楠野裕司さん (2023/10/24)
「来年(2015年)の日伯修好120周年に向けて、日本からイベントを持ってきたい」―。こう意気込むのは、アートプロデューサーで写真家の楠野裕司さん(71、北海道)。1995年の日伯修好100周年の際には、作家・寺山修司氏主宰「天井桟敷」の音楽と演出を手掛けたJAシーザー氏率いる劇団「万有引力」のブラジル公演をプロデュースし、大きな話題となった。今年(14年)3月下旬には、日本の新聞「夕刊フジ」に「写真家が日本のアートをブラジルでプロデュース」と題した記事も大きく掲載された。 北海道夕張市で生まれ育った楠野さんは、60年にブラジルに移住した実兄で画家の友繁(ともしげ)さんを見送るために東京に出たことがきっかけで同地にあこがれた。23歳の時に東京の美術学校に行きながら夜は飲食店のアルバイトを掛け持ちしていたところ、馴染み客だった映画のプロデューサーに「映画のスチール写真を撮ってくれ」と言われ、それまで写真の経験もないのに断り切れずに渋々質屋でカメラを購入。2カ月後に映画の撮影所に行ったところ、当時全盛だったエノケン(榎本健一氏)を撮影することになり、「大変な苦労をしながら」(楠野さん)仕事を覚えたという。 その後、映画の仕事を辞めて改めて写真技術を学ぶため、オリエンタル写真工業(現・サイバーグラフィックス)で働いたが、数年で退職。アングラ(アンダーグラウンド)舞踊の芸術世界に傾倒し、新宿3丁目を拠点に活動。「暗黒舞踏」の世界では「裕司さんに(写真を)撮ってもらうと売れる」と評判になり、「夜の写真家」と呼ばれるようになった。 そのころ、「都市」という小説同人誌の表紙の写真に、篠山紀信氏や加納典明(てんめい)氏ら現代の有名写真家に交じって楠野さんも応募したところ採用され、そうした経歴が認められて71年に劇団「天井桟敷」の寺山氏に誘われてドイツ公演に同行した。当初は日本に戻るつもりだったが、兄の友繁さんを訪ねてブラジルに行ったところ、75年ごろにサンパウロで開催された「ナショナル・ビエンナーレ」に招待され、大竹富江氏をモデルにした写真が話題になったという。 また、76年にはサンパウロ・ビエンナーレにも出展。「日常の痕跡」というテーマで5×3メートルの水槽の中に自ら撮影したイメージ写真を入れ、写真の変化を表現する当時「空間アート」(現在のインスタレーション)と呼ばれた手法で、単なる写真ではない作品を仕上げた。 ブラジルでそうした楠野さんの作品が話題になる中、楠野さん自身は「日本では褒められたことなどなかったのに、ブラジルは何でもかんでも褒めたたえることが何か恐くなった」と、競争の激しい北米に拠点を移した。81年、10年ぶりに日本に戻り、日本の週刊誌の取材を受けた楠野さんだったが、「アメリカのアートについて語ってくれ」と言われて、「まだまだブラジルのことは日本では何にも知られていないのだな」と実感したという。 その後、86年に舞踏家の大野一雄氏(2010年に103歳で死去)のブラジル公演を、楠野さんがアートプロデューサーとしての最初の仕事を実現させたことが大きな転機となった。当時、日本ブラジル中央協会の会長を務めていた元在ブラジル全権大使の田付景一(たつけ・けいいち)氏と交渉し、国際交流基金に依頼するなどして大野氏の公演準備を行った。ブラジルでも当時はまだSESC(社会商業サービス)も資金的な影響力がなく、楠野さんが奔走して両国をつなぐイベントを実現させた。 「オーストラリアやニューヨークでは大きな感動を与えられなかった大野さんの公演が、ブラジルでは感極まった客が『神が降りてきた』と震えだすような感動を与えた。大野さんはブラジルに住みたいとまで言い出すし、本当に大きな話題になったね」と楠野さんは当時のことを振り返る。 そうした実績が評判となり、ブラジルで画家として活動後に舞台舞踊演出家として「アリクイの目」などを演出した実弟の隆夫さんの舞台を手掛けた。 また、95年の日伯修好100周年の際には作家・寺山修司氏主宰の劇団「天井桟敷」の作曲と演出を手掛けていたJAシーザー氏率いる幻想音楽劇団「万有引力」の作品で、イギリスのエジンバラ国際演劇祭で大賞を受賞した「砂」をSESCサンパウロの協力によりサンパウロ、サントス、パラチ、リオの4都市で公演。そのプロデュースを行い、特にパラチでは町中を使った野外劇を実現させるなど、連日超満員でブラジルのマスメディアでも大きく扱われ話題となった。 さらに、2008年には劇団「1980」の記念公演もプロデュースするなど、日伯間をつなぐ「仕掛け人」として裏方役に徹した。 しかし、隆夫さん(01年、55歳)、愛妻の秋葉なつみさん(07年、54歳)を相次いで亡くした後は気力を失い、その後は大型イベントも頓挫していた。 今年(14年)になって文化イベントの「仕掛け人」プロデューサーとしての意気込みが改めて自分自身の中にわき始めた楠野さん。「大切なのは能力よりも人との出会い。来年(15年)に向けて何かイベントを持ってきたい」と修好120周年に向けた文化交流で、日伯間のきずなをさらに深める仕掛けが始動しそうだ。(2014年8月号掲載)
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