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マツモトコージ苑
     2009年  (最終更新日 : 2026/07/15)
モンテアレグレ訪問記(前篇)

モンテアレグレ訪問記(前篇) (2026/07/07)  パラー州サンタレンから、アマゾン川本流を約百二十㎞下った対岸に位置するモンテアレグレ。町の中心部は高台にあり、そこからアマゾン川を一望できる眺めは、人々の心を雄大にさせる。同地への日本人移住は、一九三一年のアマゾン開拓団とされ、戦後は南拓(南米拓殖会社)農場跡のムラタ地区やアサイザール地区などにベルテーラ・ゴム園からの転住者を含めた移民たちが入植。整備されていない環境に脱耕者も相次いだという。二〇〇九年六月、半世紀ぶりの大雨の影響を受けて増水していた同地域を訪問。その様子を取材するとともに、モンテアレグレで今や数少なくなった日本人たちの話を聞いた。

(1)

 アマゾン日本移民六〇年記念史(汎アマゾニア日伯協会編)、東京農大卒業生アマゾン移住五十周年記念誌(同編集委員会)によると、南拓が第一回アマゾン移民を入植させるにあたって当時のパラー州政府からアカラー(現:トメアスー)に六十万町歩のコンセッション(条件付無償譲与)を得た際、モンテアレグレにも四十万町歩の土地が譲与されたという。
 一九二九年九月に南拓は、モンテアレグレの鉱山物資などの調査を行なうために調査員二人を派遣しており、この二人が日本人として初めて、同地に足を踏み入れたことになる。
 一九二九年、アカラー移住地に第一回アマゾン移民が入植した同年の十一月、南拓直営農場建設のために測量チームが派遣。モンテアレグレ市から約三十キロ離れたムラタ地区に農事試験場が設けられた。
 一九三一年には、大阪YMCA海外協会が結成したアマゾン開拓青年団(五反田貴己団長)四十七人が移住者として、ムラタ地区の約十キロ手前のサンタ・ローザ地区に入植した。
 しかし、その三か月後に開拓団は解散し、メンバーは離散。副団長だった平賀練吉夫妻と七人の青年が残ったが、その後、それぞれにトメアスー、ベレンなどに転住。上野浩爾(こうじ)さんが最後まで留まったが、〇八年十二月に死去。現在は、その子孫がモンテアレグレに在住している。
 戦後は、移民が再開した一九五三年から、南拓農場跡地を含む連邦植民地に日本移民が入植。五五年にはベルテーラ・ゴム園からの転住者がムラタ地区から約十キロ離れたドイス・ガーリョ地区に入ったという。
 ベルテーラからの転住者は、移住地が整備されておらず、生産物の運搬も困難な状態で、脱耕者が相次いだと言われている。
 一九六〇年代後半からは、東京農業大学出身者が入植。現在もモンテアレグレ市から約五十㎞離れたマカカ地区に、大竹秋廣さん(六三、静岡県出身)が健在で、ピメンタ、カフェ、マホガニーなどを混植したアグロフォレストリー(森林農業)を実践している。
 一九八〇年に創立したモンテアレグレ日本人会(石黒ジョルジ会長)の現在の会員数は約三十人。市郊外にある会館は二階建ての立派な建物で、野球場も完備されているが、皮肉なことに現在は会員が集まる機会が少なく、施設もあまり使用されていない状況だという。

(2)

