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     ブラジルの日本移民  (最終更新日 : 2024/04/22)
小島康一さん [画像を表示]

小島康一さん (2018/02/17) 陶工技術移民の小島康一(こじま・やすいち)さん

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 「日本の陶器技術を世界に広めるため初の”技術移民”として多治見焼で名高い岐阜県多治見市の陶工水野要三氏(34)一家5名をはじめ3家族20名が29日午後1時神戸出航の大阪商船貨客船さんとす丸(8280総トン)で晴れの壮途に就くため、28日午後3時同船に乗込んだ」―。
 1953年5月29日付けの神戸新聞は、当時の模様をこう伝えている。
 セピア色になり、破れた見出しの部分を自分で書き足した新聞の切れ端を今も大切に保存しているのは、初めて日本陶工技術団の一員としてブラジルに渡った小島康一さん(74)だ。
 17歳で陶器の世界に入った小島さんは、日本の景気が厳しい中、将来的に家族でブラジルに渡ろうという考えもあり、「外国に行って自分の腕を試してみたい」と、陶工移民としての誘いに躊躇(ちゅうちょ)することなく加わった。
 ブラジルでは当時、陶器の技術を広めてもらおうと食料品を扱っていた戦前移民1世の故・土井万七氏がサン・カエターノ市郊外に陶磁器製造工場を建設した。
 その頃のブラジルの陶器技術は低く、小島さんたちによって日本の陶器が広くブラジルに伝えられた。しかし、マウアー市にあったドイツ系陶器製造会社が同じ製品を半値にして販売し始めたことから、サン・カエターノ工場の経営が悪化した。
 「一時は陶工を辞めてコーヒー栽培をやってみようとも考えました」と小島さんは、パラナ州クリチーバやロンドリーナなど農園の様子を見に行ったこともあったという。
 しかし、志半ばにして辞める訳にはいかなかった。陶工団がブラジルに出発する際、異国での活躍を願う人々から地元・多治見駅で大々的な見送りを受けていたからだ。
 「ブラジルで陶器をやる以上、石にかじりついても頑張らねばならない」と父親の言葉を思い出し、後から呼び寄せる家族のためにも続ける必要があった。
 小島さんは58年に現在のマウアー市に移った。翌59年には家族を呼び寄せ、60年に5年間働いた工場を辞めた。その退職金を元手にマウアーに6000平米の土地を購入。新しい陶器製造所を造った。
 しかし、電気が無かったため、大切な窯づくりをはじめ何もかも機械には頼れず、自分たちの手で行わざるを得なかった。
 値段の面でドイツ系の製品には、なかなか太刀打ちできなかったが、「ガイジンと同じ物は作るまい」と小島さんは日本食器など独自の陶器づくりに力を入れだした。
 特に父親の重男さん(90年に84歳で死去)は、多治見の陶器試験場で働いていた経験があり、その時に昭和天皇ご夫妻が視察されたこともあるなど、陶器に関しては常に手作りで職人としての気概を強く持っていた。
 陶器がブラジルで最も持てはやされたのが、6、70年代。コーヒーカップや皿などをかたどったミニチュアの飾り物が爆発的に売れ、「作っても作っても間に合わない」(小島さん)状況だった。そうした中でも父親は手作りの陶芸品の制作にこだわり続けた。
 小島さんの名声もしだいに上がり、「全盛の時には日本食レストランの陶器のほとんどを手掛けた」というほど日本陶器を普及させた。が、苦しい時代に、或る日本人が食器用の陶器をすべて買ってくれたために生活をつなぐことができた恩義を、小島さんは今も忘れてはいない。
 70年代頃からガラス製やプラスチック食器が出回るようになると、陶器は下火になりだした。90年代には安い輸入品が入り、陶器づくりはさらに厳しくなった。
 しかし、小島さんは「安くしたからといって売れるものではないんですよ。日本食器に関してはまだ他人には負けません」と職人としてのプライドを保ち続ける。
 「陶器の町に生まれ、陶器で死んでいく」
 小島さんの言葉が、陶工移民としての思いを物語っている。(2008年3月号掲載)


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