小林操さん (2025/11/17)
「書いているうちに落ち着く心の安定感を通して、個性を字(絵)の中に表現できるのが楽しい」―。ブラジルで50代から書道と墨絵(すみえ)を始め、北辰(ほくしん)書道会準師範として指導を行う小林操(雅号(がごう)=月仙(げつせん))さん(87歳、茨城県出身)は、その魅力をこう語る。 30年以上続いているブラジル茨城県人会館での書道教室を、コロナ禍の影響で2020年3月から2年間ほどはオンライン形式で実施していたが、昨年(22年)6月から対面で再開。毎月第3土曜日に同会館で、日本人1世、日系人、非日系人など約20人が参加している。 茨城県常陸(ひたち)大宮市の久慈(くじ)川のほとりで、6人兄妹の三男として生まれた小林さん。父親はタバコの生産者農家で、長兄が農業を継いだ。小林さんは水戸市の高校を卒業後、茨城大学工学部に入学した。3年生の時には東海村の原子力研究所で実地研修を行い、原子炉用ジルコニウム金属材料の加工性について研究。卒論で発表した経験もある。大学卒業後は自動車等の部品製造会社「理研ピストンリング工業」に就職し、埼玉県熊谷市に転住。2年後には大学時代からの知り合いだった玲子さん(2020年8月、84歳で死去)と結婚した。 その頃、ブラジルから埼玉県人会の会長が日本に里帰りし、自動車の金型(かながた)製品などブラジルでの生産需要が増加するとの談話記事が地元の新聞に載った。その記事を目にした小林さんは「ブラジルに行って自分の技術を試したい」と思うようになったという。63年、27歳だった小林さんは工業移住者として、玲子さんとまだ生まれて5カ月だった長女を連れて「あるぜんちな丸」でブラジルに渡った。同船者には、「兄弟以上のつながりがあった」という理研ピストンリング工業の後輩で、後に一緒に書道教室で活動していた鈴木猛(たけし)氏(故人)もいた。 サントアンドレ市の日系人が運営する洗濯機会社を経て、自動車部品会社で数年勤務していた小林さんは、65年に後輩の鈴木氏らと3人の日本人の共同経営で「FREMAR金属工業有限会社」を立ち上げた。同社はトラクターなどの農業機械やディーゼルエンジンの部品、歯科用の椅子、レントゲン機器のほか、ヨーロッパ高速鉄道のブレーキ関連部品などを幅広く製造販売。当初は先行きの見通しがつかない中で、共同経営の2人は仕事を離れたが、小林さんの「信頼と技術」が次第に評価を得ていった。 「クボタ鉄工からブラジルに来ていた日本人の駐在員の方からは『持ちつ、持たれつで助け合いながらやっていきましょう』と言われ、多忙な時には好きに投資をしてもらってもいいと保証してくれていました。しかし、投資して間もなく、(91年当時の)コーロル大統領が資産凍結を行い、大変な思いをしました」と苦しい時代を振り返る小林さん。さらに、資産凍結で当時150人ほどいた従業員が賃上げ闘争を行い、会社の入口にトラックに旗を立ててバリゲードを築くなど、会社内に入れないこともあったという。 会社の仕事の傍ら、50代で書道を始めた。そのきっかけになったのが、親戚を通じて行方不明者を探してほしいとの依頼を受け、サンパウロ市にある茨城県人会を訪ねたことだった。その後、県人会に顔を出すようになった小林さんは、同県人会の重鎮で自身の書の作品が日本で展示されるなどしていた相良重三(さがら・じゅうぞう)氏と、日本の書道の教師資格を取った根本次男(つぎお)氏らと知り合い、書道を始めることに。両氏は当初、文協(現・ブラジル日本文化福祉協会)で書道愛好会の活動をしていたが、小林さんも加わり、91年に茨城県人会での書道教室を開設した。 当時、会社の仕事は忙しく、自宅に帰るのは夜の10時。その後、午前2時頃まで書道の練習を行い、翌朝は朝5時に起きて会社には6時に着くという生活だった。「よく続いたと思う」と笑う小林さんだが、中学校の頃は手や顔が汚れるのが嫌で、書道の授業が一番嫌いだったというから、人の人生というのは不思議なものだ。 98年には茨城県人会で墨絵教室も開始。その後、毎年7月に県連主催の日本祭りで書道のワークッショップを実施する中で、書道と墨絵が非日系人にも人気を得るようになったという。70歳頃からは会社を次男に任せたが、ブラジル各地で開催される日本祭りにも招待され、書道の活動をさらに広めていった。 今後の抱負について小林さんは、後継者づくりの重要性を説くが、若手は学業や仕事で忙しく、書道愛好者の高齢化もある中で、その難しさを実感している。「『書画一体』で文字と絵が互いに引き合いながら、両方とも楽しみながらやっていく。そういう人を探して育てることが大切だ」と理想を語る小林さん。「目標を持って、死ぬまで書道を続ける」と意気込みを表していた。(2023年4月号掲載)
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