 今回、モンテアレグレを訪問するにあたり、同地の農業調査を行なうという汎アマゾニア日伯協会(パラー州ベレン)の堤剛太事務局長、日本語学校関連の取材を実施するという北伯日本語普及センターに派遣されている中瀬洋子シニア、ブラジリアのJICA事務所から参加した吉田憲次長と行動を共にすることになった。
 六月三日夜、ベレンの空港でブラジリアから来た吉田次長と落ち合い、堤氏、中瀬氏らとともにベレンからサンタレンに向けて出発。日付が変わった夜中にサンタレン空港に到着し、市内のホテルにチェックインした。
 四日午前、堤事務局長の知り合いで、サンタレン在住の岩間健さん(五九、三重県出身)がホテルに迎えに来てくれ、市内を案内してくれる。
 岩間さんは、去る六月二十七日付けのサンパウロ新聞でも紹介した通り、現在同地で五軒の不動産を所有しており、セントロ地区にも自身の名前が付いたプレジオ(建物)がある。その中に車を停め、市の中心部の様子を見に行く。
 今年アマゾン地域は半世紀ぶりの大雨に見舞われ、サンタレンのセントロ地区でも一部の道路が、水に浸かっている。
 特に中心街のトラベッサ・ドス・マールチレスとラメイラ・ビッテンコート街が交差する場所では、水位が二、三十㎝ほど溜り、商店街には市が用意したという木製の特製歩道が建物の軒下に設置され、市民たちは、水溜りを避け、その上を歩いていた。
 商店街を抜けた川沿いの場所には、タパジョス川がなみなみと流れているのが見え、水位もかなり上昇している。
 岩間さんのは話では、三年前と二十年前にも水位が増加したことはあるが、「こんなには、ひどくなかった」という。
 記者が昨年(〇八年)十一月半ばに同地を訪問した際には、タパジョス川の水位は五、六メートルも下で、川べりにはフットボール場があり、地元の人たちがサッカーに興じていたほどだ。それが今では、川沿いの遊歩道の下、五十㎝の高さにまで水位が増えていた。
 午後から、岩間さんの厚意で同地域の観光地「アルテール・ド・ション」に連れて行ってもらう。ここでも目にしたのは、水位の高さだった。「南米のカリブ」と称される自慢の白い浜辺どころか、椰子葺(ぶ)きの売店も完全に水に浸かっており、椰子の屋根が水面に浮いているような異様な光景が広がっていた。
 地元で観光案内を行なうブラジル人に話を聞くと、水位は例年の九メートルも高く、「これだけの水が来たのは、初めてだ」と口を揃える。
 せっかく同地に来たので、一行皆で観光用のボートに同乗して周辺を見て回る。
 普段は歩いて行ける川沿いの家が浸水し、家の前の一メートルほどの高さの柵までが、水の下に沈んでいる有様だった。

(3)

 翌六月五日、午後二時にモンテアレグレ行きの船が出発するため、前夜にサンタレン日系人協会会長の矢野英樹氏の兄に当たる直樹さんから紹介された船の時間帯の再確認と、運賃支払いを目的に一行は午前中、セントロへと向かった。
 雨がぱらつく中、市内の路線バスでセントロまで行き、「ポルト・チラデンテス」という船着場で下車すると、各方面に行く船が並んで停泊していた。
 「プリンシペ・アマゾナス(アマゾン皇子)」という名称の船は、船内がオレンジ色にペイントされていた。船長であるアウグスト氏と面会。半袖短パン姿の船長は、七〇代近いと見られ、浅黒い顔に白髪ながら眼光は鋭い。それでいて愛嬌があり、矢野さんの紹介ということもあり、我々一行を温かく迎え入れてくれた。
 一旦ホテルに戻って荷物を取り、昼過ぎ、改めて船着場へ。出発時間までまだ一時間余りあるが、船内にはすでに多数のヘッジ(ハンモック)が吊ってあり、その上で揺られている客も少なくない。
 午後二時、時間通りに船が出港。サンタレンを離れる。船は約六十人乗りで、重さは約百四十トン。アウグスト船長が、「タパジョス川とアマゾン川本流の水の色の違いが分かる」として、操舵室前の眺めの良い場所を勧めてくれた。
 船が三十分ほど進むと、タパジョス川の青黒い色からアマゾン川独特の茶色い濁りへと変わっていくのが分かる。対岸方面を見渡すと、ところどころ今年の大雨で土地が浸水している部分が見える。
 モンテアレグレまでは下流へと向かうため、上りよりも乗船時間は短いが、それでも約五時間を要する。
 一行は、しばらくして船尾の売店に行き、ビールを飲みながら歓談。心地よい風に吹かれながら、ほろ酔いとなり、何とも言えぬ気持ち良さを体感する。水平線上では入道雲が少しずつ形を変えていき、自分たちがアマゾン地域に居ることを実感した。
 太陽が沈み、西の空が黄金色から青みを帯びた紺色へと変わる頃、モンテアレグレの町の灯りが見え出した。
 午後七時頃、下船。こちらの船着き場も、大雨の影響で、川に近い部分には数十㎝の深さで水が溜まっている。
 船着き場には、堤事務局長が事前に連絡していた高谷和夫さん(六一、長崎県出身)とモンテアレグレ日本人会副会長の上野ハイムンドさん(日系三世)が出迎えてくれ、小雨降る中、高台のホテルまで一行を連れて行ってくれた。ハイムンドさんは、昨年(〇八年)十二月に亡くなった上野浩爾(こうじ)さんの孫に当たるという。 
 ホテル横は大きな広場となっている。金曜日の夜ということもあり、生演奏を聞きながら、地元民たちがビール片手に楽しんでいる。若者たちが繰り出し、賑やかな音楽が大音量で聴こえる。
 ホテルに荷物を置き、町の中心街にある教会横にある広場で、高谷さんたちと一緒に夕食をとる。
 翌日の取材の打ち合わせなどを行ない、一行は散会した。

