますが、日本文化を非日系の方たちに知ってもらうことができて、本当に感謝しています」と公演後の率直な感想を話してくれた。
 「ここまで続けてくるのは大変でしたけど、良いお弟子さんと、その家族たちに恵まれましたよ」と語る龍千多さん。門下生たちとの来年に向けた民族芸能祭の準備は、すでに始まっている。(おわり)
 


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松本浩治 :  
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