(4)

 翌六月六日、一行はそれぞれの目的に従って行動。記者は、前日に出迎えてくれた高谷和夫さん(六一、長崎県出身)に取材させてもらうため、モンテアレグレ市内の自宅へと連れて行ってもらう。
 七人兄妹の三男である和夫さんは、八〇年代から九〇年代までピメンタ(コショウ)栽培を中心に野菜なども生産していたが、現在は、鶏卵の仲売りや建築資材の仕事に携わっている。
 父親の古賀野(こがの)さん(故人)は、他人に使われる仕事が嫌で軍隊に入隊。満州事変にも加わったが、背中を被弾した経験を持っていた。
 戦後、経済的に苦しい生活の中、親友が先にブラジルに渡っていたこともあり、高谷一家は家族七人で一九五五年三月、ベルテーラ・ゴム移民として「あめりか丸」で神戸港を出港した。
 当時、和夫さんは八歳。ベレンから船でベルテーラに向かう中、ブラジル食やヘッジ(ハンモック)などには慣れなかったが、見るもの聞くものが新鮮で、「楽しくて仕方がなかった」という。
 ベルテーラには結局、二か月しか滞在できなかった高谷家族は、五、六家族が一緒になってモンテアレグレに行くことに。
 同地では、モンテアレグレの町から約三十五㎞入ったアサイザールで兄たちが中心となって米、豆類、トウモロコシなどを植え、葉タバコの生産も見よう見まねで行なった。また、ジュート麻の種子栽培を五年ほどやった後は、ピメンタ栽培にも着手した。
 入植して間もなく、マラリアに罹り、和夫さんは一週間意識不明になった経験もしている。同移住地には小学校しかなかったが、和夫さんはブラジル学校を卒業することなく、家族のために労働力を提供。また、ポルトガル語での簡単な通訳も行ない、家族を助けてきた。
 一九七四年、和夫さんが二十七歳の時、重機の修理技術などを学ぶため、事業団(現:JICA)の研修で渡伯以来初めての日本へ行くことに。
 「見るもの聞くものすべてに驚き、あまりの変わりようにびっくりしました」(和夫さん)
 福岡県を中心に、熊本や北海道にも足を伸ばし、一年半にわたる研修期間中、当時の事業団の所長から「良い人がおるぞ」と女性を紹介され、手紙を書いて会うことになった。
 それが現在の夫人である幸子さん(五八、長崎県出身)だ。
 「海外に出たいと思っていた」幸子さんの考えと一致し、後に花嫁移民としてモンテアレグレに呼び寄せた。
 和夫さんは、モンテアレグレに戻ってからも農作業などに力を注ぎ、地元農協の理事の一人として尽力。八〇年代には、トマトを中心にマナウスへの出荷用の船を購入し、販売担当責任者にも抜擢された。
 一回の輸送で一千箱以上のトマトを積み、六、七十時間かけてマナウスへと運ぶ。和夫さんも責任者として時々、船でマナウスに行くこともあったという。
 その間、楽しみもあった。青年時代から野球が得意な和夫さんは、移住地対抗の試合や連合チームを作っては、サンタレンなどに遠征していたこともあった。しかし、当時の仲間たちも今では、ほとんどいなくなってしまった。
 日本語も独学で勉強。子供に日本語能力を身につけさせるため、「励みになれば」と和夫さん自信も「五十歳を過ぎてから(能力試験の)一級を取った」。
 八〇年代からリモン地区などで大規模なピメンタ栽培も行なったが、八三年から現在の町に移ってきた。
 九七年には、長男が日本に出稼ぎに行くというので、半年間一緒に岐阜県の工場で働いた。
 町から約十㎞離れた場所に現在、養豚場の準備をしているという和夫さん。日本で出稼ぎしている長男の帰りを心待ちにしており、「息子とはなかなか考えが合わないが、今後は一緒に仕事ができれば」と考えている。
 父親の古賀野さんも「ここは天国じゃ」と、「日本に帰りたいとは言ったことがなかった」と和夫さん。
 「ここは本当に住みやすい。治安も良いし、涼しい風も通る」
 和夫さんは、モンテアレグレへの思いを持ち続けている。(後篇につづく)


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